GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

この肩書で終わった訳やないが(汗)

2015-05-28 00:00:00 | 野球

 「法政三羽ガラス」と謳われ、鳴り物入りでプロ入りした富田勝(南海―巨人―日本ハム―中日)氏が、亡くなられました・・・ちなみに"法政三羽ガラス"とは、法政大学を指すのは当然の事ですが、「東京六大学野球」の名門大学の1つですが、この年の選手達は、法大に限らず逸材だらけで凄かったんです!!何しろ富田氏の他に法大には田淵幸一・山本浩二(浩司)、明大・星野仙一、亜大・大橋穣、近大の藤原満・有藤道世(通世)など錚々たる顔触れが(燃)富田氏は、1968年オフにドラフト1位で南海に入団しました。1年目から75試合に出場。翌1970年はレギュラー三塁手に定着、23本塁打を放ち、規定打席にも到達する。翌年は外野手も兼ねるが打撃面で伸び悩み、1972年のシーズン後半は故障もあって欠場が多かった。同年オフに、「長嶋茂雄の後継三塁手候補」として、川上哲治監督からの強い要望があり、トレードで巨人に移籍。ノムさん曰く南海は、"富田を出すんやから、かなり大物でないと釣り合わん。そう考えてたんで、新浦壽夫(寿夫)とのトレードを要求した"が、「新浦はエース候補、出せん!」とあっさり断られたんは、ケチである川上さんらしいとの事 という話も!(困)1973年は、あまり成績は奮わないながらも、9連覇達成に貢献した。僕としては2007年にハマスタで隣の席に居た横浜ファンのおじいさんが「法政の富田は、巨人に来て長嶋と同じポジションだったから、活躍出来んかったんだ・・・」とおっしゃてたんで、僕も"そのイメージが強かった"ですね(落ち込み)翌1974年は三塁手、二塁手として43試合に先発出場、打撃も復活し活躍する。1975年には、成績不振などから出番が減り、同年オフ日本ハムに移籍(汗)最初の2年間はレギュラー三塁手、1978年に二塁手・外野手に回る。中心打者として活躍し、打率3割を2度記録した。1981年に中日へ移籍。1981年は92試合に出場したが、翌1982年はレギュラー陣の好調や若手の台頭もあり出場機会がなく、同年限りで現役引退した。ちなみに1981年8月26日の宇野ヘディング事件と同日の対巨人戦にて史上2人目の「日本プロ野球全球団から本塁打」を記録している。引退後はテレビ東京、中京テレビで野球解説者を務める傍ら、『ビートたけしのスポーツ大将』内で野球チーム「たけし軍」の助っ人として活躍するなど、タレントとしても活動していた。その後球界から遠ざかり、大阪で警備会社を経営していました。他の同世代の選手に比べると、通算成績で見劣りしてますし、僕としてはどうしても「立教三羽ガラス」の本屋敷錦吾同様"プロに入ってからは、あんまり活躍せんかった選手"の印象が、在りましたなぁ(すいません)通算成績は、試1303 率.270 107本451点 安1087 でした。よう見たら!通算1000本以上もヒット打ってるやんけ!!!合掌です(涙)
 そういやぁ法政で思い出したけど、法大が相手やって東大がこないだチームとして100敗目前で久々に勝利を挙げたんやったなぁ(大笑)

コメント (2)
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