バスケ青春の詩

平成25年12月22日をもって33年9か月ほど勤務した仕事を定年退職をしました。これを機会にまた想いを綴ります。

大晦日に思うこと、その2…2012

2012-12-31 17:11:01 | やっぱりミニバス!
平成24年12月31日 月曜日
 
「大晦日に思うこと、その2…2012」


大晦日にカミさんと二人だけで過ごすのは何十年ぶりです。

昨年と今年は、悔やみと悼みに溢れた年でした。

職場では、あの事から一年と半年以上が過ぎていて…いつまで気力に欠けている!? と言う視線を感じ、

その中で、ポッカリ空いた心は埋まりません。

それが普通だと言われることで救われますが…、いつまで この辛さが続くのか?

長女を感じていたいと思いながら、心にあるのは最後の姿…、もっと生きたいと救いを求めたであろう姿です。

だから、生きたくても生きられなかったことを思えば、生きている者として、生きることの大切さを噛み締めて行くしかありません。

だから、次女と息子には何があっても親より先に逝って欲しくないのです。

とにかく生きていてくれさえいればいいのです。

私は来年の12月には定年です。

まだまだ次に向かって歩み続けて行かなければなりません。

ただ、追い込まれることなく、焦ることなく、日々を生かせていただければいいと思います。

とにかく、カミさんと我が子達が健やかに生きてくれること…そのささやかな祈りを願いながら新年を迎えたいと思います。

皆さん、良い年をお迎え下さい。

大晦日に思うこと…2012

2012-12-31 04:29:34 | やっぱりミニバス!
平成24年12月31日 月曜日
 
「大晦日に思うこと…2012」


「今、自分がいる」ということ

自分が今を生きて、バスケができて、将来を夢見ることができるのは、

父と母が生まれた不思議さと、

その二人が出会った奇蹟と、

同じように祖父と祖母が生まれ、出会った不思議さと、奇蹟があったから、

その過去の人々の不思議さと、奇蹟の繰り返しが、

「今、自分がここにいる」ことなのです。

そして、その自分にも、いつかめぐり会う、愛しい人が生まれた不思議さと、

その人と出会う奇蹟の瞬間があるのです。


その幸せは、「祖」の人達が生きていてくれたことで、「今、自分がいる」から感じることができるのです。


「祖」という字は、「ネ」と「且」から成っています。

「ネ(示)」は、神に献ずる生け贄(いけにえ)を乗せる机の象形字であったことから、

やがて「神」の意味を表すようになったものです。

「且」は、もとも土石を積み重ねて作った墓をかたどった字と言われ、

そこから、「つみかさなる」という意味を持つものです。

ですから…「祖」とは、亡くなってから、代々神として祭られている人々、

つまり、「先祖」(せんぞ:おや)のことを表している字なのです。

その人達の出会いの「つみかさね」が、『今』に繋がり、

また、明日へと繋がって行くのです。


「今、自分がいる」のは、この「おや」の人々が、営々とした努力を重ねて過去を生きてきたからなのです。

今、自分がいることに、
今、妻がいることに、
今、娘がいることに、
今、息子がいることに、

心から…親、祖父、祖母、先祖の人達に感謝します。

そんな想いを持って、新年を迎えたいと思います。

来年の今日も、そんな想いで迎えられるように歩んで行きたいと思います。

皆さん、良い年をお迎え下さい。

人生と言うコート…2012

2012-12-30 06:32:25 | やっぱりミニバス!
平成24年12月30日 日曜日
 
「人生と言うコート…2012」


人生の終焉を迎える時は人様々だが…

すべての人は、ゴールに向かっていることは間違いない。

人生と言うバスケのコートでは、それはゴールに向かって行くこと

ボールラインをゴールに向かって上げて行けば、

未来は間違いなく、残り少ない現実となっていき、

積み重ねた過去の多くのキャリアが、残り少ない未来を充実させてくれる。

若者のボールラインはまだバックコートにあり、広いビジョンでプレーの選択肢は無限にある。

私達のプレーは、あきらめることなくシュートへと収束し、

支えてくれる仲間のアシストを受けて、自分のタイミングで、

自分が納得したシュートを打ち切って、

しっかりとネットを揺らしてコートを駆け抜けて行きたいと思う。

たとえネットを揺らすことが出来なくてもシュートで終わりたい。

そんな人生でありたい。

