もしかしたら野球を知らない人でも、"日本プロ野球最多勝利数投手"だけあって知られた存在やったかも知れません!"最多敗戦投手でもある"んやが(苦笑)それだけ数多く試合に投げた証左でもあるし、国鉄の打線が良くなかった影響もあって。にしても、ラグビーやCSやゴルフやテニスや陸上のニュースと被って、日曜日の晩の"スポーツニュースでの扱いが、小さかった"(号泣)"ニュースにも運が、ある"って言いますしね・・・懸河のドロップは、カネやんの後輩の堀内恒夫やったかな(大汗)つまりは、"カネやん"こと金田正一 氏が、亡くなったという事です(涙)ご存知、最後は自ら脱退しましたが、名球会の創始者・発起人でもあります!なお愛知県人やのに、基本は関西寄りの関西弁や広島弁交じりの関西弁で話す事が、多かったですな。カネやんは、享栄商業高時代に甲子園に出場したものの、補欠選手で出場機会は、無かったが、たまたま名古屋の国鉄(野球の方ね)の練習場で練習をしていた所を球場の管理人が観ていて、国鉄の監督に推薦し家庭が貧困やった事もあり学校を中退して、国鉄に入団。ただ本人は、まだプロ野球が2リーグ分立直後という事もあり、立ち上げたばかりの球団という事もあり"プロ野球という世界は、つまらん!ようあんなんに金を出して、球場に観に来るわ。"と思いながら、登板してたらしいですよ・・・ただ入団1年目から8勝を挙げました。そこから14年連続20勝以上!!!通算4490奪三振!!言うまでもなく、チームどころか球界の大エースとなり、監督や球団社長やオーナーより偉くなり、チームメイトや監督からも「天皇」や「金田様」と呼ばれるようになり、ますます増長して行きますが、これだけ結果を出したら(大汗)!ただ、4回途中や4回2/3まで投げていて勝ち投手の権利を得るかといった先発投手をカネやんは采配の権限まで持ってたから、「ピッチャー、ワシじゃ!」と"他の投手の勝ち投手の権利を奪ってまで得た400勝"という意見も、一方であります(汗)でもそれだけタフで、実際に点をあまり取られずに、打線の援護も無い国鉄でこれだけの勝利を挙げた訳ですから!そのカネやんでも、入団2年目から"もう肩を痛めてた"と証言してますから、"そんなもんは、投球フォームの工夫や走り込みやトレーニングでいくらでもカバー出来る!"と理由にならんと一蹴してましたからね。
当時としては、珍しいミネラルウォーターの飲料・食事に投資し、"身体が、資本"というのを体現してましたね!殆ど収入をこれらに投資してたから、あまり貯金が無かったらしい。1度交通事故をしたから、運転手付きの自動車運転・左手で赤ん坊を抱っこしない・禁煙・真夏でも長袖で肩や肘を冷やす事は、厳禁(逝く寸前まで、まだ肩を冷やしたり半袖でプレーする選手を否定していた)といったストイックさ。そして何より"走り込み"の重要性で、日本プロ野球史上「一番走った選手」やったかも知れません、ベテランになっても!だからいくらプロ選手でも、そんなに走れる選手なんて居ないと思われるから、テリー伊藤は、彼を"ターザン"と呼んでましたね。400勝の内、移籍先の巨人では47勝しか挙げてないんですから、殆どが無援護の国鉄で勝利を挙げたものなんですな(驚)!そうは言うものの監督より偉いんですから、国鉄打線も彼が登板する時は、必死になって打ちに行ってたと思います(でないと、353勝も出来ない!)し、自ら打者としても打ってたと思いますよ!→通算本塁打数は、投手としては最多の38本!!ただ打率は低く、基本的には1割台・・・投手としての打撃は、別所毅彦(昭)の方が1枚上で、よくシーズン打率3割以上を打っていた!なお、プロ最終年の1969年に「代打・金田」で、ホームランを1本放っている!有名なんは、1958年の対巨人戦でのルーキーの長島茂雄との対戦で、4打席連続4奪三振は、カーブが視界から消えたと言われる!!その「カネやんのカーブ攻略対策」として長さんは、"大きめのヘルメットを被って、カーブの見え方をよく見えるように工夫した"とされる(大きめのヘルメットは、"豪快な空振りをファンに見せるというパフォーマンス"というのは、後付けや建前でほんまはこっちの理由やった!!)!!!なお、次の試合の1打席目でも三振を奪っており、"ほんまは、5連続奪三振じゃよ"と証言してます(笑)ただ強がり発言や盛る発言として、"プロ野球の将来や人気を考えて、ONには本気を出さずに、わざと打たせたりした時もあったもんじゃよ"・"当時スピードガンがあったら、180kmは出てた"・"(試合数が多いから)メジャーに行ってても、400勝してた"と言うてましたなぁ(笑・汗)なおほんまの苦手なバッターは、ヨッさんやったといわれる(背は低かったものの、高めの速球に強かったから)。ただ巨人に行ってから、"ONをバックに投げるのは夢やったし、こんな心強いものはない!"・"ただ巨人に来てから、ハングリー精神が無くなった"とも証言しております(汗)ただ今まで以上に巨人にプロ意識を植え付け、トレーニングや取り組み方を巨人に多大な影響をもたらしたのは、間違いない!「V9もカネやん無しには、成し遂げられんかった」と特に本人が、豪語している。やり残した事は、ヴィクトル・スタルヒンの持つ84完封勝利試合に並びたかった事(1足りずの83完封)ぐらいで、記録者が1つ数え間違え(カネやんに82と教えていた)てて、本当はもう1つ多かったから、あと1やったら、もう少し現役を続けていたといわれる!
