GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

日本シリーズ今昔話

2018-10-26 23:51:34 | 野球

 悪い予感がしてたんですが、結局西武は、"短期決戦向きのチームやなかった=投手力が弱いから"という事やったんですよ(涙)西武に日シリに行って欲しかったけどね!さてその日シリと言えば、過去に大活躍したジョー・スタンカ 氏が、亡くなりましたね・・・ある程度は、「南海ホークス回顧」で書きましたが、改めて(汗)スタンカ氏は、1960年に南海に入団。愛称は"赤鬼"「外国人初の100勝投手」(ヴィクトル・スタルヒンを除く)!1961年の対巨人との日シリ第4戦では、1点リードの9回裏に杉浦忠をリリーフして登板。2死までこぎ着けたが、その後ファーストの寺田陽介が、スタンカに握手を求めながら飛球を捕ろうとした為か落球(←何でこんな行動、したんやろうな?)・・・さらにサードの小池兼司がゴロをファンブルするというエラーが重なり、満塁となる。ここで打席に入ったエンディ・宮本をカウント2ストライク1ボールと追いつめ、自信を持って投げ込んだ投球を円城寺満球審は「ボール」と判定した。ノムさんは後年に「『文句なしにストライク、ゲームセット』と思って私はスタンカに駆け寄ろうとしたら円城寺審判は何と『ボール』と判定」、スタンカは円城寺に詰め寄った。ベンチからも全員が飛び出して「なんでボールや、ストライクやろ。」とまくしたてたが円城寺は「普通ならストライクになるボールだが、風があったので早く沈んだ。それでボールと判断した。」と説明した。野村によると「こんなわけのわからない説明で納得できるわけがない。この他にも南海に不利な判定が何度もあった」という。試合再開後、次の同じ様な球を宮本に痛打されてサヨナラ負けを喫する。この時、スタンカはバックアップに入ると見せかけて円城寺に体当たりを食らわせた。この敗戦が影響して(ただし第5戦は勝利)、南海は日本シリーズに敗れる。同試合を見ていた商社マンが「円城寺 あれがボールか 秋の空」という一句を色紙に認め、実業家に転身していたスタンカに贈った。その色紙は後年になってもスタンカの事務所に飾られていたという。また、後年ノムさんは「僕が気持ちが早ってしまい、腰を浮かせた状態で捕球したから円城寺球審の死角になったのではないか。あれは僕のミスやった。ただ当時、セ・リーグでは、フォークを投げる投手が皆無で審判も見た事がないような軌道、スタンカが長身スタンカが長身すぎて、ボールが見にくかったのでは?」とも証言している!!このコメントを知った際には「彼とバッテリーを組んでいた事を誇りに思う」と賛辞を送っている。"巨人有利の時代"のエピソードでなぁ・・・ただスタンカ氏は、これでめげる事なく東京五輪開催の1964年には26勝を挙げてパ・リーグ(シーズン)MVPに輝き、阪神との日シリでは第1・6・7戦で先発し3完封の離れ業をやってのけ、南海の日本一に大きく貢献!!!阪神の助っ人外国人投手のジーン・バッキーと"助っ人外国人投手の投げ合い"は、見事でしたなぁ。日本シリーズMVPも受賞しました(拍手)!!翌1965年も先発投手として活躍したが、長男が自宅風呂場でガス事故死し、不幸を断ち切りたいと帰国を決意して、失意の内に南海を退団した。しかし何と翌年の1966年に大洋で復帰(驚)。実は打撃も得意で、代打での出場もあり通算7本塁打を記録している。さらにそんな失意の心理状態で6勝も挙げている(燃)!!ただ1年で退団し、米国に帰国(汗)ラストイヤーに6勝も挙げたのは、今回の朝日新聞で初めて知った!ただ!同新聞の顔写真は、大洋時代の物でしたけどね(大洋のイメージは、あんまりないからなぁ)・・・先発投手では"史上最強の助っ人投手"と言って良いんやないかな!?中継ぎでは、ブライアン・シコースキー。守護神では、デニス・サファテ。通算成績は、試264 100勝72敗 防3.03でした!合掌です(涙)

 日シリ予想ですか?難しい・・・交流戦を観れば、圧倒的にパ・リーグチームの方が強いのは判ってますが、ソフは"2位から勝ち上がったから、という感情"が入ってしまいますし、だから広島に日本一になって欲しいという願望もありますが・・・やはりパ・リーグの長年の苦労とかも知ってますし、ここに勝って欲しいっていうのもある(汗)ソフトバンクは万全やないけど、4勝2敗でソフかな!ただ"広島にもチャンスが、無い訳やない!"と思います!!

コメント
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