バスケ青春の詩

平成25年12月22日をもって33年9か月ほど勤務した仕事を定年退職をしました。これを機会にまた想いを綴ります。

ミニバスについて・その1

2012-02-29 06:16:33 | やっぱりミニバス!
平成24年2月29日 水曜日
 
「ミニバスについて・その1」


私がコーチとして所属している、ミニバスクラブの会の設立の趣旨を話します。

・子供達にバスケットボールに対する興味を持たせ、

 それを振作し、バスケを通じてスポーツすることの楽しさを教える。

・やる気のある子供を伸ばすのではなく、

 また、上手な子供達を上達させることに重点を置くのではなく、
 
 このクラブに参加しているすべての子供達にスポーツすることの楽しさを教える。


 「やる気」はコーチの指導の仕方で左右されます。

 「やる気のない者は去れ!」は、このクラブのコーチのあり方ではなく、
 
 この会の設立の趣旨に反するものです。


・3年生から6年生までの4年間で、バスケットボール技術を段階的に教えながら、

 さらに子供らしい「元気、あいさつができる」ことを躾けて、

 「明るく、前向き、仲間への思いやり、スポーツ大好き」な子供達を育成することです。


チョット思ったまま書きます。

上手な子供、やる気のある子供というのは…

いつ誰が、どのように判断して決めるのでしょうか。

「もっとやりたいから、練習させて」という子供達に対して…

やりたい子供はドンドンやらせればいいのでしょうか?

それでは、反対に、「別に今ぐらいの練習でいいや」という子供達はどうすればいいのでしょうか?

もっと「やりたい」という子供達と、「今くらいでいい」という子供達の違いはどこにあるのでしょうか?

「もっとやりたい」という、「やる気」のある子供達だけを伸ばす

…という考え方でよいのでしょうか?

「今の程度でいいや」という子供達は、 バスケに対する気持ちが消えていき、
 
 やがては、「やめていってもいい」という考え方なのでしょうか?

「やる気」がある、ないというのは…

コーチの指導の仕方により変わるものだと思います。

1~2年後に「やる気」や「積極性」が開花する可能性は、 3・4・5年生の子供達のみんなが持っています。

ですから、コーチの早い判断で、その可能性をつみ取ってはならないと思います。

学年縦割りチームの意義

2012-02-27 11:13:05 | やっぱりミニバス!
平成24年2月18日 土曜日
 
「学年縦割りチームの意義」


「意義」とは、

ネットから拾った意味で適切だと思うものとして…

『意義とは、そのもののあり方、

そのことをすることによって、もたらされるものや価値、

そしてそのものの持つ役割のことを言います。』


したがって、学年縦割りチームの意義とは、

学年縦割りチームのあり方、

学年縦割りチームによってもたらされる価値、

学年縦割りチームが果たす役割のことを言います。



ではミニバスにおける学年縦割りチームの意義とは何でしょうか?


『うちのミニバスクラブは、昨年から現在の5年生以下は、学年縦割りの態勢で臨んでいます。

それまでは学年横割りでしたので、先輩や後輩はいなくて、自分達の学年のメンバーだけで練習や試合をしてきました。

ですから自分達の代で頑張るという考え方が通用しました。

しかし、学年縦割りというのは、他のミニバスチームがそうであるように、先輩と後輩がいるチームです。

それは縦に繋げていくチームです。

チームの伝統を創っていくという意味では、縦割りはとても意義深いものだと思います。


チームとは何か?

