バスケ青春の詩

平成25年12月22日をもって33年9か月ほど勤務した仕事を定年退職をしました。これを機会にまた想いを綴ります。

新年度に向けて…2013

2013-03-31 06:45:36 | やっぱりミニバス!
平成25年3月31日 日曜日
 
「新年度に向けて…2013」


今日は、今年度の締めの日です。

明日から子供達は新しい学年になり、また新たな一年を歩み始めます。


さて、私も今のミニバスクラブに携わらせていただいて15年目になります。

新年度に向けて、新たな気持ちで臨む抱負を述べさせていただきました。


『惜別の三月、出会いの四月です。

先日、平成24年度卒会式も無事終了しました。

そして新たな年度がスタートします。

新年度は学年縦割り態勢になって二年目です。

子供達、保護者、コーチがしっかりと三位一体となって子供達の心身の成長に携わっていきたいと思います。

特に、保護者とコーチの連携及び保護者が一丸となった協力をお願いします。

子供達はミニバスというスポーツの技術を習得すること以上に、

ミニバスを通じて、「あいさつができる。自分に負けない。仲間を信じる。仲間を思いやる。敬う。感謝をする。」…そういう心を育んでいき、

ミニバスについては、個人として、またチームとしての目標を子供達自身が定めるように導くことで、

子供達の心に、“自立と自律”が根付くことを指導の目的とし、

将来に繋がる、スポーツマンらしい精神的基盤を育むことに真摯に務めることを誓い、

コーチは子供達を後押しする、指導というサポートをしていきます。

よろしくお願いします。』

“如在”の心…2013

2013-03-30 00:03:44 | やっぱりミニバス!
平成25年3月30日 土曜日
 
「“如在”の心…2013」
(小説“光圀伝”から)


如在(ジョザイ)とは、礼の最も根本的な態度である。

死者や神々が、今そこに在(イマ)すがごとく振る舞う。

歴史を記すことも、それと同じである。

今は亡き彼らが、そこにいたという事実が永劫不滅であることを知り、

その生来の姿を十全に思い描く。

それができねば、死者たちが生前に抱いたであろうさまざまな義もまた、空虚な言葉に過ぎなくなろう。

後世に伝えるべき義は、過去にあって人を動かし、

今の世にあって人に生きる意義を教えるべきものでなくてはならない。

それらのことを知りえたのは、実際に多くの親しき者たちの死を看取ってきたゆえであろう。

いずれにせよ彼らは歴史の一員となったのであり、

また、瞼(マブタ)を閉じればいつでもその命が、今もそこにあるような…如在の想いを抱かせてくれる。

生きとし生ける者はすべて、如在となり、歴史となるのである。


今そこに在(イマ)すが如くに、礼を尽くしてあること…即ち、“如在”、それは儒学の教えであり、

それは学問としての神道とも、仏教とも違う文事としての教えである。

神道も、仏教も、儒学も日本の文化として受け入れられる…日本人のDNAとしての多様性の証しなのでしょう。


しかし、“如在”は、神であろうと、仏であろうと、いずれの教えにも共有されるもので…

それは、祖先を思う心であり、祖先に対して、今、自分があることに感謝し、

また仕方なく、逆縁をもって、夭逝した子達の生きた事実を、心に在(イマ)すことは、今を生きる親達の切なる想いであり、

そして、次代の子供達の幸せを願い、それを実現させるために行う心だと思うのです。

スポーツマンシップとフェアプレイ…2013

2013-03-29 00:37:41 | やっぱりミニバス!
平成25年3月29日 金曜日
 
「スポーツマンシップとフェアプレイ…2013」


以下は、『公認スポーツ指導者養成講座テキスト』に記述されている、「スポーツマンシップとフェアプレイ」について抜粋編集したものです。


“スポーツマンシップ”は、スポーツの愛好者がとるべき最も基本的な態度を促す精神的な理念である。

品位にかかわるこの道徳的規範は、元来、イギリスにおける中・上流階級の人々が、スポーツをあくまでもそれ自体の楽しみのために行い、

スポーツにかかわっているすべての者を尊重し、フェアプレイに徹し、自制すること…
(とりわけ勝敗に対して感情をあらわにすることを抑制する)