言葉の力~その2…2012

2012-12-29 05:23:33 | やっぱりミニバス!
平成24年12月29日 土曜日
 
「言葉の力~その2…2012」


私は、精神的に弱い人間です。その自覚を持っています。

立ち向かうことの辛さから逃げたいと思うことはしょっちゅうあります。

そんなときに、人を励まし勇気づけるために語られた言葉が自分に歩むことを促してくれます。

それは、次のような言葉です。


『誠実に行動して失敗した場合は、誇りを失わず、くじけぬように。

そして成功した場合には、謙虚で控え目であること。

有言不実行であることなく、楽な道を求めることなく、

とにかく重圧に立ち向かえ、それを乗り越えられなくとも、

そのような自分を、哀れみをもって受け入れることを恐れてはならない。

同じように、嵐に耐え、倒れた者には哀れみを持つことを学べ。

他人を支配しようとする前に、自分自身を支配せよ。

素直で謙虚な心と、高い目標を持て。

笑うことを学べ、だが、泣くことも忘れるな。

将来に目を向けよ、だが、過去も軽視するな。

真剣になれ、だが、深刻になりすぎてもいけない。

謙虚になれ、そうすれば素直さこそ真の偉大さであること、

心を開くことが真の知恵であることがわかる。

辛抱強くあると同時に、楽観的であることも忘れてはならない。

時が導く結果を受け入れるしかないのだから…

そうして、生きていくことを大切にする自分自身であることを恥ずることなく認めること、

人生を悩むことなく、与えられた寿命を全うすることこそ自分の責務であると思え。』


そんな言葉を心に置いて、無理せず、自然体で、明日のことに思い煩うことなく、また悩まずに、

今を大切に、大切な人を見守り、大事な人と共に生きて行きます。

言葉の力…2012

2012-12-28 05:10:59 | やっぱりミニバス!
平成24年12月28日 金曜日
 
「言葉の力…2012」


ミニバスのコーチを見よう見真似で始めた頃は…

子供達を従わせることばかり意味する言葉を叫び続けていました。

子供達にとって、指導者たる大人の言葉は絶対的力です。

それを理解しないでいると、子供達の心を傷つけます。

威嚇的な言葉は、子供達のプライドを萎えさせます。

だから語るのです。

正しい言葉で、感情的にならずに…子供達の心を傷つけることなく、恥をかかせることなく、

適切な言葉と、行動をもって、子供達の行為を正しい方向に導くのです。

指導者たるコーチの言葉の力の大きさをしっかりと自覚することです。

しかも、その言葉の意味はコーチの信念に基づくもので、揺らぐものであってはならないのです。

でなければ、子供達はコーチへの信頼を無くします…

といって指導者自身が、その言葉の意味が正しくないとわかったときは…

言い訳をせず、自分の権威が傷つくことを恐れず、人として間違いを認める言葉で語るべきです。

それは、真摯に謝る言葉でいいのです。

そして正しい意味を適切な言葉で語るのです。

私が、子供達の立場ならば、 権威を振りかざして言い訳じみて謝るような言い方をするコーチであれば、

それ以降信頼しないでしょう。

ミニバス一考…2012

2012-12-27 06:04:07 | やっぱりミニバス!
平成24年12月27日 木曜日
 
「ミニバス一考…2012」


ミニバスは、小学生の子供達が遊びではなく、初めて興味を抱き…

「やってみようかな~」と思うスポーツです。

私達大人は…子供達が抱いたバスケに対する興味を伸ばし、

「バスケって楽しいぞ!バスケって面白いぞ」という動機付けをすることが大事だと思います。

そのために考えなくてはいけないのは、「誰が、誰のために、それを行うのか?」ということだと思うのです。


まず「誰が、」とは、子供達であり、保護者であり、指導者であると思います。

「誰のために、」とは、子供達が自分自身のために、

あるいは、保護者が我が子の活躍を見たいがために、

あるいは、指導者が自分の欲求を満足させるために、…などでしょうか?

「それをおこなう」とは、当然、バスケットボールを行うのでしょう。

つまり「誰が」とは、この三者です。

ただし、バスケを行う主役は子供達です。

保護者や、指導者が、欲するもののために行うのではないと思います。

「誰のために」とは、「子供達が自分達の求めるもののために…」でしょう。


子供達はミニバスを通じて何を求めたいのでしょうか?

