ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

私の少女マンガ読歴~特に吉田秋生への悲愴な思いを~2

2018-10-20 07:12:24 | マンガ


そして・・・「BANANA FISH」3巻で私は読むのをやめた。「カリフォルニア物語」の時に感じていたような思いはすっかりなくなっていた。
その当時、どうしてそうなってしまったのか、はっきりと認識していたかどうか、よく覚えていない。
ただ、アッシュの天才性があまり好きになれなかったのは我慢できるとしても英二のキャラの甘さがどうしても好きになれなかったからのようにも思えていた。
そしてあれほど好きだった吉田秋生の作品をそれから読むことはなくなった。

読むことはなくなった、というのは少し嘘で時折、確かめるように見ていたのではある。
ただそれは、やはりあの時感じた「嫌な感じ」を確認するだけだった。それはますます強調されていくのを感じさせた。
なんだろう、この嫌な感じ、とは。

時折に見る感覚をもう一度調べたくて「YASHA」を7巻まで読んでみた。
他にも少し目を通してみた。

あれほど好きだった吉田秋生を私が敬遠したくなった理由は、彼女が「男への復讐」を描き始めたからだった。

「男への復讐」というのは私がまだ言葉を見つけきれずに使っている言葉でしかないのだけど、今のところそれしか思いつかない。

「男への復讐」というのは特定の誰か、ということではなく、言えば人類が始まって以来古今東西の男たち、そしてその男たちが絵画や小説や映画やマンガで描いてきたことへの復讐、なのである。

そう、古今東西、様々な作品というのは男たちによって作られてきた。男の目を通し、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、男の頭脳によって識別され判断され好悪されそれを様々な作品として形成されてきた。
その中で男たちはヒーローを生み出し、敵を生み出し、女たちはその間で様々に利用された。男たちの欲望のままに母とされ妻とされ娘とされ恋人と愛人と売春婦と毒婦といかがわしい女と虐げられ、男たちの間である女は女神とされ、ある女はその場限りの欲望のままに強姦され殺される存在でもあった。女たちはそういう男たちが作った作品を見、読むことしかできなかった。反論してもその声は小さく聞き逃され、あるいは「女にはわからない」という言葉でねじ伏せられた。
そんな中で少しずつ女たちが作品を作り出していった。
最初はあざけられ、認められなかった女の歴史の中で少しずつ女たちは成長していった。
「少女マンガ」という世界も同じだ。
かつては「マンガ」という時、それは同時に少年マンガそして青年マンガを意味していて「少女マンガ」はほぼ蚊帳の外だった。マンガ特集なんていうタイトルの本を見ても中身はほぼ少年マンガであったりした。今は少し変わってきたことを願っているが。
小説もまた「女流小説家」という言葉が最近まで頻繁に使われていた。「女の目で見た」とか「女の感性」などという言葉で形容されることが多いが、「男の目」「男の感性」とは言わない。それは当然のことだからだ。

「少女マンガ」の中で女たちは次々と女たちの言葉を語りだしていった。
24年組、と呼ばれる少女マンガ家たちは際立った作家性を作り出した。吉田秋生、という存在はそれに続く形だったと思う。

先代たちも「女、という苦痛」を背負い作品を描いていた。彼女たちが主人公を女性ではなく男性にするのもそういう「女の不自由さ・重さ」から逃れたいからだと言っている。
萩尾望都・竹宮惠子は少年を描くことで自由を得た。それまで男たちが作品の中で少女たち、女たちが受けてきた苦痛を少年たち男たちに受けさせることで表現する、という手法を作り出したのだ。
そしてその苦痛を与えるものが女ではなく男だというのも書き手の意識が働いている。

吉田秋生はさらにその手法を明確にしていっただけ、なのかもしれない。
私はその一線をどこに引くかで好き嫌いを決めただけかもしれない。

吉田秋生は「男への復讐」を次々と描いていると思う。その描き方が私はとても辛いのだ。辛くて見ていられなくてやめたのだ。

「カリフォルニア物語」でもその片鱗はあったがそこまで感じられてはなかった。
「吉祥天女」では美しいヒロインが男たちからの性的暴力に対しての復讐が描かれる。ヒロインは何度も男たちの欲望と女たちの苦痛を語り超人的ともいえる能力で男たちをやり込める。
そして「BANANA FISH」では男であるアッシュに「女たちの苦痛」を受けさせ復讐させていく。
 
後は様々な物語の中で繰り返し、男の欲望とそれに対しての女の苦痛と復讐をある時は美貌の男を介して続けているように思える。
「海街daiary」でもそういう描写があり、私は「吉田秋生は男への復讐を描くために少女マンガを描き続けてきたのだな」と思ったのだ。

これは別に吉田秋生に限ったわけではない、他の女性作家にしても「今まで男たちが女の登場人物にいかに性的な暴力を加え続けてきたか、に復讐している」と感じられることはよくある。
美しい容姿を持った男アッシュが多くの男たちの性的欲望をかき立て犯されてきたこと、そしてそのことに対して暴力で仕返しすることへの快感を女読者たちは求めるのだ。

SNSでも女たちが男たちの性的欲望からなる暴力に怒りの言葉を発しそれへの復讐を様々にしているのを見せつけられる。ある男たちは「どうしてそんなに怒るのだ?」と怒れる女たちに問うが、古今東西男たちが女たちに向けた性的暴力(しかも今も続く)をすべて怒りつくさねばそれが収まることはないのだろう。しかもそんなことはあり得ない。

吉田秋生の復讐の効果はあったのだろうか?
少なくとも私は彼女の作品がそういう描き方をされている、というのをまだ読んだことがない。
しかもその効果は男性に及ばなければ意味はないのだ。
女性がそういう意識を持つ、という意味合いならあったのかもしれない。

女性が復讐心を持つということに、私はそれはそうだが悲しいことでもある、と思ってしまうのだ。

一方、萩尾望都に対しては8年ほどの間隔を置いてから「残酷な神が支配する」を読んで萩尾氏もそういう「男への復讐」と思える話を描いてるのが辛く、再び読むのをやめた。
それから10年以上読んでいなかったのだが、ある時それまでに読まないでいた「マージナル」以降の作品を読み、非常に後悔した。
バレエマンガや「バルバラ異界」など素晴らしい優れたマンガ作品だった。
特に「バルバラ異界」は萩尾望都が抱えている「親への復讐」という重荷が取れたかのような親の目線での作品でありしかもずば抜けたSFであり、感動だった。

復讐心をもってしまうのは仕方ない。そしてそれから生まれる作品が独特のパワーを持つことも判る。
でもそれから先にある作品が生まれることを希望したいのだ。



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