ベトナムの子どもたちに奨学金を――FUJI教育基金

ベトナム南部・北部の中学・高校生、大学生に奨学金を贈って勉学の支援をしています。

[アンザン大学奨学金授与式] (2007年10月11日)

2007-12-18 | アンザン大学
カントー市から車で1時間ほど離れた、メコンデルタ第2の都市ロンスエン市にあるアンザン大学は、1999年12月に設立された。もと師範学校から昇格して、現在、教育学部のほかに農学部もできている。学生数6,000人である。
FUJI教育基金は2006年からアンザン大学の農学部学生20人に奨学金を授与している。(教員養成課程は授業料免除)
アンザン大学では、世界的に有名なコメの研究者であるスオン学長が迎えてくださった。奨学生は女子13人・男子7名で、前年と同じく女子優勢である。
(ボ・トン・スアン学長)
初めにFUJI教育基金から挨拶をした。「奨学金は少額であるけれど、少しでも皆さんの役にたって将来の社会に貢献してほしい」。
それに対しスオン学長から、「メコンデルタの環境は厳しく、農民の収入は低い。奨学金は安心して勉強できるよう、大きな刺激と励ましになる。また訪問したFUJI教育基金のメンバーに新しい人が増え、また若い人が増えているのもうれしい」とおっしゃった。
また、「アンザン大学は女性が進歩するためのプロジェクトをたてている。女子学生の数は53-54%である。副学長ほか女性のスタッフも多い。特に女性の栄養について考えている。なぜなら、世界的に見てGDPの上昇と女性の体格の上昇は、並行しているから」とのことであった。(アメリカだけが例外)
奨学生の1人アントウさんが感動的な感謝の辞を述べた。
その後、奨学生と懇談した。

学生はアンザン省だけでなく他の地域からも来ている。同じ省からでも自宅からは通えないが、他省からはさらに条件が悪い。
図書館も見せてもらった。開架式で明るい感じであるが、まだ図書は少ない。コンピュータも80台しかなく、1人2時間の制限時間をもうけている。
(アンザン大学の時間を知らせる“ドラ”?)
夜はスオン先生を囲んで、有意義な夕食の会となった。例の橋についても話がでた。(宮本記)

[カントー大学奨学金授与式] (2007年10月11日)

2007-12-18 | カントー大学
カントー大学は、FUJI教育基金の出発点で、在日の元ベトナム留学生たちが初めて奨学金を贈呈した。この1991年から、奨学基金を設立した1996年を経て、いままで17年間奨学金の授与がつづいている。
これまで延べ431人に奨学金を授与してきた。その間、事務的な世話をしていただいた職員も入れ代わり、また大学の経済的な環境も改善されてきたため、2006年からは奨学生数をそれまでの20人から5名に絞り、逆に金額は3倍にして、年間1人300万ドンを授与している。
 メコンデルタ最大の街カントー市にあるカントー大学は、2006年に創立40周年を迎え、記念式典には我々も招かれて出席した。理学部、工学部、農学部、教育学部があるが、これからは文系を整備して総合大学を目指している。特に農学部は、メコンデルタの主要な生産を担っている農業の発展に大きく寄与している。東京農工大学と姉妹校でもある。
1年後には整備されるという分子遺伝学の建物を見ながら、我々は授与式の行われる教室に入った。そこでは顔なじみのキム先生(名誉教授)、副学科長のチュン先生がお待ちだった。若い方のキム(チョン?)先生の司会で、式が始まった。
はじめにFUJI教育基金からの挨拶と紹介、キム先生の奨学生選択の過程の紹介、奨学金授与、園芸科3年のジュンさんのお礼、などがつづいた。ご出席の先生方のなかには、九州大、東京農工大、広島大等日本に留学された人も多かった。メコンデルタはとても生活が厳しいところで、学生達たちにとって、奨学金はとてもありがたいとのことであった。
その後学生食堂で、教室のスタッフや大学院生を交え、奨学生とともに昼食を囲み懇談した。今年の奨学生は男子1人・女子4人で、いぜん女子が優勢であった。(宮本記)

[ベンチェ特別支援児学校訪問] (2007年10月10日)

