今日も朝夕のストレッチは涼しい中で行った。9時、2カ月ぶりにババと車で都内の住宅に出かけた。環七はスムーズで1時間半に到着。昼食用にSCで菓子パンを買い込み、すぐにの膝まで繁茂した除草と業者2社との打ち合わせしていたら前の知り合いから新米を頂いた。帰宅途中の14時過ぎ焼く肉店で昼食と考えていたがババは炎暑で食欲を失い通過して、松戸のSCで夕食のお弁当を買い込み15時過ぎ帰宅し、水風呂とシャワーを浴びて近くのコンビニ」に「袋梨」540円を買いに出かけた。夜のストレッチは真っ暗な近くの公園で行った。
(小惑星の落下「火球」観測)
地球に近づいた小惑星がフィリピン上空で大気圏に突入することを予測し、5日未明にこの小惑星が「火球」となって落下するのを、京都大と国立天文台が石垣島天文台(沖縄県)から観測することに成功した。小惑星の落下を事前に予測して観測するのは国内初という。流れ星の中で、ひときわ明るいものが火球と呼ばれる。今回の小惑星は直径1mほどで、大気圏に突入して火球になったとみられる。京都大の有松亘特定助教(太陽系天文学)によると、この小惑星は4日に米国の観測者が発見。その後、数時間で世界中の研究者らが追加の観測を行って軌道を計算し、見られる時間や場所を予測した。この情報を基に、石垣島天文台では5日午前1時39分に火球を捉えた。
地球にぶつかる恐れのある小惑星の観測は、2013年2月にロシア中部チェリャビンスク州に落ちた隕石(推定直径17m)で1000人以上が負傷するなどの被害が出たことを受け、各国で急速に体制が整備された。今回の被害は確認されていない。
有松さんは「10m級の小惑星でも発見できるのは衝突直前になる。今回はそうした天体から地球を防衛する際の予行演習になった」と話している。
(信長・細川藤孝に奉公衆対策依頼文)
織田信長(1534~82年)が室町幕府滅亡の約1年前、将軍足利義昭の側近の武将、細川藤孝(1534~1610年)に宛て、「あなたの働きこそが重要」と、畿内の領主を信長側に引き入れるよう依頼した書状が発見された。信長と幕府側の関係が悪化する中、信長と内通していた藤孝が幕府滅亡に大きな役割を果たしたことを示す史料だ。 書状は、藤孝を初代とする大名細川家の文化財を管理する永青文庫(東京都文京区)が所蔵する史料群から発見され、同文庫と熊本大が6日、発表した。信長は義昭の将軍就任を支えたが、義昭側近の「奉公衆」には反信長の者もいた。書状は、元亀3年(1572年)8月15日に書かれ、信長は奉公衆の一人である藤孝に「今年は京衆(奉公衆)が誰一人、手紙や贈り物をよこさない中、初春にも太刀と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる」と謝意を述べている。
その上で、奉公衆と関係が近い畿内の領主らを「信長方に引き入れてください」と依頼。義昭は翌年2月、反信長の挙兵を行うが、畿内領主層の協力が得られず失敗した。書状からは、約半年前から信長と内通していた藤孝の動きが背景にあったことがうかがえる。熊本大の稲葉 継陽つぐはる 教授(日本中世・近世史)は「信長にとって頼みの綱だった藤孝が幕府滅亡のキーマンになったことが分かる」と話す。書状は、10月5日に始まる永青文庫の秋季展「信長の手紙」で公開される。
(小惑星の落下「火球」観測)
地球に近づいた小惑星がフィリピン上空で大気圏に突入することを予測し、5日未明にこの小惑星が「火球」となって落下するのを、京都大と国立天文台が石垣島天文台(沖縄県)から観測することに成功した。小惑星の落下を事前に予測して観測するのは国内初という。流れ星の中で、ひときわ明るいものが火球と呼ばれる。今回の小惑星は直径1mほどで、大気圏に突入して火球になったとみられる。京都大の有松亘特定助教(太陽系天文学)によると、この小惑星は4日に米国の観測者が発見。その後、数時間で世界中の研究者らが追加の観測を行って軌道を計算し、見られる時間や場所を予測した。この情報を基に、石垣島天文台では5日午前1時39分に火球を捉えた。
地球にぶつかる恐れのある小惑星の観測は、2013年2月にロシア中部チェリャビンスク州に落ちた隕石(推定直径17m)で1000人以上が負傷するなどの被害が出たことを受け、各国で急速に体制が整備された。今回の被害は確認されていない。
有松さんは「10m級の小惑星でも発見できるのは衝突直前になる。今回はそうした天体から地球を防衛する際の予行演習になった」と話している。
(信長・細川藤孝に奉公衆対策依頼文)
織田信長(1534~82年)が室町幕府滅亡の約1年前、将軍足利義昭の側近の武将、細川藤孝(1534~1610年)に宛て、「あなたの働きこそが重要」と、畿内の領主を信長側に引き入れるよう依頼した書状が発見された。信長と幕府側の関係が悪化する中、信長と内通していた藤孝が幕府滅亡に大きな役割を果たしたことを示す史料だ。 書状は、藤孝を初代とする大名細川家の文化財を管理する永青文庫(東京都文京区)が所蔵する史料群から発見され、同文庫と熊本大が6日、発表した。信長は義昭の将軍就任を支えたが、義昭側近の「奉公衆」には反信長の者もいた。書状は、元亀3年(1572年)8月15日に書かれ、信長は奉公衆の一人である藤孝に「今年は京衆(奉公衆)が誰一人、手紙や贈り物をよこさない中、初春にも太刀と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる」と謝意を述べている。
その上で、奉公衆と関係が近い畿内の領主らを「信長方に引き入れてください」と依頼。義昭は翌年2月、反信長の挙兵を行うが、畿内領主層の協力が得られず失敗した。書状からは、約半年前から信長と内通していた藤孝の動きが背景にあったことがうかがえる。熊本大の稲葉 継陽つぐはる 教授(日本中世・近世史)は「信長にとって頼みの綱だった藤孝が幕府滅亡のキーマンになったことが分かる」と話す。書状は、10月5日に始まる永青文庫の秋季展「信長の手紙」で公開される。