試合に勝つことでしょうか?

ミニバスに関わる大人達…特に、その指導者が考えるべきは、

試合に勝つことが最終的な目的ではないということだと思います。

現実には、これは綺麗ごとの考えかもしれません。

しかし、小学生が始めたバスケを将来に繋げていくための考え方だと思います。


バスケはスポーツです。

スポーツの本来の意味は「楽しむ」ことです。

「遊ぶ」のではなく、真剣になって全力を出すことで…「楽しむ」ということです。

私はミニバスのコーチをしていますが、子供達にはこう言っています。

「バスケを楽しもう!楽しむためには、勝つことをねらうな、負けることを恐れるな

今まで苦しい練習でやってきたことを全力で出しきれ!

試合が終わったとき、自分達は悔いなく、全力を出しきったと思えたら、それがスポーツを楽しんだ、ということだよ」

私は試合後に必ず子供達に聞きます。

「君達は、全力を出しきったか?」と


要は、主人公は子供達であり…

子供達自身が、その仲間が、目標をどこに置くのかを共有することが大事だと思います。

全国レベルの強豪チームでスターティングになることは、並たいていのことではないと思います。

ミニバスの場合は、スターティング10ですが、

ミニバスにおいては、すべての子供達が、バスケを好きになることが一番大事なことだと思うのです。

「自分は上手くならないし…、上手い仲間しか試合に出られない…」

子供達にそのように思わせることは、将来性ある子供達のバスケへの想いの芽を摘み取っていると思います。


まず子供達自身に自分の可能性を信じさせることが大事でしょう。

そして、自分が頑張ることが~チームが強くなり、チームのためになる…という

バスケを好きになるために、子供達にチームに対する所属意識を持たせることが、指導者の務めだと思います。

また仲間は、チームのために存在するのです。

仲間はお互いスターティングになるために、足を引っ張る相手ではなく…チームを向上させる同士です。

チーム力を強くするために、自分という個人が…自分を向上させるために頑張るという意識を持たせることです。

それは、指導者の責任です。

保護者や指導者の欲求を満たすために、子供達はミニバスをしているのではないのです。

子供達が全国レベルでバスケがしたいという目標を持ち…

あるいは、市内大会で上位を目指すチームであれ…、

それは仲間で成し遂げるものだという心を育てるのです。

そのためには…、子供達、保護者、指導者が子供達を中心にした三位一体のチーム一丸になること

大事なのは、大人の欲求ではなく…子供達自身が持つべき、仲間とともに目標に向かう意欲なのだと思います。

その根本を見失うと…誰が、誰のためにやっているかがわからなくなり、チーム一丸にならないのでしょう。


それは、全国を目指すチームから市内大会で頑張るチームまで、

すべてのレベルにあるミニバスクラブの共通したあり方だと思います。

マイナーなバスケを、メジャーなスポーツにしていくために、

ミニバスでは、バスケが好きな子供達を多く育てることが使命だと思うのです。

勇気について…2012

2012-12-26 05:05:03 | やっぱりミニバス!
平成24年12月26日 水曜日
 
「勇気について…2012」


いつもミニバスを指導していて、子供達の気持ちの弱さに悩んでいますが…、

そのこともあって、今日は『勇気』ということについて考えてみました。


勇気(ゆうき)とは、『普通の人が、 恐怖、不 安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じる事 を恐れずに(自分の信念を貫き)向かっていく積極的で強い心意気のこと。勇ましい強い心をいう。』とあります。

また相手を励まし、勇気を与える事を勇気づけるという(勇気をもらうは誤用)。又、勇を鼓(こ)すというと、勇気を奮い起こす意になる。…とも言います。


本来、勇気とは…そういう、生死を賭けた状況の中で、仕事をしていくために、恐れや不安を抑えて行動するための、心の持ち様なのでしょう


ですから、そういう場面でも、整斉とやるべきことを為していく、精神力が基盤になくてはならないのです。

その精神力で…特に、重要なのが「勇気」です。

ところが、「勇気」を身に付けるにしても、その「勇気」とは何か?…ということです。

大体、常識的にはわかりますよね。

「身体的、精神的困難…、もしかしたら、自分の生命を落としかねないという状況に立ち向かっていくための精神力」といってよいのでしょう。

しかし、いざとなったときに、そのような行動ができるかどうかは、普段からはわかりません。

「勇気」を出せる性格とは、日常においてどのような特色を持っている人なのでしょうか?

