バスケ青春の詩

平成25年12月22日をもって33年9か月ほど勤務した仕事を定年退職をしました。これを機会にまた想いを綴ります。

今日の練習試合

2012-05-20 22:38:58 | やっぱりミニバス!
平成24年5月20日 日曜日

「今日の練習試合」


今日は、ミニバス市内春大会の予選リーグ後の最初の練習試合でした。

3戦して、3勝しました…が、

課題とした、『ノーミス・シュートで終わる!

ハーフコートエントリープレーをワイドオープンからやりきる!

リバウンド!

攻めるディフェンス!』について…

余裕のある展開のゲームでは、やれました。

しかし、当たりの強いゲームでは、相手チームのペースにはまり、

焦りから、ミスからのターンオーバーでやられる…

ディフェンスの足とハンズアップもなく、ペネトレイトを簡単にゆるし、ファウルを重ねるというパターンは変わりません。

競った試合をものにする。

競った試合を自分達の試合にするメンタルに欠けています。

子供達自身が、そのことを一番知っているようです。

これは、試合を意識した練習と、公式戦を意識した、競った練習試合を体験して練り上げるしかありません。

子供達はやりきってくれると信じていきます。

コーチとして、子供達の自立と自律を目的にすることを忘れることなく、

子供達との信頼関係を培っていきたいと思います。

変わらぬ思い…

2012-05-20 05:31:56 | やっぱりミニバス!
平成24年5月20日 日曜日

「変わらぬ思い…」


今日は長女の一周忌の法要です。

間もなく、長女が夭逝して一年が過ぎます。

親としての悼み、悔やみは薄れることや消えることはありません。

何があろうと生きていて欲しかった…


 
 産み育て
 二十の晴れ着に
 父誉れ
 その五つ歳のちに
 逝くやと知らず


 逆縁を絶てず
 悔やみの
 親ごころ
 娘の想い
 如何にあらなむ


 時を経て
 悼みし想い
 変わらねど
 何故に逝きしと
 叱る遺影に


 父として
 知らざることの
 多さゆえ
 親の悔やみぞ
 遅かりし
 逝かすことなく
 とどめしものを

指導する者の責任と、選手達自身の責任…

2012-05-20 01:57:44 | やっぱりミニバス!
 
「指導する者の責任と、選手達自身の責任…」

 
『勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし』

負けたことは、指導する者の責任にあることは当然のことです。

だからといって、負けた悔しさを微塵も感じることなく、その試合を自ら振り返ることをしないのは、

選手自身が、自分達が為すべきことに応えていない…

責任がレスポンスビリィティと言うなら、選手自身が応えるべき責任があると思います。

それを選手に自覚させる責任は指導する者にあります。

その互いの責任を共有し、選手自らその試合を振り返り、次に向かう気持ちを持つことは選手たる子供達自身の責任でしょう。


水飲み場までは、導くことはできます。

その水を飲むか否かは、選手自身の責任を自覚した判断だと思います。

確かに、水を飲むというモチベーションを育むのも指導する者の責任であることに間違いはありません。


負けたことの原因を明らかにすることは指導する者が行うべきこと…

それを指導して、次に向かう気持ちを持たせるのも指導する者の責任であること

そして、その指導に応えるか否かは、選手自身の責任であることだと思います。

そうでなければ、選手の自主自立はどこで育むことができるのでしょうか?

『君達はよく頑張った。負けたのはコーチの責任だ。』…それは、指導する者が、選手に対する責任として、選手達に応えきっていないのも確かだと思います。

負けたことについては、選手達自身の責任と指導する者の責任はあると思います。

それを選手に知らしめることが指導する者の責任ではないでしょうか。

そして、次に向かう方向を明らかにして、その具体的方策を創造し、

選手達自身に行わせることは、指導する者の責任だと思います。

しかし、選手自身が全力を出し切ったかどうかは、

選手自身にも自ら考え、応える責任があると思うのです。