GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

もうあのトークと本質を突いた意見が、聞けないのか・・・

2023-06-03 00:41:02 | ミックス

 というか、ビッグ3プラス4人の中で、また故人が出て来てしまうとは・・・紳助よりいつか戻って来て欲しいって思ってたのに・・・元芸人・司会者の上岡龍太郎(本名:小林龍太郎)[漫画トリオ]氏が、亡くなりました!今回のネットニュースで知った事やけど、高校時代はロカビリーに憧れて、バンドをやってたそうやな(汗)どうせ散る(不合格になる)んなら派手に散ろう(自身の学力より相当上の大学を受験しよう)という事で、立命館大学を受験も不合格で、高卒で芸能界入り(汗)新喜劇の座員研修生の横山フック(現:青芝フック)と共に先輩である横山ノックと漫画トリオを結成。芸名は、横山パンチでツッコミを担当。当時芸人では、珍しいイケメン芸人でもあった。立ち位置は、上手(かみて)やったかな?ツッコミの割に真ん中に立たないのも、珍しいよな!パッと浮かぶのは、昔のBコースのタケトと超新塾とカルテット同期の休日(太田プロ)が、一番端の下手(しもて)が立ち位置で。中ボケが、フック師匠で、大ボケがノックでしたでしょうな。時事漫才というか「火災予防週間」などを題材にして、漫才コントを演じたり、僕の知識不足であるが元 パート2の森健四郎(現在は、一般人)氏が自身達もショート漫才を1度の公演のネタの中で何本も披露していた(本人達は、4コマ漫才と証言していた、やるようになったのは、女学生からのアドバイスで"もっと短いネタ・笑いをたくさんやれば良いのにと"いうヒントを与えられて・・・)んやが、曰く"元々ショートコント・ショート漫才というのは、昔からあったんです。漫画トリオさんが、やってましたし"と証言する様に最初に披露したのは、もしかしたら上岡師匠らの漫画トリオやったんかも知れません!アンタウォッチマンの検証によると、一応関東ではジャドーズが、バンドの曲と曲の合間にお笑いコントみたいな事をやっていた為、それがショートコントやった為"ショートコントを最初にやったのは、ジャドーズ"と言われているが、渡辺正行は"最初にしたのはジャドーズかも知れないが、明らかに世に浸透させた・ショートコントを確立したのはウッチャンナンチャンが、最初である"と証言・定義してるな。さらに漫画トリオの漫才コントに入る前の競馬のレースが始まる前の効果音の擬音"パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン"といった場面転換(ブリッジ)を最初に確立してた可能性も、ある!ただ関東では、東京丸・京兵 師匠が、"ブリッジ確立者"と言われている。ただここで関西・関東「どっちがパクリや」とか、「誰が最初にやった」とかは、言うべきやないと思います!!ともかく漫画トリオは、ブレイクした。特に上岡師匠のツッコミとノックのタコ踊りは、人気を博した。ただ師匠は、常々「ノックさんは、太陽」・「笑いでは、ノックさんに勝てない」と言ってましたが、僕はノックがピンで喋ったりしてる所で、"面白い"と思った事は、1回も無いですけどね(涙)ノックの参院選出馬(政治家への転身)により、トリオは活動休止(実質解散)・・・上岡龍太郎に芸名を変え、ピン芸人として再出発をする。ただノックにまだ見る目があるなと思ったんは、上岡師匠に"司会者としての才能があるという事を見抜いてた点"やったかな。フック師匠は、年齢的にも芸能界でも、上岡師匠より年上にあたる。

 関西でラジオパーソナリティーや司会者としてメキメキと頭角を現す!京都出身らしく裏・表があり、明からさまに面白いワードやポイントを強調せずに、サラッと発言するあたりは、話術や知的さを感じましたね。紳助は根の頭が良くないから、そこが師匠との違いでしたな・・・一方で「関東・東京嫌い」を公言し、基本的には東京進出しない事を明言していた。この事は、後述。屁理屈屋でもあり、前言撤回や名言っぽく聞こえるものが多く見られ・・・

