真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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ピーター・ウィアーの最高峰『ピクニック・アット・ハンギングロック』

2010-12-15 | 映画作家






オーストラリア出身のピーター・ウィアーは80年代に日本でも注目された。当時、ウィアーを「シドニー派」、『マッドマックス』のジョージ・ミラーを「メルボルン派」としていたが、前者が44年、後者が45年生まれで、個性は対照的だが、ともにオーストラリアとアメリカをまたにかけたキャリアは長い。
 ウィアーの『誓い』は若きメル・ギブソンを起用した第一次大戦におけるガリポリ戦線を描いた痛ましい青春映画で、『西部戦線異常なし』を思わせる作品だった。『危険な年』ではギブソンとシガニー・ウィーヴァーを起用し、スカルノ政権下の現実を報道するジャーナリストと大使館勤務の女性の恋愛を描いた。この作品ではリンダ・ハントを謎めいた男性カメラマン役として使い、彼女にアカデミー賞をもたらした。これらの成功でアメリカに進出。ハリソン・フォード主演で『刑事ジョン・ブック/目撃者』『モスキート・コースト』を発表。いずれも異文化と出会う西欧人の姿を描いている。文化と文化の衝突もしくは価値観の衝突というテーマは、やがてアザーサイドへと突き抜ける。ジェフ・ブリッジス主演の『フィアレス』は飛行機事故から生還した男が「生き死に」の実感を失ってしまう物語だった。以後もジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』などジャンルの壁を越えた異色作を連打し、独自のキャリアを築いたのである。

 しかし、そんなウィアーの真にオリジナルな傑作はオーストラリア時代の作品。白人が直面するアボリジニの神秘をミステリアスに描いた『ラスト・ウェーブ』、そして『ピクニックatハンギングロック』かもしれない。後者は、寄宿学校に暮らす少女たちが神隠しにあうという物語である(ソフィア・コッポラのフェイバリットでもあり、彼女の『ヴァージン・スーサイズ』への影響は計り知れない)。
 『ピクニックatハンギング・ロック』にはアール・ヌーヴォーのスティル・フロレアルと、岩山を象徴とするオーストラリアの原始的・太古的な超感覚の世界が共存している。ここで少女たちは夢を生きて、目を伏せ、目覚めを拒絶している。「物事はみな、始まり、そして終わる。定められた時と場所で」――この言葉が映画のすべてを言い表している。少女のひとりはピクニック場所でくつろぐ仲間たちを見下ろして呟く――「まるでアリよ。目的のない人間がなんて多いの。あの人たちもたぶん自分でもわからない役割を果たしているのね」。そしてその直後、岩山のなかへ消えていく。この超現実的な出来事が残された人々に波紋を及ぼしていくのである。
 冒頭、エドガー・アラン・ポーの「私たちが見るものも、私たちの姿もただの夢、すべては夢の中の夢」という詩が引用される。新世紀の始まりと過去の終焉の狭間で、永遠なる少女たちと対照的に滅びゆくのが校長である。扮するレイチェル・ロバーツも80年に自殺してしまった。
 70年代のアメリカの映画はより原初的なものや土俗的なものへの傾向が目立ったが、同時期のオーストラリアのニューウェーヴたちも西洋文明とアボリジニの世界を対照していた。ウィアーは「オーストラリア人たち、我々は、夢を見ることを失ってしまって久しい。アボリジニーはたちは今でも、夢に触れることができる」と語っているが、同じ頃にイギリス人のニコラス・ローグが『美しき冒険旅行』が超現実的な感覚で描いたオーストラリアの原野もそうした文明批評だった。これと似たモチーフが頻出する『荒野の千鳥足』は保安官が牛耳るむさ苦しき男ばかりの荒野の町から逃れられない男の悪夢の如き物語で、『砂の女』の「豪州荒野版」といった趣もあり、『ピクニックatハンギングロック』の少女たちとは対照的な男の汗の粘っこさ。他の追随を許さない異色作として一見の価値がある。
(渡部幻)









渡部幻