午前中雨模様の中、「まなびいプラザ」からSCに菓子パンを買いに行く頃から弱い日差しが出始めた。午後「図書館」が再開したので高田郁「著あい・永遠に在り(下)」を1月ぶりに返却した。何気なく図書館の書架から手にしたのだが読んで深く感動した。夕刊を読んで帰宅の途についたが蒸し暑く汗を掻いた。夜のストレッチは涼しさと蒸し暑さで変な気持ちになった。
(あい・永遠に在り(上下))
関寛斎は徳富蘆花や司馬遼太郎を含め多くの作家が題材とした実在の人物という。文政13年(1830年)、上総国東中(現在の千葉県東金市)で農家の子として生まれる。親戚筋の関俊輔の養子に入り儒家関俊輔に薫陶され、長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭方医学を学び、近在の農家出身「あい」と夫婦となり、「あい」は得意の手織り木綿で関寛斎を助け12人の子供を生した。26歳の時に銚子で開業。豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学し、オランダ人医師ヨハネス・ポンペ.フアン・メーデルフォールトに最新の医学を学び、銚子で開業。その後阿波国徳島藩蜂須賀家の典医となり慶応4年(1868年)、藩主蜂須賀斉裕の死を看取る。戊辰戦争)では官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る。生まれは農家だが、明治維新後は士族とされた。信ずるところあって徳島に帰り一町医者として働き、貧しい人々には無料で診療し、種痘の普及に尽力し、「関大明神」と慕われる。明治35年(1902年)、72歳にして一念発起し、徳島を離れ北海道に渡る。原野だった陸別の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。のちにこの土地を開放し、自作農創設を志すが果たせず、大正元年(1912年)、82歳にして服毒により自らの命を絶つ。
寛斎は非常に几帳面で筆まめな性格で数多くの日記を残していたという。けれど、妻・あいに関しては「婆はわしより偉かった」など寛斎の言葉が残されているだけで著者・高田郁氏が関寛斎資料館や研究者、関係者の取材から構想して「あい・永遠に在り」単行本にされたもの。関寛斎・あい夫婦は寛斎を開拓の祖と仰ぐ北海道陸別町を見渡せる小高い丘に一緒に眠っているとあとがきに記されている。
(新型コロナウイルスワクチンの定期接種開始)
冬の感染症の流行に備えるため、自治体による新型コロナウイルスワクチンの定期接種が1日、始まった。感染症法上の「5類」に移行して約1年半になるが、例年、新型コロナは夏に流行した後に一旦収束し、冬の到来とともに再び感染が拡大する傾向があり、今冬も流行が予想される。今後の感染状況について、感染症に詳しい東京医科大の濱田篤郎客員教授は「冬は呼吸器感染症が流行しやすい時期で、新型コロナも再燃する」とする。今夏の流行ではオミクロン株の変異株「KP・3」が主流だったが、現状、新たな変異株は出現していないといい、「今年の冬もKP系統が流行するとみられ、感染状況に大きな変化はないだろう」という。国内では令和3年にワクチン接種が開始。昨年度まで臨時接種として、対象者には接種の「努力義務」が課せられていたが、今年度からは接種に努力義務がない定期接種となった。新型コロナの感染が初めて確認されてから4年半余りが経過し、国内の人口の約8割が1、2回目のワクチン接種を終えている。濱田氏は「感染して免疫ができた人も含め、基礎免疫ができている状況。ただ、免疫が減って感染した場合、高齢者は重症化しやすいため、高齢者へのワクチンの追加接種が推奨されている」と説明する。新型コロナの流行は収束したと思われがちだが、今も新型コロナで亡くなる人は少なくない。厚生労働省の人口動態統計によると、令和5年に新型コロナで死亡した人は3万8080人に上り、同年のインフルエンザによる死者数の1382人を大幅に上回る。また、新型コロナでの入院や集中治療室(ICU)に入る患者は高齢者が多く占め、依然として高齢者や基礎疾患のある人のリスクは高い。濱田氏は「定期接種の対象者はできれば接種していただきたい。接種後も感染の可能性はあるが、重症化を防ぐエビデンス(裏付け)は出ている」と話す。
(夕刊紙「夕刊フジ」25年1月休刊)
産経新聞社は1日、発行する夕刊紙「夕刊フジ」を、2025年1月31日の発行を最後に休刊すると発表した。新聞用紙などの原材料費や輸送コストの上昇が続くなか、デジタル端末の普及などで購読機会が減り、「夕刊紙として一定の役割を終えた」と判断したという。夕刊フジ電子版も同日を最後に休刊する。同紙は昭和44(1969)年からタブロイドサイズの夕刊紙として創刊。以来、「オレンジ色のニクい奴」のキャッチコーピで、勤め帰りのサラリマンらに独自の切り口でニュースを届けてた。
