バスケ青春の詩

平成25年12月22日をもって33年9か月ほど勤務した仕事を定年退職をしました。これを機会にまた想いを綴ります。

無理ということ…2013

2013-05-31 06:07:20 | やっぱりミニバス!
平成25年5月31日 金曜日
 
「無理ということ…2013」


無理とは、自分を追い込み…

もうこれ以上は出来ない!と思う心の有様だと思います。

この無理には、それ以上してはいけない無理と、まだやれる無理があります。

その違いは、人が決める…または、人が思うものではなく、自分の心がまえとしてのあり方なんだと思います。

してはいけない無理とは、他の人と自分を比べることで生まれる心の有様です。

他の人と自分を比べることで、

自分の今いるところに…優越感、安心感、劣等感、喪失感、不安感を覚える。

その心の有様が、いずれ…もう無理!という心の状態に追い込むのです。

それは追い込まれた無理という心の状態だと、自分で気づくことはありません。

それはそのうち…他の人と自分を比べて生きることが苦しくなっていきます。

それでもその生き方に固執していくと。

その結果、身体と心が壊れます。

それにより家族も辛い思いをします。

これが…してはいけない無理なのです。


逆にまだやれる無理とは、

自分が無理と思い込んでいる心を、自分でブレイクスルーするための無理です。

ミニバスの子供達に聞いたことがあります。

「コーチから言われて嫌と思うことは何?」

子供達はみなが、一様に言いました。

「一生懸命に走っているのに、もっと走れ!と言われること」

私はさらに話し、そして問います。

「そうか…そうだよね。一生懸命に走っているのに、

それ以上に、走れ!と言われても無理だよね。」

「じゃあ、一生懸命に走っていると思っているのは誰?

もうこれ以上走るのは無理!と思っているのは誰かな?」

「それは…コーチではないよね」

「それは…君達の自分の心が思うことではないのかな?」

「コーチは別にそれでも構わない。

コーチは君達ではないのだから、

君達が自分で無理!と思ったときに、

君達は…それ以上に今の自分より向上することはできない。

無理!と思うのは誰?

そう…自分自身だよね。

その自分自身を越えることが出来るのは誰?

それも自分自身だよね。

何故…自分自身を越えなければいけないのかな?

それは昨日の自分を越えることでバスケがもっと上手くなり、

バスケがもっと楽しくなるからじゃないのかな?

確かに、今の自分を越えることは辛いし、きついだろう!

それは…他の人を越えることではなく、

自分を越えようとする、自分の心が思うことなんだよ

もう無理!と思うのは誰?

もうダメ!と思うのは誰?」


さて他の人と比べて、自分を追い込むという無理は、自分の心を壊し、家族の心も壊すのです。

他と比べることなく、自分の人生をしなやかに生きる…

頑張るけれど、無理をしない自分を受け入れること。

そんな生き方が大切だと思っています。


一方で…何かに懸ける自分がいるならば、

今の自分を越えるために…受け入れるべき、辛さ、きつさはあるのだと思います。


他と比べる無理と、自分と比べる無理は、生き方の問題なのです。

それは、まったく別のことですが、同時に考えて、同時にできることだと思います。

チーム力…2013

2013-05-30 06:02:11 | やっぱりミニバス!
平成25年5月30日 木曜日
 
「チーム力…2013」


「チーム力」とは、チーム競技における、チームとしての強さをいいます。

その強さの基礎となるのは、チームメイトたる仲間との信頼関係です。

それは相互依存による他を頼るものではなく、

ひとりひとりのプレイヤーの意識とスキルレベルの高さが、チームメイトすべてに共通し、かつ共有していることから生まれる信頼関係です。

それを、均等にするように、各プレーヤーの意識とスキルレベルを引き上げるのがコーチの役割だと思います。

そのためには、「仲間」を強く意識させます。

そのためには、「自分」を強く意識させます。

まず、「自分」のために、「自分」を越えることを語ります。

「自分」と、仲間である「他人」と比べないことです。

仲間は、「自分」が越える相手ではなく、共に成長する仲間なのです。

仲間のそれぞれの「自分」が「自分」を越えていくことで、「自分」の集まりとしての「仲間」が、「仲間」を越えていくのです。

それが、「チーム力」になっていくと思っています。

私はダッシュやシャトルランなどのラントレのときは、

お互いが競争相手で、相手に勝つ走りをするように…とは言っていません。

「自分」の隣を走るのは、仲間のボールマンなのです。

仲間のボールマンのボールラインの前に出ることで、ボールは、前に繋がっていくのです。

だから、仲間のために、仲間の前に出るように、走る!