先輩達と自分達と後輩達が一丸となって、チームの目標を共有することがチーム一丸のあり方です。

指導するコーチは、そのように考えるべきだと思います。

チームを縦に繋げていくことは、コーチの大事な務めだと思います。


次年度から新6年生が臨む、公式戦のすべてが、ミニバスでの最初で最後の試合です。

だから、一生懸命に頑張る最上級生を大事にしてあげたいのです。

一方で、新5年生になる子供達のやる気も育てなければならないと思っています。

その新5年生が、先日の新人戦で、試合に出られなくても、チームが負けたことに悔しさを感じてくれたことは、

チーム一丸とは何かを肌で知ってくれたものと思います。


また試合に臨むチーム編成の考え方として大事なことは、

練習に休むことなく参加し、一生懸命に練習に取り組んでいること…

それは、上級生にも、下級生にも求められる姿勢です。

上級生だから優先的に試合に出すという考えでは、

上級生はそれにアグラをかき、向上しようとする努力をしなくなるかもしれません。

下級生は、一生懸命に練習で頑張って、能力的に上級生より上手くても試合に出られないのであれば、バスケに対するモチベーションは下がることは間違いありません。

上級生のおごりをなくし、下級生のモチベーションを上げることは、コーチの責任です。

だから、コーチはその責任を自覚して、

子供達も保護者も理解し納得できる選手起用を考えなければならないのです。

これは、言うは易く、行うは難しことです。

時として、コーチはジレンマに陥るでしょう。

チームの勝利と、上級生を大事にするという、両者のジレンマです。

しかし、選手起用の責任と権限はコーチにあることは間違いないことです。

いわゆる『泣いて馬謖を斬る』という想いを実行しなければならない時もあるのです。

その想いは非常にキツイものです。

それでもコーチは断固としてやらなければなりません。

それが主担当コーチの役割だからです。



保護者は我が子第一なのは当然でしょう。

その気持ちを持ちながら、チームの子供達に対し…、

また、そのチーム自体に愛着を持って欲しいのです。

それこそが、学年縦割りチームにおける、『チームの保護者のあり方』だと思います。』

責任…ある日の練習風景から

2012-02-27 05:22:03 | やっぱりミニバス!
平成24年2月27日 月曜日
 
「責任…ある日の練習風景から」


今の5年生と4年生のことではありませんが…


さて、数年前の、ある日のミニバスの練習風景からです。

その日は、小5男子と小4男子の合同練習でした。

デジタルタイマーのブザーが鳴り、練習開始の時間になりました。

子供達は、横一列の集合隊形で集まります。

小5男子の子供達には、私が、いつも事あるたびに言ってきましたので、

まぁ、ピシ!っとしているわけではありませんが、それなりに、きちっと横一列に並んでいます。

一方、4年生といえば、、並んでいる子供もいれば、

コーチの私に背を向けて、隣の子供と話している子供もいます。

以前の私のやりかたは…

「集合しているのに、その態度はなんだ!」
「出て行け~!」

…と怒鳴って、それから子供達に説教していたでしょうね。

その時も、お説教はしました。

しかし、静かに、子供達にわかるように話しました。

まず、子供達が集合して、いつまでも並ばない子供達がいたら…

私は、あえて「並べ!」とも言わず逆に、まったくしゃべらずに無言でいます。

そうすると、子供達が自分達で、その雰囲気に気付き、ちゃんと整列して並びます。

そこで、私が静かに話し出します。

「集合のブザーが鳴ってから3分たった。貴重な練習時間の3分を無駄にしてしまったね。

コーチは5年男子には、言っているんだけどね、

この時間は、君達の時間だ。

バスケの練習に使おうが、友達とふざけて話す時間に使おうが、コーチはどっちでもいいんだよ。

ただ、それではコーチが、今日、君達に覚えて欲しいと思って考えてきた

練習メニューを全部できないね。

コーチは君達にバスケが上手になって、もっともっと好きになって欲しいと思っています。

そのために、コーチは練習を考え、みんなに教え、覚えて欲しいと思っています。

それは、コーチが、みんなにそうなって欲しいという強い思いから、そうしています。

それは、みんなに対するコーチの責任です。

みんなは、バスケが上手になりたくないか?

そうだろう、なりたいよね。

みんなに、バスケが上手になって、バスケが好きになってくれることは、

コーチが果たさなければならない、コーチの責任です。

じゃあ、みんなの責任はなんだろうか?

みんながバスケが上手に、楽しく、好きになりたいという想いと、

コーチが、みんなをバスケが上手に楽しく、好きになってほしいという思いは同じです。

その思いが同じであれば、みんなにはコーチの思いに応える責任があります。

ここまで、コーチの言っていることが、わかりますか?