“スポーツマンシップ”は、「フェアプレイ」「競技の相手の尊重」「審判の尊重」「感情の抑制」を具体的内容とする…が、

それは、“スポーツ”という限られた時空間にとどまるものではなく、

“sport”には、「スポーツマン的性格の人」という意味があり、

「正々堂々とした人」「さっぱりした人」「くよくよしない人」「好ましい人」を指している。

“スポーツマンシップ”は、フェアネス(公正さ)、礼儀正しさ、潔(イサギヨ)さなど、人が、人の道を生きる上での徳目として持つべき精神とも言える。


“フェアプレイ”とは、

①ゲーム・ルールの遵守
②審判の判定に対する厳格な尊重
③競技相手に対する敬意…などを言い、

スポーツの試合において、たとえゲームの終了間際に負けているときであっても、

審判、そして相手、さらに味方に対して、批判的な言葉を吐いてはならず、

また、試合会場の選定、競技者の選考など、競技にかかわるすべてにわたって、フェアネス(公正さ)を貫くことが要求される。

そして、「勝利に際しては謙虚に振る舞い、敗北時には尊敬に値する態度」が“フェア”であり、

そうあることが真の“スポーツマン”である。

スポーツにかかわることは、“負ける”ことに対する捉え方が大切である。

負けた時の態度こそが、フェアなスポーツマンであるか否かを決定する。

「グッド・ルーザー(good loser)…潔(イサギヨ)き敗者」は、スポーツに係る人々にとって重要な言葉であろう。


また、勝利したときの歓喜の表現が終えたときには、敗者への敬意を表すことが出来る、

「グッド・ウィナー(good winner)…謙虚たる勝者」であることも、フェアなスポーツマンであることに欠かせない精神であろう。


指導者は、技術的なテクニックの指導や勝利のみを追求すること以前に、

スポーツをする者に、「グッド・ウィナー(good winner)…謙虚たる勝者であれ!」、

そして、「グッド・ルーザー(good loser)…潔き敗者であれ!」という精神、態度、行動を形成するために大きな役割を担っている。


●フェアなプレイヤーの特徴
・ルールに従う
・審判の判定を受け入れる
・他の人のよいプレイをほめる
・チームメイトを励ます
・自分のポジションでプレイする
・技能の低い仲間を助ける
・勝ち負けにこだわらないが、
・勝つことをあきらめない
・技能の向上に陰ひなたなく、真摯に努力する

●アンフェアなプレイヤーの特徴
・他の人のプレイを批判する
・審判の判定をののしる
・他の人の失敗を責める
・チームメイトを技量で区別し、足を引っ張る
・ポジションを逸脱し、ゲームを自分だけで支配しようとする
・技能の低い人をからかう
・勝てば満足するが、負ければふてくされる
・楽して技能を向上しようと、易きに流れる


だから“スポーツ”は、人としての正しき心を育成する、“文化”であると思うのです。

最善を尽くす…2013

2013-03-28 05:48:22 | やっぱりミニバス!
平成25年3月28日 木曜日
 
「最善を尽くす…2013」


魂をアツくさせる名言・格言集から…

『最善を尽くして今日を生きよ、

今日という日をよりよく生きることで、

あなたに備わっている「活力」は、明日もよりよい働きをするのです ~ マクスウェル・マルツ』


『最善とは、いくつもある道から最も善いと判断した、ひとつの道を選ぶことです。

選ぶとは捨てることです。

すべての道を行くことはできません。

行く道はひとつです。

自分が最善と信じ判断した道ならば、悔いることがあっても戻ることはできません。

またそこで最善の選択をして前に進み続けるのです。』


最善を尽くすとは、最善の選択をするために注ぐ叡智を、心の汗を滴らせながら、しぼることなのです。


死生観…2013

2013-03-27 00:45:50 | やっぱりミニバス!
平成25年3月27日 水曜日
 
「死生観…2013」
(小説“光圀伝”から)


水戸光圀の傅役の伊藤玄蕃が、死の床にあり、それを見舞った時の光圀に、玄蕃が語った言葉…思想だとあります。

それをこの小説では、水戸家の“死生観”だと書いています。


『これにて今生のお別れにございます。

死を恐れはせずとも、

生を放り出すには忍びず。

せいぜい養生し、

達者に冥途へ辿り着きましょうぞ 』


生きることには執着せずとも、与えられた寿命は健全に全うし、冥途へ旅立つ覚悟であること

“生“と“死”が繋がっている観かた…すなわち、死生観だと思います。

ならば何故、“生死観”ではなく、“死生観”なのでしょうか?