お互いがチームメイトの仲間として、仲間のために、走る!

それは、「仲間」のために、今の「自分」を越えること

それが「チーム力」になるのです。

といって…仲良しグループであってはならないのです。

馴れ合い、かばい合うのは「チーム力」としての仲間ではありません。

プレー中にミスをして「ゴメン」と言い、それに対して「ドンマイ」と言い合うのは、仲間の誤ったあり方です。

スラムダンクの湘北高校男子バスケ部の…

「ゴリ、アカギ、ルカワ、ミツイ、リョータ」の関係が、チームメイトとして甘えを許さない、仲間のあり方だと思っています。

まさに、ひとりひとりが、

「自分も活きて、仲間を活かす…バスケなのです。」

仲間を活かすことができないプレーは…仲間から徹底的に叩かれるのです。

「ゴメン」や「ドンマイ」ではないのです。

「何やってんだ! 決めろよシュート!」

「何やってんだ! もっと走れ!」

「何、1線抜かれてんだ! きっちり付けよ!」

そう言い合えるチームこそが、「チーム力」のあるチームだと思います。


ミニバスの子供達にも、そのように語っています。

「チーム力」は、「自分」を越えるところから作られていくのです。

機会と行動と責任…2013

2013-05-29 06:13:51 | やっぱりミニバス!
平成25年5月29日 水曜日
 
「機会と行動と責任…2013」


機会とは、「ある行動をするのに最もよいとき」を言います。

それは、タイミングですが…、

そのときを逃すと、「最もよいとき」が過ぎ去っていきます。

それは、戻ってくるものではないので、次の「最もよいとき」を待たなければならないのです。

「チャンス!」は一瞬です。

だから、「チャンス」は前髪なのです。

後ろ髪に「チャンス」はありません。

だから、前髪を掴む一瞬が「最もよいとき」なのでしょう。

さて、「最もよいとき」とは誰が判断するのでしょうか?