 ・そんなルールをきちんと守るような奴が、この世界(特に芸人)に入って来るとは、思ってない。もしかしたら(オール巨人の様に)そうは考えない(いくら芸人でもそういう事は、きっちりしなければならないという)芸人さんもいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも僕はそうは思わない。仕事に遅刻して来た事を怒ってるんやなくて、"遅刻して来た時の言い訳が面白くないから、怒ってるんや"。

 ・芸人から政治家になる者はおっても、政治家から芸人になった者は1人もおらん。だから芸人の方が、偉い(太田光 氏も全く同じ意見で同じ事を言うてましたな・汗)。

 ・芸人とヤクザは非常に似ているんですよね。"みんなからチヤホヤされたい"・"楽をして儲けたい"とか、「だから芸人とヤクザが仲良くするな!」と言う方が、土台無理な話でね。

 あれほど"東京は、民度も笑いのレベルも低い。アホの住む街や。箸が転げ落ちただけで笑うような、レベルの低い笑い。いいとも!の様な番組が流行ってるのも、同じ様な証拠。"と言っておきながら、"驚きましたね!東京は、ギャラの桁が0が2つ違うんですわ!"と言って、東京のギャラの良さに妥協し、晩年は東京進出をあっさり実現してしまうという狡猾さ(笑)そこを問われると、"別に好き好(この)んで、東京で仕事をしてるんやない、東京に住んでたり仕事をしている皆さんは、「あなた達はアホですよ~」と言いに来てる・注意しに来てんねん"と弁解してましたな。似た様な事で禁煙やゴルフやマラソンも挙げられるけど、それを未だに問い詰められると、"人というものは、進化する動物であります。小学生の時言ってた事を大人になった今でもやってるか?やってたら、そらアホやで(笑)"と屁理屈で返した時には、さすがの今田も「こ憎たらしい~」って思ったらしいけどな。良く言えば臨機応変で柔軟な思考の持ち主で、悪く言えば結構ブレてるよな、ただブレる事は、悪い事やないと思うけどな!僕も口でああだこうだ言いながらブレてる方やと自己分析では、思ってますけど、周りからは「(殆ど)ブレへんよなぁ」と言われます(苦笑)

 1987年に関西ローカルの『鶴瓶上岡のパペポTV』(好評の為番組終了後も1年間、後継番組の『LIVE PAPEPO 鶴+龍』という番組も継続される、中身も全く一緒)で東京からも注目され始める。翌年には、ナイトスクープの放送も開始。局長という名の司会者となる。1990年に『上岡龍太郎のもうダマされないぞ!』で東京でもレギュラー番組や人気番組を持ち始める。ただ『新装開店!SHOW by ショーバイ!!』の解答者に出てたイメージは、全く無かったですけどね・・・何なら解答者ではなく、逸見政孝 氏逝去後の目も当てられんぐらいひどい状況となったこの番組の司会をやれば良かったのに、同じ関西出身やったんやし。まぁでも、この番組は逸見氏の影響・イメージが、強すぎたから、誰が司会をしても同じ結果やったかな・・・話を戻すと、こうは言いながらも、違う番組に出てても僕は、彼を"局長"と呼んでたぐらいナイトスクープが、当時好きな番組やった!探偵!ナイトスクープ - GRの戯れ言日記 (hatenablog.com)

 彼が出てた・ロケVのあとの的確なコメントや軽妙なトーク・流暢な司会「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流!恵まれない天才、上岡龍太郎です!」を体現してたかな。上岡師匠が司会やったから、熱心に観てたっていうのは、絶対にありましたね!やからプチ上岡ファンでもある訳で、同時間帯で同じアトラクションありのクイズ番組でもこっちのKinki Kidsメインの『バリキン7 賢者の戦略』の方が面白い・面白そうやったのに、敢えて師匠が司会のテレ朝の『超次元タイムボンバー』を観てた(汗)

