バスケ青春の詩

平成25年12月22日をもって33年9か月ほど勤務した仕事を定年退職をしました。これを機会にまた想いを綴ります。

カンカレ!

2012-05-10 19:41:23 | やっぱりミニバス!
平成24年5月10日 木曜日
 
『カンカレ!』

 
今日は駒沢オリンピック体育館でカンカレを観戦して来ました。

息子君がいる専修と明治の試合です。

専修対明治、82対50で専修勝ちました♪

これでベスト8です!

#14息子君のダンクも見れました。(^-^)b

試合終了して、勢いで小遣いやっちゃいました〓

明日は、代々木第2体育館で東海大学と4決めに臨みます。
(^-^ゞ

ファイト~!
専修 !

チームであること…2012

2012-05-10 05:17:25 | やっぱりミニバス!
平成24年5月10日 木曜日
 
「チームであること…2012」


チームとは、バラバラに集まった個人がひとつの競技をするためにまとまったものです。

競技以外では、何も関係のない人達が、何か大切なものを共有することで…つながっていくのだと思います。


言いたいのは、そこで出会った仲間は、運命的に出会った、チームになる彼らであり、彼女らなのです。


よく言いますよね。

部下は上司を選べない…と、

部下になった同僚どうしも同じです。

その出会いから、チームは作られていきます。

色んな個性が集まって、互いを知っていくのです。

意気投合する者もいるでしょう。

一方で、どうしても気に入らない者もいます。

それがチームです。

チームは仲良しクラブではありません。

その個性がぶつかって、チームになる壁をブレイクスルーしていきながら、チームになっていくのでしょう。

そこには、コーチさえ作ることのできないところがあります。

そこを作るのはメンバー自身です。

なぜ同じチームのメンバーになったのか?
…ではなく、

このチームのメンバーになり、チームとして何を目指すのか?

そのメンバーとして何をするべきか?

そのことをメンバー自身の全員が共有することです。

それの核になるのはキャプテンでもいいし、

このチームでしか、自分の夢を実現するしかないと真剣になっている者でもいいのです。

チームとして目指すものが違うという意識のメンバーの集まりでは、メンバーのあいだにそれぞれ温度差があるチームです。

それではチームになることはできないでしょう。

そもそも、そういう者が、そのチームに入ったことが間違いなのです。

バスケがしたいから、このチームに入ったのであれば、

このチームの目指すものをメンバーが共有することです。

そして、それを自分のものにすべきです。

『君たちは頑張ってね…私は私のやりたいバスケをするから』では…チームにはなりません。

バスケをしたいのならば、チームのメンバーになることです。


このチームでプレーしたいから、このチームの一員として、

自分もそこでプレーしたいから…メンバーになることを選らんだのであれば、

そのチームはいかにあるべきか?

そのためにメンバーとしての自分は何をするべきか?

それを自覚して、チームの目指すものを明らかにして共有することです。

確かにバスケがしたいから…このチームに入ったというのも正解でしょう。

問題は、その次のステップです。

チームのために自分はいて、自分の夢を実現するためにチームがあるのです。

その意識を誰かひとりでも忘れたら、誰かひとりでも弱気の心になったら、

チームの目指すものを手にすることはできないでしょう。

それでは後悔するだけです。

今は、チームの目指すものを共有して…そこに向かって行くことです。

いついかなるときも、チームの目指すべきものをメンバーは忘れてはならないのです。

スポーツをする者は勝負の結果や、チームの状態や、自分の肉体的なことや精神的なことで落ち込むことは…常にあることです。

それでも、そのチームのメンバーである限り、チームの目指すべきものに向かって行かなくてはならないのです。


あなたは、そこでバスケをすることを選らんだのですから!

よく遊び、よく学べ…バランスある生き方

2012-05-10 03:03:54 | やっぱりミニバス!
平成24年5月10日 木曜日
 
「よく遊び、よく学べ…バランスある生き方」


この言葉は誰に対するものでしょうか?

普通は、学校生活をしている子供達に対する言葉と思いますよね。

しかし、よく考えてみると、この言葉は子供達だけではなく、

何かを生活の中心に置いて生きている…すべての人に対する言葉だと思うのです。


まず、もちろん…毎日、勉強している子供達でしょう。

学校で勉強すること…学ぶことが、子供達の生活の中心になっていますよね。

子供達は、なんのために勉強するのでしょうか?