であれば、コーチに怒鳴られて練習をやらされるのではなく、

君達が、自分から進んで練習することが、

コーチの思いに応えるという、君達の責任を果たすことになるのです。

「責任」とは、まだ君達には難しいかもしれませんが、

英語では「レスポンスィビリティー」と言います。

そして、この中の「レスポンス」という意味は、「応答する。応える。」ということを言います。

何もだまっていてはわかりません。

「はい」と言って応える。

そして、そのように動こうとして、

自分なりに努力することで応えること。

それが君達の責任です。

コーチの思いに応えること…

それが君達の責任を果たしたことになるのです。

コーチも、コーチとしての責任を果たしていこうと思います。」

「じゃ! 今日も練習を元気に、楽しくやっていこうか!」

最善を尽くす

2012-02-26 07:00:14 | やっぱりミニバス!
平成24年2月26日 日曜日
 
「最善を尽くす」


魂をアツくさせる名言・格言集から…

最善を尽くして今日を生きよ、今日という日をよりよく生きることで、あなたに備わっている「活力」は、明日もよりよい働きをするのです ~ マクスウェル・マルツ




『最善とは、いくつもある道から最も善いと判断した、ひとつの道を選ぶことです。選ぶとは捨てることです。すべての道を行くことはできません。行く道はひとつです。自分が最善と信じ判断した道ならば、悔いることがあっても戻ることはできません。またそこで最善の選択をして前に進み続けるのです。』

今を大切に生きて行こう!

2012-02-26 00:31:50 | やっぱりミニバス!
平成24年2月26日 日曜日
 
「今を大切に生きて行こう!」



今日も朝が来て目覚め、昨日と同じ時が刻まれていくと信じている自分がいる。

そんな自分がいることさえわからない普段の日常の中の、普段の自分がいる。

普段通りに決められた事をして家を後にする。

そして日常の生活が繰り返されていく、

あたりまえと思っている日常の出来事を話し、行い、笑い、嫌悪し、憤慨し、謝り、感動し、失望し、期待し、

そんな風に戻ることのない時が刻まれていく

そんな風に生きている自分がいることを俯瞰(フカン:鳥の目をもって高いところから見ること)することなどないのだろう。

だから、この日常を当然のことだと思い込む。

人生という見方をすれば、次の瞬間に、ありふれた日常が訪れないこともあるのだろう。

だからこそ、そのありふれた日常であることに、心からの感謝をしたい。

自分が生きていることに、

家族が生きていることに、

親が生きていることに、

友が生きていることに、

恩師が生きていることに、

周りの人々の健康と幸せに…

そして今日も日常が繰り返されることに、心から感謝をしたい。

眠りに就く前のひとときでよいから、今日のありふれた日常に感謝し、

明日また訪れる、新しい朝が無事に迎えられることを願い…

日々を生きて、活かされていることに心から祈ろう。

突然に人生の終焉が訪れたとしても、悔いなく、ありふれた日常を送れたことに感謝ができるように…

今を生きていきたいと願う。

そんな自分でありたい。

前を向いて歩む

2012-02-25 05:12:03 | やっぱりミニバス!
平成24年2月25日 土曜日
 
「前を向いて歩む」


これは私が、自分自身に語りかけていることです。

そもそも、迷うのは、行ける道がいくつもあるからでしょう。

どの道を選ぶのか、分岐点があるから迷う…

最初から一本の道ならば迷うことはないですが、

しかしこれは、厳しい生き方ですね。

迷うことは、戸惑うことです。

人は躊躇するものです。

リスクをできるだけ、少なくしたいから、そんな道を探るのです。

生きるための当然の選択でしょう。

生きる上でのリスクとは何でしょうか?

失うものを少なくしたいからでしょう。

失うものを考えて行動するということは、

何かを手にするために、全力で行動することはできないでしょう。

歳を重ねると失いたくない、守りたい大切なものができます。

ですから、若いときのように、全力で一途に駆けるように行動することはできません。

だから、一歩一歩を踏みしめて行動するようになっていくのでしょう。

それでも進む道は一本のはずです。

夢を目標にして、それを手につかむために、

歩み始めたときから歳を重ねて…

一歩一歩踏みしめて歩むようになってからも、

その道は一本のはずです。

その先は、歩み続けることでわかるのでしょう。

先のことは予想はできます。

しかし、はっきりとは、わからないでしょう。

その道を選んで正しかったのか、誤りだったのか?