同紙発行の健康情報紙「健活手帖」も11月の発行をもって最終号となる。富山県内での産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジの発行を9月30日で休止すると発表した。
(あい・永遠に在り(上下))
関寛斎は徳富蘆花や司馬遼太郎を含め多くの作家が題材とした実在の人物という。文政13年(1830年)、上総国東中(現在の千葉県東金市)で農家の子として生まれる。親戚筋の関俊輔の養子に入り儒家関俊輔に薫陶され、長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭方医学を学び、近在の農家出身「あい」と夫婦となり、「あい」は得意の手織り木綿で関寛斎を助け12人の子供を生した。26歳の時に銚子で開業。豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学し、オランダ人医師ヨハネス・ポンペ.フアン・メーデルフォールトに最新の医学を学び、銚子で開業。その後阿波国徳島藩蜂須賀家の典医となり慶応4年(1868年)、藩主蜂須賀斉裕の死を看取る。戊辰戦争)では官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る。生まれは農家だが、明治維新後は士族とされた。信ずるところあって徳島に帰り一町医者として働き、貧しい人々には無料で診療し、種痘の普及に尽力し、「関大明神」と慕われる。明治35年(1902年)、72歳にして一念発起し、徳島を離れ北海道に渡る。原野だった陸別の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。のちにこの土地を開放し、自作農創設を志すが果たせず、大正元年(1912年)、82歳にして服毒により自らの命を絶つ。
寛斎は非常に几帳面で筆まめな性格で数多くの日記を残していたという。けれど、妻・あいに関しては「婆はわしより偉かった」など寛斎の言葉が残されているだけで著者・高田郁氏が関寛斎資料館や研究者、関係者の取材から構想して「あい・永遠に在り」単行本にされたもの。関寛斎・あい夫婦は寛斎を開拓の祖と仰ぐ北海道陸別町を見渡せる小高い丘に一緒に眠っているとあとがきに記されている。
(新型コロナウイルスワクチンの定期接種開始)
冬の感染症の流行に備えるため、自治体による新型コロナウイルスワクチンの定期接種が1日、始まった。感染症法上の「5類」に移行して約1年半になるが、例年、新型コロナは夏に流行した後に一旦収束し、冬の到来とともに再び感染が拡大する傾向があり、今冬も流行が予想される。今後の感染状況について、感染症に詳しい東京医科大の濱田篤郎客員教授は「冬は呼吸器感染症が流行しやすい時期で、新型コロナも再燃する」とする。今夏の流行ではオミクロン株の変異株「KP・3」が主流だったが、現状、新たな変異株は出現していないといい、「今年の冬もKP系統が流行するとみられ、感染状況に大きな変化はないだろう」という。国内では令和3年にワクチン接種が開始。昨年度まで臨時接種として、対象者には接種の「努力義務」が課せられていたが、今年度からは接種に努力義務がない定期接種となった。新型コロナの感染が初めて確認されてから4年半余りが経過し、国内の人口の約8割が1、2回目のワクチン接種を終えている。濱田氏は「感染して免疫ができた人も含め、基礎免疫ができている状況。ただ、免疫が減って感染した場合、高齢者は重症化しやすいため、高齢者へのワクチンの追加接種が推奨されている」と説明する。新型コロナの流行は収束したと思われがちだが、今も新型コロナで亡くなる人は少なくない。厚生労働省の人口動態統計によると、令和5年に新型コロナで死亡した人は3万8080人に上り、同年のインフルエンザによる死者数の1382人を大幅に上回る。また、新型コロナでの入院や集中治療室(ICU)に入る患者は高齢者が多く占め、依然として高齢者や基礎疾患のある人のリスクは高い。濱田氏は「定期接種の対象者はできれば接種していただきたい。接種後も感染の可能性はあるが、重症化を防ぐエビデンス(裏付け)は出ている」と話す。
(夕刊紙「夕刊フジ」25年1月休刊)
産経新聞社は1日、発行する夕刊紙「夕刊フジ」を、2025年1月31日の発行を最後に休刊すると発表した。新聞用紙などの原材料費や輸送コストの上昇が続くなか、デジタル端末の普及などで購読機会が減り、「夕刊紙として一定の役割を終えた」と判断したという。夕刊フジ電子版も同日を最後に休刊する。同紙は昭和44(1969)年からタブロイドサイズの夕刊紙として創刊。以来、「オレンジ色のニクい奴」のキャッチコーピで、勤め帰りのサラリマンらに独自の切り口でニュースを届けてた。
同紙発行の健康情報紙「健活手帖」も11月の発行をもって最終号となる。富山県内での産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジの発行を9月30日で休止すると発表した。