進学するため?
受験に勝ち抜くため?

いずれにしても、勉強が子供達の生活の中心になっています。


学校生活は勉強することが中心です。

しかし、勉強だけではないことは確かだと思います。


一方で、受験競争を勝ち抜くために、ひたすら勉強だけをしている子供達もいます。

それによって創られる自分は、どのような自分になっていくのでしょうか?

それは、社会性のない、他の人と交わる術がわからない…自分になっていくのだと思います。

学校という場所は勉強をする場所ですが、同時に社会性を身に付ける場所でしょう。

それでは、社会性を身に付ける授業というのがあるでしょうか?

授業では、そのような科目はありませんね。

そこで出会った子供同士が創る社会で、遊びや、喧嘩などで…、

お互いが交わることで、子供達の社会のルールが作られ、

その中で、子供達は社会性を身に付けていくのでしょう。

だから、休み時間にも校庭に遊びにも行かず、一人だけ教室に残って、受験競争に勝ち抜くためといって、勉強をしている子供は…

やがて希望の学校に進み、大学にも入ることができるでしょう。

しかし、そのように成長したとして、その子供は大人になって、社会という環境の中で生きることができるようになっているでしょうか?

人は、社会という、他人との関係の中で、他人と交わりながら生活するのですから…

嫌でも他人と交わるのが、社会で生きていくことでしょう。

その術を、大人になる成長の過程で身に付けなくてはならないと思います。

勉強することと、他人と交わる術を身に付けること…

どちらを優先するのか?

他人と交わるためには、知識が必要です。

会話をするために、互いに共有している知識があるから、

お互いに交差する点があり、そこから交友が始まり、その輪が広がり…

お互いを認め合う、社会性が身に付いていくのでしょう。

その基本が、知識にあるのならば、

その知識は勉強することによって、自分のものになるのでしょう。

それと同じように、他人と交わることで、他人から得る知識もあるでしょう。

ですから勉強することと、他人と交わる術を身に付けることは…

どちらを優先するというものではなく、バランスなのだと思います。

社会という、秩序ある世界を成り立たせて生きていくことが、人の生き方だと思いますから…

秩序がなければ、お互いに自分中心の闘争社会になるでしょう。

人が人として生きていくために、平和で秩序ある社会を創ること。

そのために、人が互いに交わるために知識を得て、

もしくは、互いに交わることで知識を得る…

だから知識を得るための勉強と、他人と交わるための遊びは…同じ程度に大切でしょう。

この両者をバランスよく行うことで、豊かな心が作られて…

社会を生きていく人として創られるのでしょう。

何かを人生の中心に置いて、他の事と関わらずに…

それだけに集中して生きることなど出来ないはずです。


しかし、他人と交わることを嫌い、他人との交わりをストレスに感じている人はいるでしょう。

その人は、なぜそのようになってしまったのでしょうか?


それでも生きていけるのかもしれません。

しかし、やがて社会性のない自分は…

孤独な孤立したところにいることになると思います。

それでも、それに耐えて生きていけるのでしょうか?

人という生き物は、社会と嫌でも繋がらなくては生きていけないものです。


繋がらなくても、自分のことだけ考えて生きていくという人は…

よほど心根が尋常でないほどの胆力を持った希有な人でしょう。

それは、自分が一人で生きる…何らかの極めて強烈な信念を持っている人だと思います。


さて、「よく遊びよく学べ」とは、仕事でも、勉強でも、趣味でも、何かに集中して生きるにしても…、それ以外のこともよく行い、

集中している何かから、自分を一時でも解放することで、血眼になって生きる自分が、

心に余裕を持って生きる自分になれる…必要なバランスある生き方だと思います。

大勢の人によって、成り立っている社会を生きるための、必要なバランスでしょう。

私にとって、「よく遊びよく学べ」とは…


仕事が…「よく学べ」であり、

子供達と接するミニバスが…「よく遊べ」なのでしょう。

しかしこの「遊べ」は、私の生き甲斐なのです。