かつて、アメリカ軍も同じような問題にぶつかりました。

朝鮮戦争で、勇敢な兵士のグループと臆病な兵士のグループが、明確に分かれたそうです。

そこで、アンケート形式で調査をしたら、

勇敢な兵士のグループの特色は、次の通りであったとのことです。

●健康である
●温厚で社交的な会話が出来る
●社会活動に積極的に参加している
●生活の計画がしっかりしている
●前向きな明るさがある
●素直で礼儀正しく信念がある

…などです。

つまりいろいろな要素が、均衡よくとれていて、生活態度の真面目な人が、いざとなった場面では勇敢に行動したというこです。


このことから、「勇気」という資質は、「個人として充実」していることから生まれるとしています。

要は、社会人として真面目であることが、「勇気」を生む基本だということです…が、

本当かな? と思いますよね。

ところが、このことを奇しくも…戦国時代の有名な武将が言っているのです。

これは、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」に書かれていたものです。

日清戦争で、秋山好古(よしふる)が率いる騎兵大隊の初陣を背景にして…

「戦(いくさ)における勇猛さ、大胆さというのはどういうことなのか?」ということについて、次のような記述がされています。

まず戦国時代末期…、豊臣秀吉の家臣である加藤嘉明は、

「どういう家来が、戦(いくさ)に強いか?」の問に対して、一般的な豪傑を否定し、

「戦場で、本当に必要なのは…、真面目なものである。たとえ非力であっても、

責任感が強く、退くな! と言われれば、骨になっても退かぬ者が多ければ、多いほど、その家は心強い。

合戦を勝ちに導くのは、そういう者達である。」

また、秋山好古(よしふる)も同様に、次のように言っています。

「戦(いくさ)は、誰にとっても怖い。

生まれつき勇敢な者というのは、一種の蛮人にすぎず、

その点、自分は平凡な者であるから、やはり戦場に立てば恐怖がおこる。

そういう自然のおびえを抑えて悠々と仕事をさせていくものは、義務感だけであり、

この義務感こそが、人間が動物と異なる高貴な点だ。」


そして、この義務感が精神力として昇華したものが、

自ら求めてそれを為そうとする…、使命感だと思います。


勇気…、それは:きわめて冷静であって、かつ熱い心の鉄の意志がもたらす、結果を怖れぬ行動力です。

最後は一歩を踏みだす思い切りだと思います。

言うは易く行うは難い…想いと行動なのです。

こういう場面は、生死にかかわらない、日常においてもあり得ることだと思います。


スポーツにおける『勇気』とは、特にチーム競技では、ゴールに冷静に、熱い気持ちで向かって行く心…

試合は、練習のごとく行えて、そのために、練習は試合のごとく行える姿勢で臨める心だと思います。

そして、仲間のひとりひとりが、自分のやるべきことを理解し、臆することなくやり切る真摯さでしょう。

勇気を持って…逃げることなく、自分のやるべき行動ができる人でありたいと思います。

迷わないために…2012

2012-12-25 06:00:03 | やっぱりミニバス!
平成24年12月25日 火曜日
 
「迷わないために…2012」


人は人生の節目…、

例えば、次の進路とか、就職とか、何かを選択して判断する時に、どの道を行きたいのか、または行くべきか、最善の選択をするために迷いますね。


そもそも迷うのは、行ける道がいくつもあるからでしょう。

どの道を選ぶのか、分岐点があるから…迷う

最初から一本の道ならば迷うことはないですが、

しかしこれは、厳しい生き方ですね。

迷うことは戸惑うことです…人は躊躇するものです。

リスクをできるだけ、少なくしたいから…そんな道を探るのです。生きるための当然の選択でしょう。

生きる上でのリスクとは何でしょうか?

