風色明媚

     ふうしょくめいび : 「二木一郎 日本画 ウェブサイトギャラリー」付属ブログ

3月25日火曜日

2008年03月25日 | 仕事場
前回の「仕事場」の記事は2月29日でしたから、また一月ほどご無沙汰してしまいました。
あの時の作品はこういう状態でした。



これには一番肝心なモノがまだ一筆も描いてありませんでした。
彩色を始めてからも遅々として進まず、他の作品に手を入れながら眺めるばかりの日々が続いていました。
本来はもっと何度も途中経過を掲載する予定でいたのですが、あまりにも漠然とした画面から脱却できずに掲載する勇気が出ませんでした。

今日、52歳の誕生日を記念(?)して何を描いているのかを発表します。



正解は花火でした。

長野県・諏訪湖の湖上花火大会をモデルにしています。
花火を描いた絵は、あまり多くはないようです。
山下清の「長岡の花火」や浮世絵で見たことがある程度です。
私は夜景が好きで今まで街の灯や星空を何度も描いてきましたが、花火を描くのはこれが初めてです。

諏訪湖の花火大会そのものを実際には見ていませんが、20代の頃から身近な花火大会は何度も見ていますし、写真やDVDなどの資料も揃えています。
しかし、私が描きたいのは写真のような花火ではなく、あくまで火薬の匂いと大音響に包まれた、私のイメージする空気感なのです。
永くても数十秒で消えてしまう、儚くも華麗な花火を描くということは想像以上に難題でした。
もちろん花火に限ったことではないのですが…。

私たちが見ているものは、すべて次の瞬間には”思い出”・”記憶”・”イメージ”に変わります。
どんなに目を凝らして良く観たものでも、いつも目にする身近なものでも、現在進行形で見ていない限りはすべてが”思い出”の範疇に含まれます。
ひょっとしたら、今現在見ているものでさえも単なる夢・幻なのかもしれませんが…。
そして、それらは一人一人感じ方・捉え方が違うために、同じものを観た場合でも、異なった”思い出”として残るものです。
”思い出”は、美化されたり、誇張されたり、単純化されたり、写真とは違うイメージとなって心の中に保存されるものです。
絵とは、そういう”思い出”のようなものを描くものなのです。
決して状況説明だけではないのです。
状況説明でいいのなら、写真を横に置いて、その通りに写していけばいいだけのことです。


さて、これでどの程度の完成度かと問われれば…4割程度とというところでしょうか。
現状は未だ暗中模索の段階で、画面は常識的なレベルに留まっています。
”私らしさ”がまだ出てきていません。

描き始める時には漠然とした完成イメージを持っているのですが、しばらくは暗闇の中で手探りするような状態が続きます。
最初のイメージは、あくまで描き始めるきっかけのようなもので、それに拘り過ぎては進展が望めません。
大筋から外れなければ途中でどんどん軌道修正していくべきものなのです。
絵は描いてみなければどんなものが出来るのか作者にも分かりません。
一通り準備が整って描き始めたら、後は出たとこ勝負なのです。

今はまだトンネルの出口が見えていませんが、じっと我慢して描き続けていると、突然遠くの方に出口が開く瞬間が訪れます。
出口が見えた瞬間から仕上げの段階に入るのですが、それを境に今までとは意識が変わり、絵の見え方も変わってきます。
その瞬間を越えると、思い切りが悪く小心者の私でも、多少は大胆になれるのです。
その瞬間まで完成度が5割程度だったとしても、それ以降は、一筆加えただけで一気に8割くらいまで跳ね上がることがあります。
描いていれば4割・5割・6割…と、徐々に完成度が上がっていく…とは限らないのが絵の不思議なところです。
と言うことは、絵を描く上で最も大切なのは作者の意識レベルということになります。
技術やノウハウは、あくまで筆や絵具と同じ道具にしか過ぎません。
自分自身を磨かないと絵は進歩しませんね。
怠け者の私には、「真実」というものは耳の痛いことばかりです。

はてさて、四苦八苦しながらここまでやってきましたが、これからどんな画面になっていくのでしょうか。
神のみぞ知るというところですね。

-------------- Ichiro Futatsugi.■


コメント (2)
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