ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「私の男」熊切和嘉

2019-02-26 07:11:43 | 映画


桜庭一樹原作と後で知ったけどそれは読んでいないのでここで書くのは映画「私の男」についてです。

映画を観る前は大概の場合役者とあらすじ程度は調べるものですなのね。主演の浅野忠信はとても好きな人なので文句なしなのですがどうやら「両親を失った少女が養父となった男と性的関係を続けていく話」と知って手に取るのをためらっていました。そういう類の話は手垢がつき過ぎてうんざりだしどうせ「ありきたりのロリコンもの」だろうと思ってしまったわけです。
ところが先日岡田斗司夫氏の以前の動画を見ていたらある人からの「この映画のどこが良いのかわからない」という問いかけに岡田氏が「見る人によってはっきりわかれるよね、それだけじゃない」という答えをしていたので見たくなり、まだ期限になっていないアマゾンプライムにあったのでちょうどよく鑑賞しました。


なるほど美しい映像は素晴らしいし浅野忠信はいつも通り彼らしい静かな演技で惹きつけられるものでしたし女優の二階堂ふみは初めて(と思いますが)観ましたがとても魅力的な表情を見せてくれました。
そして内容は私が最初想像したような「ありきたりのロリコンもの」とは大きく違いました。というか浅野忠信がそういういつものパターン映画に出るわけもないので彼を信じるべきでありましたよ。

が「ロリコンもの」という表現はある意味当たっていたかもしれません。「ありきたりじゃないロリコンもの」だったわけです。
というのはこの「私の男」はナボコフの「ロリータ」というクエスチョンへのアンサーのひとつではないのかと思ったからです。

ここでちょっと読んでいない原作小説への思いを寄せます。というのは映画監督は男性ですが原作者の桜庭一樹氏は女性であり、女性だからこそのこの物語ではないかと思うからです。


さて映画とナボコフの「ロリータ」のネタバレになります。ご注意を。

ナボコフの「ロリータ」は凄く面白い小説です。そしていろいろ考えさせてくれます。
「ロリータ」はあくまでも中年男の独白による一人称小説でロリータである少女の思いは微塵も書かれていません。一人称だから書きようがないわけでそこがまさにこの小説のトリックであり醍醐味なのですが、ここでちょっとその部分を知りたくなってKindleの無料サンプルだけ読んでみました。
思った通り(というのもなんですが)少女側の独白による一人称で書かれていました。
勿論桜庭一樹氏は「ロリータ」の女性側版というような単純な実験だけをしているのではなく一つの作品として優れたものに作り上げているのだと思います。
が、親が死んだことで養父になる、それも仕方なくというような成り行きではなく男側が積極的に養父になる、という部分にも一つの「鍵」を感じます。
「ロリータ」の男の一人称で疑問となるのは「ロリータは男との性交を実際はどう思っていたのか」ということが一つなのですね。一人称ならどうとでも書ける(もともと小説だから奇妙な表現ではありますが「ほんとうは気持ち悪い」と思っていても一人称なら「彼女の方から誘ったのだ」と嘘が書ける)からです。

「私の男」ではそこは同じようにロリータである「花」は男に対して仕掛けていきます。淳悟が花を襲ったのではなく花が淳悟を襲ったわけです。
そして淳悟は花に溺れ、花も淳悟に欲情していきます。

実はここがとても重要なのです。
もしこの物語を「ロリコンである日本人男性」が書いていたら「何も知らない花を淳悟が襲い、最初は恐れ抵抗していた花が次第に淳悟になついていく」というような展開をしていたのではないかと思います。
そういったものを「ありきたりのロリコンもの」だと考えて嫌っていたのですが本作はこれが真逆になっています。

女性も感じ方は様々ですから絶対ということは言えませんがこうした「中年男から無理やり犯され次第に喜びを感じ年を取っていく前に終わり」といったパターンは女性にとっては腹立たしい筋書きではないでしょうか。
あの最高級の古典である「源氏物語」がそのパターンで、そのためにあの物語は長きにわたって男性からの支持を受けたのではあるでしょう。紫式部は女性だと思いますがそのエピソードにおいて紫式部は紫の上を決して幸福になった女性ではなく不幸だったと描いているように私には思えます。


男性である映画監督熊切氏がどのように考えたのかはわかりませんが少なくとも映画はロリータである花の視点で描かれていると私は思いました。
淳悟は家族の愛を知らない男です。家族の愛を渇望しそれを手に入れ与えられました。
愛を受け入れたのはロリータである花ではなく、この作品では男の淳悟の方なのです。
花は淳悟にとって実の娘であり、同時に愛そのものであり、それなしに生きてはいけないものなのです。

花が成長し「他の男」と結婚するというところもナボコフの「ロリータ」と同じです。
が、その先は違います。
ロリコンであっただろうナボコフはここで養父ハンバートを去らせます。
ナボコフはハンバートにロリータと過ごした時間だけを与えましたが本作では花は淳悟を退出させません。
淳悟はこの後もずっと苦しまねばならないのです。
「ロリータ」では殺人が物語に決着をつける綺麗ごとになっていますが「私の男」での殺人はずっと引きずらねばならない怨霊のようなものです。
「ロリコンもの」では常に少女が犠牲者ですがこの物語では中年男が犠牲者となっています。「そう描きたい」「少女が加害者であり中年男が犠牲者なのだ」という物語なのであり、だからこそ女性がこれを見た時にどこかぞくりとする愉悦感を覚えるのです。

もちろんそう感じない人もいるでしょう。ネット記事で「私の男」映画上映の際に「私は被害者女性です」と訴え出た女性がいたというのを読みました。
少女期に性被害者になった女性は本当に気の毒ですがだからこそこの映画においては女性が加害者であってもいいのではないか、「いいのではないか」というのはまた奇妙な表現になってしまうのですが女性が常に被害者犠牲者になってしまう男性社会への殴り込み、という気概を私は感じました。
林真理子氏の原作小説に対する嫌悪感の記事も見ましたが(原作完読してはいないけど)かなり勘違いされていると思えます。
勘違いではなく、父娘で性交している、という事柄自体が気持ち悪くて作品の意味合いなどどうでもいい、ということなら確かにそこは「フィクションである作品をどう解析していくかは人それぞれ」なので仕方ないことでありましょう。

この文章を書く前に「BLにおける受けと攻めの価値」というような文を読みました。
女性が描く男性同性愛作品に男性同士でありながら「受け=モノを入れられる方=女性側=格下」「攻め=モノを入れる方=男性側=格上」という図式が常に問題視されるのは何故だ?というもので長年そういうものを見ている自分にとっても面白かったのですが、本作もまたそこが問題となるわけです。
「受け=モノを入れられる方=女性側=格下」であることを疑問もなく描ける者とそこに疑問を持つ者がいるわけです。
「受け=モノを入れられる方=女性側=格下」という図式は真実なのか?

本作での花は「女性」であり言葉としては「モノを入れられる方」なのも間違いではありませんが日本語としては「モノを入れる方」とも書けるわけです。この場合相手は「モノを入れさせられた」とでも書くのですかね。
そのうえで精神的には「受け」とはいいがたい「攻め」であり「格上」なわけです。

淳悟は「男性」であり「モノを入れさせられる」であり精神的に「受け」であり「格下」なのだと描くのです。

そんなことはあり得ない、でしょうか。
しかし当たり前のことを描くのが映画なのでしょうか。
ここではロリータである花が中年男の淳悟を手に入れたのです。






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