それは、その行動をする者が判断するのです。

判断する者は一人です。

判断というより「決断!」でしょう。

集団であれば、そのリーダーが決断しなければなりません。

そのリーダーの取り巻きがゴチャゴチャ言っても、

今が、「最もよいとき」だと最終的に決断するのは、リーダーたる、ひとりの個人なのです。

取り巻きが「今、行動すれば、こういう問題があります。ですから、もっと話し合うべきです。」と言われて、決断せず、行動しないでいても、

いずれ問題は起きるのです。

その時に責任を果たすべきはリーダーですが…、

リーダーは「取り巻きに従い、もっと話し合うべきと思った。」というでしょう。

これを「集団無責任体制」と言います。

それで一番被害をこうむるのは、その集団を構成する人達でしょう。

行動することで、発生する問題を恐れていては、いつまでも、行動を起こす機会は訪れないでしょう。

行動することが、まず大事だと思います。

そして、次に発生した問題は、その時点で対処していくのです。

そうしないと、いつまで経っても道は開かない、壁を突き破れない、ブレイク・スルーできないのです。

結局、取り巻きを信頼しつつも、その言うことに任せることなく…

リーダーが、機会だ!と直感した瞬間に行動を起こすこと。

それが難しいのですが、一歩を踏み出すその背中を押すのは自分の強い心なのでしょう。

その心とは、リーダーは決断し、行動を発起し、

その目的を達成するという責任を果たさなくてはならない…という自覚です。

それが行動を起こす権限を与えられたリーダーの、孤独で辛いけれども、やり甲斐のあることだと思います。

バスケットプレイヤー…2013

2013-05-28 05:46:01 | やっぱりミニバス!
平成25年5月28日 火曜日
 
「バスケットプレイヤー…2013」


バスケットプレイヤーには、基本的には専門職はありません。

すべてのプレイヤーは幅広い技術が必要です。

反対に専門職があるものといえば、

例えば、バレーボールの守備専門のリベロ。

野球の指名打者。

アメフトのフィールドゴール・キッカーなどです。

ただし、バスケットボール・プレイヤーは、全員が共通して持たなければならない技術が、まずあります。

ある技術だけが上手くとも、チームとしての能力をゼロにします。

確かにシューティング能力は魅力ある優れた技術ですが、ディフェンスができなければ、話にならないでしょう。

さらに、それぞれのポジションに応じて必要な技術と役割があるのは確かですが、それらを重複してこなせる能力をバスケットボールというスポーツは要求します。

試合に通用するプレイヤーであるためには、複数の技術の習得が必要なのです。

バスケットボールプレイヤーは、

・瞬間的なスピードある走りができる。
・持久的なスタミナある走りができる。
・多種多様なステップワークができる。
・ボールハンドリングでボールコントロールができる。
・ドリブルでボールが運べる。スピード&コントール
・いろいろなシュートプレーができる。
・ボールをパスしてレシーブする。
・ゴールを視点としてビジョンがとれる。
・OFからDF、DFからOFの切り替えをする。
・ポジションによってはOFもDFもリバウンドを取る。
・ディフェンス、特にマン・ツー・マンDFができる。
・他のプレーヤーと意思疎通ができる。  

以上などのことができていなければなりません。

これらの技術を端的に言うと…

・ハンドワーク
・フットワーク
・ボディワーク
・アイズワーク
・ヘッドワーク

の五つのワークを言います。

しかし、コーチは、すべてのプレイヤーが、以上のワーク能力を持っていると期待することは誤りです。

ですから、コーチは、プレーヤーの素質として持っている能力を見極めて、忍耐強く、各プレーヤーに応じた技術の向上方法を、個別に指導していかなくてはならないのです。

この個別指導が…言うは易く、行うは難しなんですよね。

特に、ミニバスにおける子供達には、すべての子供達がバスケが好きになるように、

一人一人を尊重して、「やる気」という動機づけを怠ってはならないのです。

そして、チームとして最高の能力を発揮することが、大切であること、

それには自分自身を向上させることが大事であることを理解させ、納得させることが、バスケットボールボールを指導する者としての責任だと思います。

交流戦練習試合…2013

2013-05-27 06:19:29 | やっぱりミニバス!
平成25年5月27日 月曜日
 
「交流戦練習試合…2013」


昨日の交流戦練習試合…三戦して3敗。

課題は練習でやったことをやれる冷静さと、

ゴールに向かう心、攻めて守る熱き心と、

広い視野による判断と、

抜かれてもあきらめない…最後まであきらめないプレイ。

技術や戦術の前のことだ。

練習でやったことをやろうとしているのかもしれない…

それを出し切れない…焦り、そしてターンオーバー

同じミスを繰り返す。

ミスから学ばない…考えないプレイ。

何のための練習だったのか?

コーチとしての力が足りない。

子供達に伝わっていない、伝えられていなかったことに自分の不足を思った。

コーチとして悔しさで一杯だ。

ただ思うのは、子供達に敗戦の責任を詰め寄った言葉を発していないか?…ということ。

それを言っていたとしたら、コーチとして失格だ。

子供達へ…課題は、“冷静な判断…クールヘッド”、“熱き心…ホットハート”、“広い視野…ワイドビジョン”

そしてオフェンスもディフェンスも最後まであきらめない!…絶対にあきらめない!