…という問いかけは、空しい問いかけだと思います。

正しいと判断し、その道を行くことを選んだのですから…

あの時、別の道を選ぶべきだったと振り返ることは、

虚しいだけで、その道を選び、その道を歩み始めたからには、

挫折することがあっても、その道を選んだときの初心に立ち戻り、

そのときの熱い想いを心に置くことでしょう。

分岐点に立っていると思うのは、自分自身です。

そこが分岐点だと思うのは…

自分が達成したい事が、いくら歩み続けても、見えて来ないときか…

身体的に歩み続けることが困難になったときだと思います。

身体的に歩み続けることが困難になったときは、絶望の想いに深く沈むのだと思います。

本人以外、その辛い想いをわかることはできません。

それでも時間をかけてでも新たに歩む道を、選んでいきたいと思います。

さて、身体的に歩み続けることが困難にならずに、

もう無理!…とあきらめて別の道を選ぶのは本人の自由ですが、

もう無理!とあきらめる、その心を簡単に受け入れるか、否かは、

自分の初心の心と、今の心との葛藤なのでしょう。

答はありません。

ただ、どんな答であれ後戻りすることは出来ません。

前に進むしかありません。

自分が行くと、決断したから…

その道を歩み始める、一歩を踏み出したのですから、

その途中で、迷うことがあったとしても、決断した自分を信じて進むことです。

自分自身を信じることができる、己れであるべきなのでしょう。

前を向いて歩み続けることです。

下山しなければならないアクシデントがない限りは…

しかし、下山するという選択もひとつの決断には違いありません。

下山するということを後戻りするとは考えずに…

それも前に向かって歩いていることだと思います。

ですから、歩み出した時点で正解だと思った道を歩み続けるのです。

とにかく、途中で休んでもいいし…

精神的に落ち込むことがあってもいいと思いますが、

一歩一歩、その道を歩んでいければいいのでしょう。

登るにしろ、下山するにしろ、後ろを振り返らずに、前を向いて歩いていくことです。


これは私が、自分自身に語りかけていることです。

得難きものと、会い難きもの

2012-02-24 11:04:21 | やっぱりミニバス!
平成24年2月24日 金曜日
 
「得難きものと、会い難きもの」


『得難きは時、会い難きは友』
(「ことわざ」です)