セ・リーグ出身であるけど、1973年にロッテの監督に就任!当時も不人気のパ・リーグにスターが、どうしても欲しかったんでしょう・・・"それに意外にサービス精神が旺盛で、最近になって各球団が始めてるようなキャンプ地でのサイン会や写真撮影会を早くから開いていた。マスコミ向けには監督賞の品物を披露するなど、少々泥臭いが話題を常に用意していた"。その最たる例が、平和台球場での「太平洋との遺恨試合」でしょう(笑)太平洋の稲尾監督との申し合わせで平和台での太平洋戦では、常に乱闘をして、盛り上げていた!さらに太平洋側は「バットを持ってファンを威嚇し、暴れ回る金田監督の様子をポスター化して、さらに九州のファンへ喧嘩を煽ってさらに球場が、盛り上がる。」といったオイルショックの憂さを晴らす現象も見られた(笑)"試合になると、ベースコーチに立った。ファンに大ウケしたのは、コーチボックスで見せる「カネやんダンス」だった。体をひねりながら、足を片方ずつ肩より高く上げるだけの、単純な柔軟体操のようなものだった。ファンは400勝投手の身体の柔らかさに目を見張り、「さあ、攻めるぞ」という感じのポーズに大喜びした。観客動員も目立って増えた。しかし1975年に巨人の監督に長さんが就くと、前年日本一のロッテに記者が、ちょっとだけ顔を出したかと思えば、直ぐに宮崎の巨人のキャンプに向かわれた・・・「(去年の)日本一は、うちやで・・・」と嘆いた。ただ自身が客寄せの目玉になるだけでなく、話題の選手も集めた。現役引退していた城之内邦雄を現役復帰させ、ロッテに入団させた(もちろんテストは建前で、入団前提で)。江藤慎一・ノムさん(南海のオーナー・川勝傳の口添えでロッテの球団社長やったかな?オーナーやったかな?に)といった面々を。カネやんも好んで老兵を配下にしたくなかったが、当時のロッテに求められたのは、誰でも知っている「有名な選手」だった。1978年、江藤・ノムさん2人共不本意な成績を残したまま、1年で退団した。1975年になると、カネやんを取り巻く熱気も少し冷めてきた。自身の体調も思わしくなく、4月から5月にかけて心臓発作で9試合休んだ。6月初めには、現役続行を望むジム・ラフィーバーに引退勧告。仙台を準本拠地にして、後楽園、神宮、川崎、静岡でもホームゲームを消化する厳しい日程に、カネやんもナインも疲れていた。同年前期最後の関西遠征では、腰痛を理由に近鉄最終戦を矢頭高雄(現役時代は、大映・大毎・東京)コーチに任せて主力と共に帰京、ベンチ入り14人という無気力な試合をした。「近鉄には失礼と思ったが、雨模様だったので・・・」と弁解したが、近鉄側はカンカンに怒った。パの救世主・金田は一転して秩序を乱す無法者と見られるようになった。チームの成績は下降線をたどり、観客も次第に減った。リーグ活性化にさまざまな建設的意見を述べたが、失言もいくつかあった。その最たるものが、「阪急が勝つと、ペナントレースに活気がなくなる。」だった。常勝阪急が不人気に悩んでいたのは事実だった。だからといって、阪急のプレーオフ進出を望まないような発言には問題があった。1977年に後期を制したものの、78年には監督1、2年目のような精気は全く見られず、失意のうちに退陣した。12年後に再びロッテの監督に就任したが、敵も強かったが、味方が大きく変わっていた。選手の意識の変化に戸惑った。クールな小宮山悟、牛島和彦らには400勝投手の威光も、ストレートには伝わらなかった。「カネやんダンス」を知らない若手も多かった。1シーズン制に戻っていたが、1990年5位、91年最下位で、前回よりはるかに惨めな状態で退陣した。" ""内は、『近鉄球団かく戦えり』参照。園川一美(ロッテ)の牽制球でボークの判定で、審判への暴行で出場停止・刑事事件にまで発展したのも、2回目の監督の時でしたなぁ(困)あともう1つ勿体無かったんが、狭かったものの、内・外野天然芝でバリアフリーまで充実していた東京スタジアム(球場)を「あんなホームラン量産球場・直ぐホームランになる球場など、要らん。」と大映映画の経営不振もあったものの、突き放した点は、残念やったな(涙)背番号は、選手・監督時代、終始"34"。曰く"背番号は、野球選手の顔。何で変えなイカンのじゃ"。僕は、左投手では、"歴代ナンバーワン投手"やと思ってます(燃)!!ノーノー1回、完全試合1回も記録!通算成績は、試944 400勝298敗 防2.34/試1011 471勝468敗72分 率.502 でした。実質、指揮をしてない試合も入ってますが・・・もう誰も、現役時代のこの記録は抜けんでしょう!合掌です(涙)