その気持ちでプレイをする。

オンコートの5人が、その気持ちを共有して、自分達で考えて、判断してゲームをコントロールする。

そんなゲームが出来れば、チーム力は出せている。

コーチはそれを支える者…コーチのゲームではない。

君達のゲームであることを自覚して欲しい。

昨日の敗戦から悔しさと未熟さを心にして、しっかりと学び、次に向かって欲しい。

そのために、練習は試合のごとく行う…コーチがいる時も、平日の自主練習の時も。

練習のための練習など意味がない。

試合のための練習であることを思い知り、引き締まった気持ちで練習に臨むことだ。

リングを抜ける音…2013

2013-05-26 06:09:56 | やっぱりミニバス!
平成25年5月26日 日曜日
 
「リングを抜ける音…2013」


以下に紹介する短歌は「現代学生百人一首」の中のひとつです。

読み手は、東洋大学の学生です。


『リングを抜ける
  スパッ!
って音が好きだから
 今日もしっかり
 バッシュを結ぶ』


バッシュのひもをしっかりと結び、「今日もやるぞ!」と練習に向かい、それに熱中する姿勢が好ましく、目に浮かびます。

青春の汗が飛び散るすがすがしさが目に浮かぶようです。…と言うような解説が書かれてありました。


以下は、私の所感です。

「やらされている」という気持ちからは、楽しみは生まれてこないでしょう。

自ら何かを目標に、「よし! やるぞ!」という意欲から、その楽しみは生まれてくるものと思います。

スポーツとは、そもそも、苦しいものではなく、楽しむものです。

そこに至る道に苦しみがあったとしても、追い求めるものは、

苦しく辛い練習を乗り越えて、達成し得た、達成感という喜びだと思うのです。

自ら目標を持ち、やり抜いたという達成感を味わうために…今の努力があると思います。

汗は絶対に裏切らない!ということを信じて、

成果を焦らず、歩み続ける信念を大切にして欲しいと思います。

自分と語る…2013

2013-05-25 06:45:14 | やっぱりミニバス!
平成25年5月25日 土曜日
 
「自分と語る…2013」


私は、自分の人生観として大事なひとつのことを、ミニバスの子供達から学びました。

『自分と他の人を比べない。今の自分を見て、明日の自分を創っていく。』

そのためには、まずは、鏡の前に立ち。

今の自分としっかりと対峙することから始めます。

人はどうしても、他の人のことがよく見えます。

それは眼が外向きについているからです。

だから自分自身のことは見えない。

至極、当たり前のことでしょう。

だから常に人と比べ、自分の今いる立ち位置に満足したり、がっかりしたりするのでしょう。

今の自分を自分と比べる基準に置き、その自分を鏡の前にさらけ出し、

自分を見つめるもうひとりの自分を、鏡に映る自分に見出だすのです。

深刻に悩んでいる自分。

歓喜にあふれている自分。

他の人と比べて、もがいている自分。

そんな自分の心が見えてきませんか?

そのときに、鏡の中の自分に語りかけてみることです。

『今の自分でいることに悩んだり、歓喜したりすること。

そこから、明日の自分に向かうこと。

さぁ明日、鏡の前に立った自分は…

今の自分と、どこか違っているだろうか?