機会は一瞬であり…
出会いは運命です…

よい機会や友に巡り会うことは、自分で望んで訪れてくれるものではありません。

それは一瞬の出来事であり…

それは自分の思ってもいないところで定められているようなものなのでしょう。

人生の転機となるようなことはめったにあるものではなく、

生涯付き合える、心を許せる友人も得られるかどうかも難しいでしょう。

ですから、よい機会や友人に出会ったときには、

それを逃してはならないという、ことわざです。

しかし、それが自分にとってよい機会なのかどうか…

それによる結果からしか判断できませんが、

とにかく結果を恐れていては、機会を逃すのは必然でしょう。

だから果敢に行動することも大事だと思います。

悔やんだり、辛い思いをすることもあるかもしれませんが、

その一瞬をチャンス!…という機会だと判断するのは自分自身なのですから。

また、出会った友人が、心の友になるかどうかもわかりません。

自分の心を傷つける人かもしれません。

しかし求めなければ心の友は得られません。

恐れていては、いつまでも心の友にはなれないでしょう。

誰でも傷つくことは嫌ですが…

たとえ、そうであったとしても、それは癒されるものと信じて、

人との出会いは大切にするべきだと思います。

私は父母と出会い、

今の仕事と出会い、

心を許せる友と出会い、

人生の伴侶と出会い、

我が子達と出会い、

義父母、義兄夫婦と出会い、

その親族と出会い、

我が子を通じてバスケの保護者と出会い、

そして、我が子達のお陰でミニバスと出会い、

ミニバスの元気な子供達と出会い、

その保護者の皆さんと出会い、

他のチームのコーチの皆さんと出会い、

ソーシャル・ネットワークで皆さんとイメージで出会い、


これらの出会いを振り返ると…

それは私の人生そのものだと思います。

出会いのひとつ、ひとつが、次の出会いのきっかけになっているのがわかります。

だから、人生という道が連なっていくのでしょう。

これからも出会いを大切にし、そこから生まれる機会を大事にしていきたいと思います。

いかに生くべきか…言葉は命

2012-02-23 16:51:51 | やっぱりミニバス!
平成24年2月22日 水曜日
 
「いかに生くべきか…言葉は命」


いかに生くべきか…とは、哲学者の故・森信三が提唱した実践哲学です。

その中の言葉のひとつに、

『人間は、進歩か退歩かのいずれかであって、その中間はない。

現状維持というのは、じつは退歩している証拠である。』


森信三は、言葉について次のように言っています。

『言葉について真っ先に説いたのは教典でキリスト。

ヨハネ伝にある。

初めに言葉ありき、言葉は神なり、と言っている。

言葉がなければ、神の内容は分からんからね。

神の説明は言葉によるしかない。

そしたら言葉は神。』

『そうそう、命という言葉のほうが分かりやすいね。神よりも。

言葉は、端的に命だね。』

だからこそ言葉の慎みについても述べられています。

次の四カ条は、森信三が引用した、有名な真言宗の僧侶・慈雲の戒めです。

・不妄語…でたらめを言うな

・不悪語…人の悪口を言うな

・不両舌…人を仲たがいにするようなことを言うな

・不綺語…お上手ごとを言うな


言葉は、一度口をついて出たら飲み込むことは出来ません。

相手に届かないか、
相手を包み込むか、
相手に突き刺さるか、の何れかでしょう。

自分では他愛のない言葉を発したと思っても…

相手には一生、心に残る言葉であることもあるのです。

相手の心に刻まれるものだから、言葉は命だと思います。

特に、多感な子供達を相手にするならば、

言葉の重さを肝に銘じて発することが大事だと思います。

一生懸命な汗とひた向きな汗…汗は人を裏切らない!

2012-02-23 16:51:07 | やっぱりミニバス!
平成24年2月23日 木曜日
 
「一生懸命な汗とひた向きな汗…汗は人を裏切らない!」


自分はこの世にひとりしかいない…

だけど誰かに支えられて生きている。

そして誰かを支えて生きている。

そして何かを求めて生きている。

その何かがわからないときは…

焦らず、迷わず、戸惑うことなく明鏡止水の心をもって自分を見つめ、

自分のことを見失わないこと、自分はひとりではないことを心に刻むことが大切でしょう。

そこからまた、前向きに歩き始めることができたら…

何かを求めて、汗を流しながら行けばいいのでしょう。

それは、頑張る汗でなくてもいいと思います。

真摯に、そしてひた向きに、歩き続けることでも汗をかくのです。

一生懸命な汗と…
ひた向きな汗と…

その汗は、自分を裏切ることはないと信じて行くことだと思います。

『汗は人を裏切らない!』

この言葉は、元全日本男子バレーボールのゴッツこと石島選手の言葉です。

石島選手は、ゴルフの石川遼選手の中学の先輩です。

石川遼選手が中学時代に、石島選手が中学に講話しにきたときに、

この言葉を聞き、熱いメッセージとして受け取り、感動し…

自分も汗をかき、目標に向かってがんばろうと思ったそうです。

経験に基づき、語るべき人が発する言葉は、

人を動かすエネルギーになるのでしょう。

念ずれば花ひらく

2012-02-23 16:50:17 | やっぱりミニバス!
平成24年2月23日 木曜日
 
「念ずれば花ひらく」


これは、詩人の故・坂村真民(サカムラ シンミン)のお話しです。

この方の言葉として広く知られているのが…

『念ずれば花ひらく』の言葉です。

それは、この方の母上が、女手ひとつで五人の子供を育てるのに、苦しいときに、いつも口にしていた言葉です。

坂村真民 氏は言っています。

『これは、母の念仏といっていい。

自己激励の言葉であり、五人の子達を育て上げようとする悲願の念誦(ネンジュ)だった』だと…


言葉は相手に向かって発するだけではなく、

自分自身に向かっても発するものだと学びました。

さらに坂村真民 氏は、この言葉を…

『母が愚痴の代わりに口ずさんでいた、八音十字の真言』と言って…詩に書かれています。


『念ずれば

花ひらく

苦しいとき

母がいつも口にしていた

このことばを

わたしもいつのころからか

となえるようになった

そうしてそのたび

わたしの花がふしぎと

ひとつひとつ

ひらいていった』


…念ずれば花ひらく、

言葉にすることで、人は生きる力を得ることができるのだと思います。

焦らず、もがかず、ただひたすらに自分の心に向かって言葉を発することで生かされている自分に気付き、

生きていくことができる…そう思います。