ベトナムの子どもたちに奨学金を――FUJI教育基金

ベトナム南部・北部の中学・高校生、大学生に奨学金を贈って勉学の支援をしています。

ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(6)

2012-04-19 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。



《ゴクテーム中学校の見学旅行》-1

 トゥオイチェ新聞社の2人の記者(連載(3), (4), (5)の2010年9月8日付の記事を書いたドアン トゥ ズイ、タイ バー ズンの両記者)と連絡を取り、2010年10月28日から30日まで2泊3日の予定で、宿舎建設を予定しているゴクテーム中学校の見学旅行に出発しました。
 ホーチミン市から北北東約380キロメートルの地点にあるジャライ省プレイクまで飛行機で飛んで、タイグエン地方一帯のニュースを担当する両記者と合流しました。
 さらに、コントゥム省コンプロン郡まで約140キロメートルの距離をタクシーで走破。
 コンプロン郡で出迎えてくれたゴクテーム中学校校長先生の案内で、コンプロン郡教育委員会が手配したジープに乗り換えました。
 ゴクテーム中学校まで約35キロメートルの山道は急坂で悪路のため、普通の乗用車では登れないとのことです。

 ジープでの行路は、“聞きしにまさる”大変な道のりでした。
 途中まで、アスファルトで舗装された道が続いている間は、日本の山道と同じく、右に左に大きくカーブを切って揺られながら登って行くだけでしたが(それでも日本の道路と違って、山道の片側に転落防止のガードレールがない!)、途中で舗装が切れてからは、大変でした。
 一帯が赤土で覆われていて、山の斜面を削って作られた道は、雨季で小雨が降る中、ぬかるんですっかり軟らかくなっています。
 車がタイヤを乗せる道の中央部分は、タイヤで削られて大きくくぼんでいます。

 くぼみの深さが数十センチにも達すると、四輪駆動のジープでも走行できなくなります。
 すると運転手はハンドルを切って、まだタイヤで削られていない道の片側に登って走行を続けます。
 もちろん道の端はきわめて狭く、ジープの左右の両輪が載るだけの幅しかありませんから、ハンドルを切りそこねたら道の中央のくぼみに落ちるか、反対に山の斜面を滑り落ちるか……という羽目になりかねません。

 場所によっては、ジープの両輪を載せるだけの広さもない所があります。
 すると運転手は、乗っている私たち(二人の記者と校長先生と僕の四人)に降りて先に行くように促し、ジープに積んであったシャベルを取り出して、近くの土や大石をかき集めて山の斜面の側に盛り土をして臨時的に道幅を広げ、両輪が載るだけのスペースを作って通り抜けるのです。
 つまり、
 「山にジープの通れる道がついている」のではなく、
 「道のとぎれている所は、道を作って通る」のです。

 橋の架かっていない川は、直接ジープで川の流れを渡るのです。


 こちらの川岸から向こうの川岸まで一直線上に、川の流れにも流されないような大きな石を川底に置き並べます。
 水流は、置き並べた石の上とその隙間から流れます。
 そうすると、車がタイヤを石の上に載せれば、水深が浅くなって渡れるのです。

 しかし、水の流れはかなり速く、濁っていて川底は見えません。
 「川底に深みがあって、もし車輪が穴に落ちたら…」などと考えると、ヒヤヒヤします。

 そうかと思うと、山道を走行中のジープが突然大きく上下左右にガタガタと激しく揺れ、しっかり摑まっていなければ座席から放り上げられて、天井や窓ガラスに頭をぶつけそうになります。
 山道は一面に、雨水でドロドロに溶けた厚い赤土の層に覆われてその下は見えませんが、たぶん、鍋や釜ぐらいもある大きな石が赤土の下にゴロゴロと転がっていて、その上を走行するジープを激しく揺するのでしょう。
 そして、山道にガードレールはないのですから、「ハンドルを切り損ねて車輪が山道の固い部分を踏みはずしたら…」などと想像すると、正直、《怖い!》です。

 途中で行き交う人や車は、ほとんどありません。
 特に、山が深くなり、赤土の泥に埋まった道が延々と続くようになってからは、旅行の復路でたった1台のバイクを見かけただけです。
 (聞いてみたら、ゴクテーム中学の先生が所用で山を下りているのだそうです。) 
 そのバイクも、街なかで見かけるように楽々とは走れません。
 タイヤが十数センチほども赤土の泥の中に埋まったバイクに、両足を左右に開いて乗り、泥の下に隠れている鍋ほどもある大石に翻弄されてバイクがバランスを失い倒れかけたら、すぐさま倒れかけたほうの足で泥(地面・大石)を蹴ってバランスを戻しながら、ゆっくりと走るのです。
 「それにしても、エンジンのタフなバイクだなあ…」と感心してしまいました。

 山道の途中で、“泥の海の中にポツンと取り残された”無人のバイク1台と、小型のトラック1台を見ました。
 バイクは、おそらく途中でエンジンがストップし、どうにも掛からなくなってやむを得ず乗り捨てて歩いて行ったのでしょう。
 私の住んでいるホーチミン市内であれば、乗り捨てて行ったりすればすぐさま誰かに持って行かれてしまうに違いありませんが、こんな深い山の中、泥の海のような山の坂道では、エンジンがかからなくなったバイクなんか、誰も手をくだせないだろうな……と思いました。

 トラックのほうは、道のカーブを切りそこねて、山の斜面を滑り落ちかけたものでしょう。
 急斜面の一歩手前でかろうじて停止できたものの、もう斜面をバックで登る余力はなかった……。
 私が乗ったジープの運転手は、

 「こりゃあ、トラックの運転手は真っ青だな!!
 もう1メートルもズリ落ちていたら、山の斜面を下まで転げ落ちるよ!」

と、大声をあげました。
 本当に“間一髪!!”の怖い雰囲気でした!

