朝のストレッチは曇天の中となった。午前中の「まなびいプラザ」はババの友人と鶯谷の笹の雪の豆腐料理を頂くことになっているため、朝刊1紙を読んで帰宅した。11時に友人宅に車で迎えに行き、車を市役所駐車場に入れ、電車で松戸・日暮里と乗り継いで向かった。笹の雪旧店舗は尾久橋通りの交差点にあり、若い頃何回かいったことがあるのだが、移転の新店舗は子規庵隣に今年8月ビルとなって日暮里駅南口から道々聞きながらとなった。竹台大高校交差点で聞くとたまたま通りがかった落語家林家三平の息子婦人が道案内して頂いた。店は移転した自社ビルの1階が受付、2階がテーブルが10卓択程度の無機質の店舗で昔を知る当方はガッカリ。それでも豆腐料理はお意識頂いた。料金は税込みで4000円コースと5000円コースだが当方は4000円コースで予約していた。以前は木造和風造りで当時は下足番の男性おられ歴史を感じさせる趣がある大広間や個室で情緒のあるお庭を見ながら豆腐料理を頂いたのが懐かしい。食後、折角なので上野アメ横を散策しよう鶯谷駅から御徒町駅に出て、アメ横通りを上野駅に向かってそぞろ歩いが運動靴店や軽食店が多く雰囲気は大分変わっていて驚かされた。ババは二木の菓子で駄菓子を買い込み、上野駅から常磐線で松戸駅に戻ったが、昔は上野駅始発で座れたが北千住駅まで立たされた。電車はトラブルで松戸駅止まりとなったがラッキーにも新京成線では退社時間には早いので座席を確保でき疲れた体を労った。16時前新鎌ヶ谷駅でババは夕食の菓子パンを買っていたので一足先に市駐車場に向かったがババは疲れたのようでGSC前の歩道で転び、霧雨の中、帰宅して携帯電話を落としたのに気付き、ババは市役所駐車場で落としたと主張するので市役所受付に相談すると届けなし。次に転んだとき落としたのではと交番に行くと届けられていて落着。人間は思い違いや思い込みは良くあることと再確認した。転んだ当時は小雨模様だったので雨が降る前に交番に届けていただいたことは幸運だった。夕食後ババの顔側面が晴れて歯に響くというので歯医者出かけたが治療できず後日となった。
(笹乃雪)
笹乃雪は、東京は台東区根岸にある創業三百二十年の豆腐料理専門店です。当時の製法そのままににがりと湧き水のみを使用した豆富。おとうふは漢字で「豆腐」記載とされる。9代目店主が料理店で「腐」はふさわしくないとの理由でで「豆富」としたという。約340年前、初代が親王のお供で京都から江戸に移り、初めて絹ごし「豆富」を発明し、根岸の地で豆富茶屋を開いたという。親王は「笹の上に積もりし雪の如く美しいよ」と賞賛。屋号を「笹乃雪」とたという。現在も店内に看板がかかけられている。
(子規庵)
俳句、短歌の改革者・正岡子規が命の炎を燃やし尽くした家。元々は旧加賀藩前田家下屋敷の侍長屋の二軒続きの一軒だったという。子規は故郷松山から母八重と妹・律を呼び寄せ、明治27年2月にこの家に移り住んだ。(当時の地番は、下谷区上根岸町82番地)。子規は寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)文学の近代化のため精力的に情報発信し続け8年半後の明治35年9月19日、糸瓜の3句をを絶筆として34歳11カ月の生涯を閉じた。子規の周りには俳人の高浜虚子、河東碧梧桐、寒川鼠骨、歌人の伊藤左千夫、長塚節ら後進の指導をし続けた。
(ねぎし三平堂)
昭和の爆笑王と賞讃された林家三平の笑いの精神を受け継ぐ東京都台東区の施設。林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語の殻を大きく破った三平落語の世界を創り上げ、自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号となった。館内には、林家三平の思い出の品々、台本、衣装、ネタ帳、レコード、名刺、双眼鏡などが展示されています。また高座では、毎月第3土曜日に「三平落語会」を開催している。
(笹乃雪)
笹乃雪は、東京は台東区根岸にある創業三百二十年の豆腐料理専門店です。当時の製法そのままににがりと湧き水のみを使用した豆富。おとうふは漢字で「豆腐」記載とされる。9代目店主が料理店で「腐」はふさわしくないとの理由でで「豆富」としたという。約340年前、初代が親王のお供で京都から江戸に移り、初めて絹ごし「豆富」を発明し、根岸の地で豆富茶屋を開いたという。親王は「笹の上に積もりし雪の如く美しいよ」と賞賛。屋号を「笹乃雪」とたという。現在も店内に看板がかかけられている。
(子規庵)
俳句、短歌の改革者・正岡子規が命の炎を燃やし尽くした家。元々は旧加賀藩前田家下屋敷の侍長屋の二軒続きの一軒だったという。子規は故郷松山から母八重と妹・律を呼び寄せ、明治27年2月にこの家に移り住んだ。(当時の地番は、下谷区上根岸町82番地)。子規は寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)文学の近代化のため精力的に情報発信し続け8年半後の明治35年9月19日、糸瓜の3句をを絶筆として34歳11カ月の生涯を閉じた。子規の周りには俳人の高浜虚子、河東碧梧桐、寒川鼠骨、歌人の伊藤左千夫、長塚節ら後進の指導をし続けた。
(ねぎし三平堂)
昭和の爆笑王と賞讃された林家三平の笑いの精神を受け継ぐ東京都台東区の施設。林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語の殻を大きく破った三平落語の世界を創り上げ、自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号となった。館内には、林家三平の思い出の品々、台本、衣装、ネタ帳、レコード、名刺、双眼鏡などが展示されています。また高座では、毎月第3土曜日に「三平落語会」を開催している。