“生”の後に“死”があるなら、生の間に死を観るのであれば、“生死観”だと思います。

“死生観”は…“生死”の狭間にある分かたれたものではなく、

“死”は“生”にとって必然なものです。

生きることは、死を意識しているならば、如何に死するかではなく、

死を前にして、如何に生きるかが、“如在”であることの命題だと言っています。

“生”を受けた瞬間に、“死”が必然と存在するから…死を見つめて生きること、

だから、“死生観”だと思うのです。

“如在”…すなわち、“死生観”なのです。

それは、“死”によって無に帰するものではなく、生きた事実は永遠に消えることはないのです。

それが、“如在”であり、“死生観”だと言っているのです。

信念の力…2013

2013-03-26 05:48:08 | やっぱりミニバス!
平成25年3月26日 火曜日
 
「信念の力…2013」
(致知出版社刊行『小さな人生論』から)


何かを成すためには、行動することです。

しかしその行動を為すためには、心に力がなくてはなりません。

その心の力が、信念の力だと思うのです。


以下は、「小さな人生論」から、一部編修したものです。


『四十数年も前のこと…京都で数百人の経営者を前に松下幸之助氏が講演をしました。

その趣旨は、人材も資金もダムのようにプールしておく経営…

つまり余裕を持った経営をしなければならない…ということです。

これが松下氏の持論の「ダム式経営論」です。

講演が終わり、聴衆のひとりが質問をしました。

「ダム式経営の秘訣は何か?」

松下氏は間をおいて、「わかりませんな」と答え、さらに言いました。

「ひとつ確かなことは、まずダム式経営をしようと思うことです。」

失笑が会場にあふれました。

「思うだけで できれば苦労はしない」

「馬鹿にするんじゃない」…そんな声も聞こえました。

そんな聴衆の中で、頬を紅潮させて松下氏を見つめる青年がいました。

京セラを創業して間もない、二十代の稲森和夫氏です。

稲森氏は心に熱いものを感じ…
「そうか! まず思うことなのか。」

稲森氏は脊髄の奥に火がついたような感動で心を熱くしました。

その心の火が信念となって凝固したのだと思います。

信念とは、信じ念じることでしょう。

稲森氏はダム式経営を信じ念じ続けました。

その信念は京セラの現在に結晶しています。』


『数多くの経営者の中で、一業を成した人には、突出して二つの共通した要素があるのを感じないわけにはいかない。

一つは、「価値を見出す力」です。

自分の置かれた環境、そこに結ばれる縁、携わる仕事などに、

多くの人はさしたる感動も、興味も覚えることもなく、

それらはたまたまのもの、ありきたりの事と見なしがちです。

ところが、一業を成した人は、何気ない出会いに見えることも、何気ない出来事にも必然を感じ、意志があると感じるセンスがあるのです。

そのセンスは、センサーです。

それは持って生まれたものもあれば、

持って生まれていないとしても…

それを先人の教えとして心に刻むことで、そのような心に練られるのでしょう。


さてもう一つは、「価値を信じる力」です。

稲森氏は、若い社員たちと仕事を終えてから、

一緒にラーメンをすすりながら、熱く語り続けました。

「自分達がやっているのは世界のだれもやっていない事だ。

自分達は世界の先頭を走っている。」

自分の行っていることに「価値」を見出し、

それを強烈に信じているのです。』


『価値を見出す力。
その価値を信じる力。

それが信念の力です。

信じ念じる力が、道のないところに道をつくり…、

人を偉大な高みに押し上げていくのです。』


『最後に、松下幸之助氏の言葉を紹介します。

「根無し草に花は咲かない。

信念がなければ人生に花は咲かない」』



何かを成すためには、行動することです。

しかしその行動を為すためには、心に力がなくてはなりません。

その心の力が、信念の力だと思うのです。

人間力を養う…2013

2013-03-25 03:03:33 | やっぱりミニバス!
平成25年3月25日 月曜日
 
「人間力を養う…2013」


人間力という言葉は辞書にはありません。

人間力の礎(イシズエ)は知識かではありません。

人間力を養うには何が必要なのでしょうか?

