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ゆるキャン△の聖地を行く20 その14  霊屋と天丼

2021年08月22日 | ゆるキャン△

 掛川古城の本丸にあたる、一番高い郭はいま龍華院の境内地に含まれますが、そのほぼ中央に江戸期の霊廟建築の遺構である龍華院大猷院霊屋があります。大猷院とは徳川家光の法名で、家光を祀る供養堂にあたります。

 

 この霊屋は明暦二年(1656)に掛川藩主の北条氏重が徳川家光の霊を祀るために寄進建立しました。それが文化十五年(1818)に焼失、文政五年(1822)に掛川藩主太田資始により再建されたのが現存の建物です。数少ない江戸期の霊屋の遺構として静岡県の有形文化財に指定されています。

 

 一段高く築かれて石柵で囲まれた方形区画の中央に霊屋が建ちます。手前の石仏も関連のものでしょうか。

 

 現在の霊屋の屋根は瓦葺ですが、再建時は柿葺(こけらぶき)だったそうです。内部には春日厨子が安置され、霊牌が祀られています。

 

 龍華院の門前の郭跡に移動しました。

 

 二段ほど下がって西端の郭に行くと、木々が伐採されていて視界が開けていました。掛川城天守がよく望まれました。

 

 デジカメの望遠モードで撮影。

 

 さらに望遠モードで引き寄せて撮影。このアングルは初めて見た気がしますので、新鮮でした。お茶を飲んで一休みしながら、しばらく眺めていました。

 この掛川古城は、現在の掛川城が築かれる前の当地の拠点として機能した城塞です。築城時期は不明ですが、「駿国雑志」では文明年間(1469~1487)に朝比奈泰煕(やすひろ)が今川義忠(義元の祖父)の命にて築かせたと記されます。
 当時は応仁の乱の最中であり、今川義忠は東軍の細川勝元に応じて上洛していたため、その本拠地駿河国に隣接する遠江国の西軍斯波義廉(よしかど)方の勢力への対抗策として築城したものと推定されます。

 斯波氏方の勢力がが没落した後は、信濃国の小笠原氏が遠江に侵攻しましたが、これに対抗するには不足であったためか、龍頭山と呼ばれた西側の丘一帯に現在の掛川城が築かれました。
 その後より掛川古城は新城の出城として機能したようですが、永禄十二年(1569)に徳川家康が掛川城を攻撃した際に攻め落とし、掛川城攻撃の本陣として使用したと伝わります。

 なので、上図の眺望は、掛川城を攻めた際の徳川家康がみたそれとあまり変わらないのでしょう。ただ、当時はまだ天守が存在せず、物見櫓程度の建物しかなかったと思われます。

 

 掛川古城を辞して、南にある掛川市立図書館に立ち寄って、約30分ほどかけて幾つかの調べ事をしたのち、旧三の丸広場へ回りました。掛川城中心部の東側、四足門の前を通りました。

 

 このアングルもなかなか良いですね。掛川城大手筋の重厚な縄張りの構えが感じられます。

 

 さて、この日の昼食は、かねて掛川市出身の京都造形芸術大学時代の学友に教えてもらった上図の和料理「天城」にていただきました。掛川城公園から掛川駅への通りの西側にあります。昭和29年創業の老舗で、天丼やカツ丼などを美味しく食わせるお店として地元民に親しまれているそうです。

 食べログでの紹介記事はこちら

 

 学友が「とにかく食べてみろよぉ・・」と勧めてくれた「天丼」を注文しました。味噌汁、漬物、ミニサラダが付いて1100円なり。

 

 いやー、ボリュームもあってサクサクでジューシーな天麩羅が大変に美味しゅうございました。  (続く)

 

コメント
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