失うものを少なくしたいからでしょう

失うものを考えて行動することは、何かを手にするために…全力で行動することはできないでしょう。

歳を重ねると…失いたくない、守りたい大切なものができます。

ですから…若いときのように、全力で一途に駆けるように行動することはできません。

だから、一歩一歩を踏みしめて行動するようになっていくのでしょう。

それでも進む道は一本のはずです。

夢を目標にして、それを手につかむために、歩み始めたときから、

歳を重ねて、一歩一歩踏みしめて歩むようになってからも、その道は一本のはずです。

その先は、歩み続けることでわかるのでしょう

先のことは予想はできます。

しかしはっきりとは、わからないでしょう。

その道を選んで、正しかったのか…、誤りだったのか…、という問いかけは虚しい問いかけでしょう。

正しいと思い、その道を行くことを決断したのですから

あの時、別の道を選ぶべきだったと振り返ることは…虚しいだけです。

その道を選び、その道を歩み始めたからには…挫折することがあっても、

その道を選んだときの初心に立ち戻り、そのときの熱い想いを心に置くことでしょう…

分岐点に立っていると思うのは、自分自身です。

そこが分岐点だと思うのは、自分が達成したい事が…いくら歩み続けても、見えて来ないときか、

身体的に歩み続けることが困難になったときでしょう。

身体的に歩み続けることが困難になったときは、絶望の想いに深く沈むのだと思います。

本人以外、その辛い想いをわかることはできません。

それでも時間をかけてでも、新たに歩む道を選んでいきたいと思います。


さて、身体的に歩み続けることが困難になったとき以外のときに、

もう無理!…とあきらめるて、別の道を選ぶのは本人の自由ですが、

もう無理!とあきらめる、その心を…簡単に受け入れるか、否かは、

自分の初心の心と、今の心との葛藤なのでしょう。

答は…ありません。


ただどんな答であれ、後戻りする時間はないのです。

自分が行くと決断したから…、その道を歩み始める一歩を踏み出したこと

ですから、その途中で迷うことに思いわずらうことがおかしいのだと、気付く、自分であるべきなのでしょう。

頂上に向かって…歩み続けるしかないのです。

たとえ、下山しなければならないアクシデントがあったとしても、それは後に戻るのではなく、次に向かって、前を向いて下山するのです。

ですから、歩み出した時点で正解と思った道を…迷うことなく、歩み続けるのです。

とにかく、途中で休んでもいいし…、精神的に落ち込むことがあってもいいと思いますが、

一歩一歩、その道を歩んでいければいいのでしょう。

これは私が、自分自身に語りかけていることです。

ターンオーバー…2012

2012-12-24 05:22:32 | やっぱりミニバス!
平成24年12月22日 土曜日
 
「ターンオーバー…2012」


ターンオーバーを少なくすること…、ミスを少なくしてシュートで終わること。

これが実際にできた時、得点する可能性が限りなく高くなるのは間違いないでしょう。

しかし、そればかりを注意して、そればかりを意識すると…

ミスを怖れて積極性がなくなるのは事実です。

ターンオーバーをしてはならないと、意識すればするほど…、逆に、多くなるものです。

ターンオーバーには、積極的なものと、消極的なものがあると思います。

積極的なものとは、例えば…、攻撃的にプレーを仕掛け突破しようとした時に起こるものです。

それを練習でやったシュート…、ワンカウントストップからのパワーレイアップとか、ポンプフェイクでディフェンスをさばいてからのシュートとか、ステップインとか、ギャロップとか、

練習で出来ているシュートを試合でやろうとして、一瞬の焦りからミスする場合です。


さて消極的なプレーから生まれるターンオーバーとは、

例えば…仕掛けた時に、ディフェンスに阻まれて、これを突破しようとする意識が消沈するプレーで、それで相手にボールを取られて、カウンターブレイクを許すものです。

このような、ターンオーバーを無くしたいのです。

そのターンオーバーの原因は、コーチにあることが少なくありません。

ベンチのコーチの怒声を気にして、怒鳴られないためにプレーをしようとはじめた時に、萎縮してターンオーバーをすることです。

このような時は、子供達は…、プレーに集中しているのではなく、

コーチとゲームをしているような状況の時に、ターンオーバーが起こる可能性が高いのでしょう。

どのようにターンオーバーを少なくするか?