2007-12-18 | ベンチェ
 翌10日は朝から移動し、ベンチェ省特別支援児学校を訪問した。
 ベンチェ省は、ホーチミンより南南西70km (車で約2時間余) メコン川河口部の広大な中洲地帯に位置している。ベトナム戦争当時、はじめて民族解放戦線が結成され、戦闘が行われたところで、大量の枯れ葉剤散布に曝された地域でもある。
 1989年、日本の女性養護教員により家庭に放置されていたさまざまな障害をもつ子供たちが見出され、日本に援助の会ができ、学校が建てられた。現在では視力、聴力、肢体不自由等の障害をもつ、小学生から高校生までの子供達たち204人が、共同生活をしながら学校教育を受けている。
 日本からの援助は打ち切られているが、ベンチェ省の予算による障害をもつ子供たちへの普通教育は、ベトナムにおいても進んだものとして高く評価されている。しかしここを卒業した後の子供たちは、自立が難しく、やむなく宝くじ売り等をして生活しているものもいる。
 その実情を憂慮した“ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会”の会長で元知事レ・フインさん (Le Huynh=Huynh Van Camさん) の希望を受け、FUJI教育基金では2006年度から、学校卒業生と周辺の障害をもつ生徒への職業トレーニングに対する援助を開始した。

 援助の内容は、刺繍教室を開くための教材、生徒20人分の9ヵ月間の食費、先生の費用である。このトレーニングは、子供たちが将来、自立して生活できるようになることを目的にしている。
 ベンチェ特別支援児学校では、レ・フインさんと前副校長のデイエップさんに迎えられた。昨年会った校長先生は変わられたそうで、会えなかった。刺繍の先生も変わっていた。刺繍教室は、昨年訪問したときは夜で、中高校生も混じって行われていたが、今年は昼で授業中ということもあり、埃の少ない敷地の奥の一室に移り、20名で行われていた。男の子もひとりいた。

 児玉房子さんデザインの憲法九条のポスターを、昨年、教材として試しに作らせ、試作品を日本でまわりに紹介したところ、きれいだと好評を博した。そこで、50枚を注文していたが、その半数以上が出来上がっていた。ほかの作品もとても上手になっていて嬉しかった。一部、サインの位置等の手直しと、ガラスの額をプラスチックの額に換えてもらうよう頼み、先を急ぐ我々はおいとました。(宮本記)

[ツーズー病院訪問] (2007年10月9日)

2007-12-18 | ドクさん

 ツーズー病院はベトナム一の規模の産科専門病院で、日本にもこのような大きな病院はない。ベトちゃんドクちゃんがそこで分離手術を受け、25歳の今日まで(ドク君は結婚して最近独立し、ベト君は先日亡くなった)暮らしてきた。
(ドクさん夫妻)
 私は2年前、初めてドク君に会い、彼の片足を支えている骨盤の小さいこと、手術当時すでに意識のなかったベト君に残り半分を与えたこと、そして今日まで看護をしてこられたツーズー病院の姿勢に深く感動し、尊敬してきた。旅行者には簡単に訪れることのできない病院である。今回、静脈点滴の器械をおみやげに持参した。
 前副院長のタン先生、平和村のチュン先生、ドク君、あとから院長のタン先生も来てくださり、立派なザボン(唐辛子と塩をつけて食べる)をいただきながら説明をうかがった。また、私達の質問にもこたえていただいた。

 なお、平和村は親に捨てられた障害を持つ子どもを育てるために、ドイツのNGOによって建てられ、このツーズー病院内を含めて、全国に4箇所ある。
 医師281人、看護士800人以上、スタッフ1,800人で、ベッド数1,100、患者2,000人、お産は年間4万5,000人。ベトナムには産科の病院が少ないため、患者が集中しているという。日本のように分娩促進剤を使ったり、帝王切開等はせずに、結合児も逆位も普通分娩で産ませる、障害児の割合は約1.5%で、このなかには耳の聴こえない子などは含まれていない。この数字は日本の10倍である。その他、スタッフの仕事のやりかたの違いが、いろいろわかった。
 午後も遅くなったので、平和村の4階だけ案内していただいた。
現在、ツーズー病院の平和村には60人が収容されている。うち35人は学校に行くことができるが、25人は障害が重く、一生面倒を見ることになるという、チュン先生の説明であった。現在はドイツの援助はなく、病院が費用を出しているという。
まず通された一室には、四方の壁全体に3段の棚が設えてあり、異常胎児の標本が保存されていた。ラベルを見ると、戦争終結直後の標本とみられるものから、最近のものまであった。
 子供たちの部屋に行く階段の壁には、子供たちの写真が掲げられている。
ベッドには、重度の障害を持つ小さい子供たちが横になっている。彼らは、思わず抱き締めてしまいそうな美しい目をし、我々の来訪を喜んで声をあげてくれた。子供たちは大変弱いので、空港から直行した我々がどんな病気の原因を持ってきているかもしれないと、早々においとました。(宮本記)