 立て板に水の如く流暢で噛んだ所を観た事が、無い!ただ自身の限界も若い内から悟っていて、"笑いでは、ノックさんには勝てん。司会や名調子では、浜村淳には勝てん。なら僕は、ラジオ番組内で今ハガキを読んでる間に次のハガキにもう目を通してる(頭の中で読み始めてる)ような「日本一ハガキを読むのが上手い人になろうと思った」、たいしたこっちゃないけどね"といった具合に腕を磨いたようですな。一方で都市伝説で「あんた何も出来ひん人やん」と酷評した事がきっかけで、高島忠夫 氏をうつ病に追い込んだとも言われてるけどな・・・

 引退理由は自身やテレビ業界に愛想が尽きたとかディレクターやプロデューサーの本気度が伝わって来なくなって来ていたとか惜しまれながら引退・ええ時に身を引く方が華、と思い、2000年での58歳での引退はさすがに早いと思ったし、「今後の芸能界はどうなるんやろう?」と思ったけど、何とか回るのがこの世界!本人も若干早かったと、やや後悔してたみたいやけど、それでも復帰を望む声が大きく聞かれても、復帰しなかったのは、ほんまに立派やったと思う!!でも、つい最近の『週刊女性』の復帰して欲しい芸能人ランキングの7位に入ってた(6位は、紳助)し、上位は別のネットランキングでは、長瀬智也や成宮寛貴や渡辺麻友が、入ってたな(フン!)・・・僕がそのアンケートに答えるなら、断トツで上岡龍太郎やったのに!圏外では、桜井幸子も入ってたな、もう美貌は衰えてるけど、惜しいな・・・あと"引退宣言をすればもっと仕事が増えると思った"けど、若干自身を過大評価したのか、増えも減りもせんかったよう(汗)さらに"(引退を)誰か止めてくれると思った"けど、「誰も止めてくれんかった(そらそうやわ、ライバルが勝手にいなくなるんやから、むしろラッキーと思うタレント、多数)」・・・ただ"目標が居なくなるから、辞めないでください!"と必死に止めたのは、島田紳助だけであった・・・長年生粋の阪神ファンであったが、芸能生活の最後の数ヶ月は、99年オフにヤクルト・特に巨人からロートルの様な選手・広澤克実(克己・克)に球団が、背番号31を与えた事に激怒して、最後は近鉄ファンになりましたけどね。芸能界では数ヶ月やったけど、引退後も近鉄ファンを続けてくれたそうやな(週刊朝日によると)。ピチ近鉄ファン仲間としても、お悔やみ申し上げます。母親を食いものにした心霊現象やオカルトや超常現象や手品や占いといった"科学的に説明出来ないもの"を毛嫌いする一面もあった。

 引退後は、ノックや弟子の(青空)テントの葬儀やらに顔を若干出す機会もあったな。ただ2008年頃に公の場に顔を出した際に、当時師匠は普段からレッドカーペットを観ていて、「ラジバンダリ―」・「あると思います」と言っていた事には、かなりショックを受けたわ・・・さらに報道陣に「皆さん、レッドカーペットを観てませんか?」とも問いかけてたし(涙)上岡龍太郎ほどの師匠が、あんな軽薄なショートネタを批評し、観て喜んでるなんて!と・・・個人的感情になるけど、オンバトの名を挙げて、芸人の本来の姿である本ネタを扱ってる方をフィーチャーして欲しかった・・・師匠がオンバトをご覧になってたかは、判りませんがね(汗)上岡師匠を撮影してたカンテレに配慮して、フジテレビ系の話題を挙げたんかも知れんが・・・弟子には、ぜんじろう(金谷善二郎)も、居ます。

 子どもの頃は、横山やすしと区別がつかんかったけど、性格は真逆やがな(少笑)これだけ流暢で喋りの上手い人は、未だに見た事がなく、べしゃりの天才でしたね!!今日のナイトスクープのエンディングの追悼映像と追悼文だけやけども、観たで!今頃、ノック・米朝師匠・談志師匠・枝雀師匠・たかじんらと丁々発止のやり取りをしてるかなぁ。上岡師匠、僕らに楽しい時間を提供してくれて、本当にありがとうございました!!!!安らかにお眠りください!

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