まず、その根っ子になくてはならないのは、『憤(フン)』の一字だと言います。

物事に出会い、人に出会い、発憤し、感激し、自分の目指す自分に向かって行く…

その想いを人間力の根っ子として持っていることです。


次に大事なのは『志(ココロザシ)』だと言います。

『志』とは、忘れられつつある言葉ですね。

それは『夢』と言ってもいいかもしれません。

いかなる志、夢を持っているか。

それを実現させようとする あきらめない心の強さ、

しかし、あきらめるしかない状態になった時に、

絶望の想いから、再び歩き出すことのできる力…

そんな力を、一途に何かを求める人は持っているようです。

それは年令にかかわることがなく、少年や少女が持っている熱き情熱です。

老いれば老いるほど、経験すれば するほどに、馴れてしまうから…

年をとっても その情熱を持ち続ける、心の若さです。

年をとるにつれ、強欲になる、生きることに執着する。

少年や少女は、生きることに執着はしていません。

遺(ノコ)された時間はタップリとあることを無意識に知っているからです。

それが『若さ』です。

年をとると、遺された時間を感じてきます。

だから生きることに執着し、いかに生きるかを考えなくなっていく…

少年や少女は、いかに生きるかを考えることはありませんが、

何かに一途に向かっていく情熱こそが、いかに生きるかを体現していると思います。


練り上げられた人物は、少年や少女のような一途に向かう情熱を持ち続けていると思います。

それが人間力の原動力、エネルギーでしょう。

何でもいい、ひとつでもいい、たとえば…

ミニバスのコーチをして子供達の心を耕し、育むことに情熱を掛けること。

子供達によって、その人物は練られていくのでしょう。

出会った子供達、その子供達の言葉、その子供達の想いが自分を成長させてくれる。

そんな体験ができることに心から感謝します。

そして人間力を練り上げるのに大事なひとつは…

受容できる心だと思います。

信念を持ちながらも、しなやかに、相手を認める心です。

ぶれない心でありながら…、

素直な心、柔軟な心であること。


心に、『憤』があり、『夢』を持ち、それに一途に向かう『情熱』がある。

そして、信念を持ちながらも『受容』する心であること。

そんな心を持つことは難しいことだと思います。

しかし、そんな心を持ちたいと思います。

まず、そのように思うことから始めることです。

それが、人間力を養うことだと思うのです。

贈る言葉と夢を語れ!…2013

2013-03-24 06:13:21 | やっぱりミニバス!
平成25年3月24日 日曜日
 
「贈る言葉と夢を語れ!…2013」


ミニバス男子の卒会生に贈った言葉です。

『次に向かって歩んで行こう。

 だから、今を大事に

 そして、夢をあきらめない!

 そのために、自分に負けない!

  感謝の心を忘れずに

全力! 集中! 仲間のために!』


そして子供達には夢を語って欲しいと思います。


「夢を語れ!...2013」

夢を語るということは、夢を言葉にするということです。

ここでいう「夢」とは...希望や願望をいい、実現させたいものを言います。

いわゆる...「Dream」(ドリーム)です。

「夢」は、その人の内に秘めた想いでしょう。

でも、それは実現させたい想いです。

そのために、「夢」を語ること...「夢」を言葉にして表現することが大切だと思います。

想いとしての「夢」はふわふわしたものです。

それを言葉にすることで、自分は具体的に...何をしなければならないのか見えるのです。

言葉にすることで今の自分の立ち位置...立脚点がわかり、

どこに向かっていくのか、その注視点が見えて、

自分の今の夢に対する視点がはっきりするのです。

その視点は、現在の自分の年齢や知識に基づいたものですが、

注視点に向かって行く具体的な道を描くためには、

立脚点を高くする...つまり、必要な情報を具体的に積極的に集め、

夢を実現する可能性のレベルを上げていく努力をすることで、

立脚点が高くなり、高所大所の広い視野を得られるのです。


それは...「ビジョン」です。

また、「夢」を言葉にすることで、それに向かう途中での失敗を怖れなくなるということです。

内に秘めたままでは、失敗したときに折れやすい心になっているのです。

失敗しても...あきらめないで、夢に向かって歩き続ける。

その勇気は、言葉にして語ることで、自分自身を自分で励ますことができるのです。

さらに、「夢」を言葉にすることで、周りの人達にも伝わるのです。

そうすれば、それらの人達が...夢を実現するために、努力をしている自分を認めてくれれば、自分を支えてくれる人達になってくるのです。

必要な情報を教えてくれたり、励ましの言葉を掛けてくれるのです。

それを恥ずかしいことだと思う事はないと思います。

自分の夢を目標にして、それを実現させて手にするために、

自分の周りの人達との関わりを避けて通ることはできません。

自分が乗り越えていくべき壁は、自分自身ですが、

そのために、周りの人達の支えが乗り越える「力」を与えてくれるのです。

夢に向かうために、夢を言葉にして...夢を語ることです。

夢を目標にし、挫折しながらも、それに向かい続けるために...