願わくば、昨日の自分より明るい方に向かっていて欲しい。

そのためにしっかりと、自分を支え、慈しみ、励ましていこう。』

もうひとつ…

『転ぶことは恥じではなく、周りから差し延べられる手を待って…、

転んだままでいることが恥なんだよ。

自分から立って歩いていく、そんな自分でありたい。』

誰にも生きている以上挫折や失敗は常です。

そんなときに、しっかりと自分に向き会い、自分で立ち上がること。

これはかなり困難なことでしょう。

なぜなら人と比べて、自分に降り懸かった不幸をなげき、絶望するところから始まると思うからです。

そしてしばらくして…鏡の前に立ち、自分としっかり向き合って語り合うこと。

そこから、次に向かう自分が見えて来るのではないでしょうか。

そしてまた語りかけるてみるのです。

『鏡の中の君が、君自身で恥じることのない自分てありたいと思い、心身ともに健康であることを願います。』

鏡の前の自分と対面したときに、そこから新しい自分の歩む道が見えてくるのだと思います。

そのときに絶対に忘れてならないことは、

自分自身を慈しみ、愛する人達、愛してくれている人達を心に描くことだと想います。

自分の人生を生きるために、生きてまっとうするために…

自由と身勝手…2013

2013-05-24 06:03:47 | やっぱりミニバス!
平成25年5月24日 金曜日

「自由と身勝手…2013」


『人は生まれながらにして、完全な自由を持ち、すべて平等であり、誰からの制約も受けない。』

これは、自由主義という思想の根本です。

欧州から生まれた「自然法」の考え方です。

その背景には、その地域の歴史や文化や宗教があります。

何者にも束縛されない「自由と平等」。

そこで言う“平等”は、結果平等ではなく、機会平等であって…機会を活かすも活かさぬも己の気合いと行動力で決まるものです。

機会平等は、競争原理を基本とする資本主義経済の考え方でもあります。

それは貧富の差を生みますが、貧困を救済するのも、また人なのです。

「自由と平等」は個人の権利ですが、個人は社会の中で生きるならば、社会の秩序がなければ、「自由と平等」は担保されません。

貧富の差による貧困は、社会の秩序を乱し安寧を阻害します。

それ故、個人の「自由と平等」と社会秩序の維持は 双方向に保たれねばならず、

だから貧富の差が生まれる「自由と平等」を認めるなら、同時に社会秩序を維持するために、貧困は救済しなければならないと思います。


さて、人は生まれながらにして「自由と平等である」という出発点は、誰がその論拠を与えているのでしょうか。

アメリカの独立宣言では、それらは「神」により与えられている…と述べています。

欧米…西洋人にとって、神は唯一絶対的な存在ですから、その出発点は絶対に正しいのです。

戦後、日本もアメリカから民主主義という、

国民主権の名のもとの、天皇という立憲君主制を保持しつつ、国民主権の議会制民主主義という統治制度が移植されました。

私は右翼でも左翼でもありません。

戦前の軍国主義政治での、個人よりも国家のためという全体主義の反動により、この個人の「自由と平等」の尊重が、一人歩きを始めたことで、

日本古来の道徳や、日本の古きよき慣習をも軍国主義としてひとくくりに否定され、傷つけられてきたと思っています。

日本の八百萬の神々、神道、仏教といった独特の文化、長幼の序といった儒教的価値観、以心伝心、あうんの呼吸といった、日本人独自のコミュニケーション。

日本人は、曖昧さの中に…相手を立てつつ、

それは、相身互い(あいみたがい)として、次は自分を立ててもらうという情緒性ある文化でした。

“自由”という意味は、徒然草の時代から、「身勝手」という意味であったといいます。

「我が身かわいさ」です。

確かにそれも人の本性でしょう。

しかし祖先の人達は、「身勝手」という”自由”を受け入れなかったのです。

世の中、それぞれが自由を振りかざせば無秩序の極みになるでしょう。

子供達には、相手は論理によって競争する者としてではなく、

また、たとえ闘う相手であったとしても、互いに尊重する者であること。

おごることなき勝者であり、敗者に対するねぎらいの情緒豊かな心…

そういう姿勢や心を持って欲しいと思っています。

そのためには、日本という祖国の成り立ちや正統な歴史、祖国が育んできた情緒性豊かな文化を学ばなければならないと思います。

私の力はちっぽけなものです。

しかし幸いにして、ミニバスというスポーツと出会い、

子供達の人生と少しでも関わることができるコーチという立場で、

子供達の心に偏りのない、感謝や思いやりある人になるための種を植え、育んでいきたいと思っています。

わたしが生まれてきたわけは…2 013

2013-05-23 05:20:32 | やっぱりミニバス!
平成25年5月23日 木曜日
 
「わたしが生まれてきたわけは…2013」


今日は長女が逝ってから、二年になります。

三回忌の忌日です。

あの日は心から消え去ることはありません。

色々と辛い想いをされている人は、世の中に沢山います。

私だけが辛いわけではありませんが…吐露せずにはいられないのです。


生きている人も、旅立った人にも生まれてきたわけがあると思います。

生きている人達は、その想いを心に抱いて生きて欲しいと思います。

『わたしが生まれてきたわけは、父と母に出逢うため…

わたしが生まれてきたわけは、妹と弟たちに出逢うため…

わたしが生まれてきたわけは、友達に出逢うため…

わたしが生まれてきたわけは、愛する人に出逢うため…

わたしが生まれてきたわけは、誰かを支えるため…

わたしが生まれてきたわけは、誰かに支えられるため…

わたしはこの世にひとりしかいないけど…

誰かに出逢いながら生きている。

誰かを支え、誰かに支えられて生きている。

そして、幸せになるために、誰もが生まれて来たんだよ。』

そのような命であることを知りながら…誰もが生きて欲しいと思います。

熱意…2013

2013-05-22 06:38:46 | やっぱりミニバス!
平成25年5月22日 水曜日
 
「熱意…2013」


『熱意は、あたかも磁石が、鉄粉を引き付けるように周囲の状況を動かすのです。』

これは現在のPanasonic…旧姓というのかどうか、松下電器産業の創始者である松下幸之助 氏の言葉です。

いかに才能があり知識があっても、熱意の乏しい人は絵に書いたモチと同じです。

反対に、少々知識に乏しく、才能に乏しいところがあっても、一生懸命さというか、内に秘めた熱い想いというか…

それを熱意というならば、そこから次々と、何かを引き付ける、何かが生まれてくると思います。

その人が意図しなくても、その人の熱意によって生まれる行為が、周りの人達の想いに影響するのでしょう。

それは、熱の伝導のように自然に伝わるのでしょう。

そこに目に見えない加勢というものが自然に生まれてくるのでしょう。

その熱意が人の意識を変えていくのです。

知識や才能だけなら、成せないことの理由を述べることは得意です。

なぜなら、成そうとする熱意が欠けているからでしょう。

何かを成すためには熱意が必要なのでしょう。

その熱意が、磁石が鉄粉を引き付けるように、

周囲の状況を動かすという感化を生むのだと思います。