それは日頃から、コーチの子供達に対する姿勢に問題があるのだと思います。

特に、先ほど述べたように、練習の時の姿勢でしょうか。

日頃の練習での単純ミスをどのくらい、どれだけ許容できるか、

それを如何に忍耐強く指導できるか、にあるのでしょう。

本人はミスをしようとしてするのではなく、ボールをキャッチする前に、次のプレーをしようとしてファンブルする。

仕掛けて突破する…突破できる意識を持って個人技を冷静に使えばいいのに、

頭、真っ白で…ただ相手の網に飛び込んで行って、ターンオーバー!…なのです。

プレーの最終的な決定は子供達個人の判断です。

その判断が気持ちの強さから生まれたものか、どうしていいかわからず強引に飛び込んで行ったものか…

その判断は考えて行うものではなく、感性で表現されるものだと思います。

その感性を磨くのがコーチの務めだと思います。

コーチがあまりにもすべてのミスを注意ばかりしていると、

子供達は、逆にうるさいと言わんばかりに消極的なプレーに終始するでしょう。

ここで、許されるものと許されないものの基準を…コーチとして持つことです。

練習ごとにその基準が違えば、子供達のミスに対する感性は磨かれないでしょう。

消極的になっているものには、毅然とした言動で徹底して指導します。

子供達は、これがコーチが言う気持ちの弱いプレーなのか…と、その感性に刷り込むのです。

それは、やがて子供達自身の感性になっていき、気持ちが入ったプレーをしていくようになっていくのだと思います。

そして、そのプレーで犯したミスは許容できるものなのです、

その時にコーチがかける言葉は、『気にしない!もう一度チャレンジするんだ。ナイスプレーだよ!』

さらにそのミスが続くのであれば、ターンオーバーの許容範囲の基準を上げていき…

子供達のミスに対するプレーの感性をもっと磨いていくことです。

この繰り返しで、プレーヤーの子供達は自立し自律していくのだと思います。

子供達は、その感性をもって…、考えることなく無意識のうちの、意識的なプレーとして表現していくようになっていくのだと思います。

それでも、今の6年生のチームは安定しません…強いのか、弱いのか?

それでもコーチを続けていきます!

五十五にして想うこと

2012-12-22 04:02:21 | やっぱりミニバス!
平成24年12月22日 土曜日

「五十五にして想うこと」


五十五…という年齢、齢(ヨワイ)になって思い出す言葉は色々とあります。

年年歳歳花相似…年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同…歳歳年年人同じからず

『来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、それを見ている人間は、年ごとに移り変わる。』


五十五年という歳月を歩んできました。

一日、ひと月と時を積み重ね、一年経つごとに移り変わりながら、その度に新たな一年を刻み続けて来ました。

そしてまた、明日から新たな一日、ひと月を紡いでいきたいと思います。


今もなお、八十を過ぎて健在な父母が五十五年前に出会い…、

その夫婦のもとに生まれ、家族三人で暮らしたあの頃、

生まれてから、幼児期、小学校、中学、高校、大学卒業まで共に暮らし、大きな愛情に恵まれて育ちました。

一番学んだのは、家族の大切さでしょうか。

雷オヤジの畏怖をつくづくと思い知らされながらも、オヤジの背中の重さも衝撃のように感じました。

母親の優しさにもいっぱい触れながら、母親の妻としての辛さも、子供ながらに感じていました。


そして仕事に就くと同時に、親元を巣立ち…、

妻と出逢い、我が子たちと出逢い、私も家族を持ちました。

家族とともに過ごした日々は色々ありました。

家族それぞれに、嬉しいこと、辛いこと、悔しいことがあり、それを家族として受け入れて、家族としてその想いを共有してきました。

生きていくことが辛くなるほどの想いを家族と共に味わいました。

その辛さ、悼み、悔みを家族それぞれに味わいながら、いつまでもそれぞれの心に、それぞれの想いは消せることなく残り続けます。

それでも私達家族は、生きていきます。

私達夫婦は、我が子たちを見守りながら、その心配を生き甲斐にしていきます。

悲しみを内に秘め、たまには涙を流しながら、それでも笑顔を忘れずに生きていきます。

生を受け、親元を巣立つまで、二十二年…、妻と出逢うまで、四年…、家族ともに歩んで、二十九年…、

それが私の五十五年の歳月です。

今日から、また新たな一年が始まります。

過去のことを積み重ねながら、明日を迎えて行きたいと思います。

生きていることに感謝しながら、覚悟を持って生きていきたいと思っています。


この想いを、私への誕生の祝いを贈っていただいた方々への返礼とさせていただきたいと存じます。

ありがとうございました。