 そんなこんなで、ジープに乗っている間の行路は、日本で生まれ育った私には、

 「よくこんな道を通行させるなあ…。
 日本でなら、こんな道は、絶対すぐに《危険! 通行禁止》だろうなあ。
 もし《通行禁止!》にしないで犠牲者が出たら、即、地元警察の責任問題になるだろうなあ……。」

としか思えない過酷なものでした。

 片道数時間以上に及んだジープでの行路(往路と復路では取った道が違い、要した時間も大幅に違った)が私に教えてくれたことは、自分が訪ねたゴクテーム村がいかに町社会から隔絶された深い山の奥地にあるかということでした。
 私の場合は破格の値段でジープを雇い、トゥオイチェ新聞と地元の学校・教育委員会が連携して準備してくれたからこそ行けたけれど、さもなければ無理だったでしょう。
 私がジープを雇うのに支払った経費は450万ドン。当時としては、ハノイ⇔ホーチミン市を往復する飛行機代よりも高かったのです!
 もちろん私が、中学校に寄宿舎建設費を寄付してくれるかもしれない“VIP”であったからこそ、各方面が協力してくれたのです!

 地元民は、特に必要な人以外、バイクも車も持っているはずがありませんから、乾季で道の赤土が乾いている時期はともかく、雨季で泥深い道がグシャグシャにぬかるみ、水かさが増えた橋のない川を徒歩渡(かちわた)って3, 40キロメートルにも及ぶ山の坂道を歩き通すなどということは、よほどの理由がない限りできない相談だろうと思います。
 ということは、ゴクテーム村が町の消費生活からほとんど切り離されて“自給自足生活”を余儀なくされた村であることを意味していると思います。
 平野部の土壌豊かな農村での“自給自足”ならともかく、山の斜面にへばりついた村の、これといった産業を持たない住民の“自給自足”ということは…。

 ゴクテーム中学校訪問旅行で、特に印象に残ったこと-1

 ゴクテーム中学校訪問旅行で、特に印象に残ったことを2つ書き加えておきます。
 私たちがゴクテーム中学校に到着したのは、2010年10月29日午後5時前でした。
 学校に着いてひと息ついてから、「寄宿舎の生徒たちが食事をしているから見学に行こう」と同行した記者に誘われ、彼について行きました。
 その日はちょうど土曜日で、土日の連休を利用してほとんどの寄宿生は家に帰っていましたが、自宅が遠すぎて2日間の連休では寄宿舎と自宅とを十分に往復できない子供たちが残っていたのです。

 すでに日が暮れかけた時間に、野外から食堂と称する木造の建物(ごく最近、篤志家が“食堂”を寄贈してくれたそうです)の中に突然入ると、蛍光灯のない食堂の中は薄暗くボンヤリとしか見えません。
 ゴクテーム中学校には、まだ電気が通じていないのです!
 その薄暗がりの中で、十数名の子供たちがまばらに座ってボソボソと食事を取っていました。
 彼らの“食卓”を見た時のショックを、私はまだ覚えています。

 私は小学生の頃から、「人体の健全な生命維持には たんぱく質、脂肪、炭水化物、各種ビタミン、カルシウム、ミネラル…といった栄養素が不可欠で、特に成長期にある子供たちには栄養のバランスの取れた食事が必要…」と習い覚えて、それを信じてきました。
 しかし、私がそのとき実際に目の当たりにした“食卓”には、透明のプラスチックの容器に入った白米のご飯と汁、そしてヌクマムと思われる小瓶に入った黒い液体があるだけでした。
 ご飯とは別のプラスチックの容器に入った汁は薄い醤油色をしていましたが、薄暗がりの中で見た私の目には、汁の中に“具”がまったく見えませんでした。

 トゥオイチェ新聞の記者が前もって私に送ってくれた写真、この《寄宿生たちの食事風景》の写真そのままの光景が、私の目の前にあったのです。

 あの写真には、ご飯と汁のほかに空になったプラスチックの大皿が写っていました。
 日本で生まれ育った私は深く考えることもせず、「ベトナムの貧しい人たちがそうであるように、非常にしょっぱいオカズを大皿に盛ってみんなに割り当てた。でももう彼らは食べてしまったので皿はカラなのだろう…」程度にしか考えませんでした。

 でも実際は、私が大皿と思ったものは皿ではなくて、ご飯を入れた容器のフタにすぎず、オカズなんて最初から何もなかったのです。

 ――内戦に明け暮れる国にいるのではなく、戦火を避けて逃げまどう避難民でもない、彼らの日常の食事がこうだとすれば、自分が今まで日本で受けてきた《教育》とは、いったいなんだったのだろう……。――

 私に同行した記者は、私と寄宿生たちを懇談させたかったようですが、私は、なかば呆然とする思いで彼らの食卓を見つめたきり言葉が出ずに、その場を引き揚げてしまいました。……

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