君たちは夢を語らなければならないのです。

私の想い…2013

2013-03-23 05:07:01 | やっぱりミニバス!
平成25年3月23日 土曜日
 
「私の想い…2013」


今日、ミニバス男女が卒会を迎えます。

卒会にあたり、主担当コーチとしての想いを綴りたいと思います。


私は、この子供達に出会え、最高の舞台を体験させてもらったことに心から感謝しています。

子供達は、ひとつひとつの目標を手にして、クラブ始まってから成し得なかった素晴らしい戦績を残しました。

そのことを後輩達も誇りに思い、自分達もひとつひとつ目標を手にしていけば、最高の舞台に立つことが出来る!…そのような気持ちを持って欲しいと思います。

この素晴らしい戦績を残し得たのは、子供達自身の努力は当然として、

特に、保護者コーチの熱い情熱があったからです。

その保護者コーチの方は、わずか1ヶ月余りの間に審判講習会を集中的に受けて、審判の資格を取られました。

それは子供達を思う熱い気持ちがなければ出来ないことです。

そして、今まではなかった地域のチームや県外の強豪チームとの遠征練習試合を多く行うのに、積極的に取り組んでいただいて…

それが、この素晴らしい戦績に繋がったことは間違いありません。

そして保護者のお母さん達も、その遠征練習試合を積極的に支えてくれました。

まさに、子供達、保護者のお母さん達、保護者コーチがひとつになってやってきたから、この素晴らしい結果を残すことが出来たと思います。


しかし全てが順風満帆に来れたわけではありません。


……………………………………………………………………

子供達は、この素晴らしい結果を目標にしてやってきたのでしょうか?

違いますよね。

自分達がここまでの結果を出せたから、後輩の君たちもここを目標に頑張れ!…と言う。


それに対して私は思うのです。

その素晴らしい結果を、6年生が成し遂げられたのは、小さな目標を手にしながら、積み上げたものです。

次の後輩達も、小さな目標を積み上げて行くように頑張るのでしょう。

私は、小さな目標を子供達自身に語らせて、子供達自身が自主的にそれに向かって行くことを伝えて来ました。

それは、コーチの目標ではなく子供達自身の目標です。

コーチはそこに行きたいという、子供達の想いを実現して欲しいために指導というサポートをしたのです。


次の子供達にも、そのようにサポートするつもりです。


どこに向かうのかは…コーチと子供達が語り合って、子供達自身が決めるものです。

『君たちは、どこを目指して行きたい?』

『(例えば子供達が…)市大会ベスト4!』

『わかった。そこに向かって行くのなら、君たち自身が、辛い練習であってもやり切って行けるんだな?』

…とコーチは、子供達に問い掛けて、そこに向かうサポートをして行きます。


今回の素晴らしい結果も、その子供達自身の目標に向かう気持ちと、コーチのサポートがひとつになり、子供達自身が成し遂げたものです。

だから…その素晴らしい戦績は語り継ぐものであって、それを最初からコーチが語り、目標にさせるものではないのです。

語り継ぐために、どこかに謙虚に刻んでもいいと思いますが…


ひとつひとつ階段を上って行くことで、子供達はバスケを好きになっていくのだと思います。

バスケを好きになること…それがミニバスの目的だと思います。

天地の狭間にあるもの…2013

2013-03-22 06:08:04 | やっぱりミニバス!
平成25年3月22日 金曜日
 
「天地の狭間にあるもの…2013」
(小説~光圀伝 から)


今、読書中の小説“光圀伝”から心に響いたところを書いてみました。

……………………………………………………………………

『天地の狭間にあるもの、ことごとくが師…』


天地が自分を取り囲んでいるのは当たり前である。

だが当たり前のことが、驚くほど鮮やかに認識されていた。

まるで今初めて天地の存在に気づいたという感覚だった。

天地の狭間にあるもの全てが師であることを知ることから始めなければならない。

己の虚しさを知ることで、己が満たされていくことを感じなければならない。

そうすれば、思い悩むことに、思いわずらうこともなく、ただひたすらに思う事を為すことに夢中になれる。

思いわずらうことなかれ、 為さざれば成らぬのは 必至…ならば、為さざるをえず。

出来るか、出来ないか…ではなく、

為すか、為さぬか…であり、為すことがなければ、成らぬものも成らない。

これほどに悔やむ生き方をしてよいのか?


“生きる”とは、そういうことだろう。