GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

無題

2017-04-11 00:04:10 | ミックス

 京唄子(鳳啓助・京唄子、唄子・啓助)師匠が、亡くなられました。啓助師匠は、父が剣戟俳優の梅林良雄で3歳の時に祖父の劇団で子役デビュー、1956年に自ら座付き作家を務めた「瀬川信子一座」の一員だった京唄子と出逢い、漫才コンビ「唄子・啓助」を結成。お馴染みの挨拶である「エーッ、鳳啓助でございます」や「ポテチン」、「あら、言いそこ間違いよ」、「君の事は忘れようにも思いだせない」などのギャグで人気を博した。その後、唄子と結婚するが、1964年に離婚後もコンビとしての活動を続け、「唄啓劇団」を旗揚げした。その後、2度の結婚、「志織慶太」の名で脚本家としても活動。漫才師の活動以外では、俳優として多数の映画に出演。テレビでは『唄子・啓助のおもろい夫婦』の司会や、『お笑いスター誕生!!』に審査員として出演。特に『おもろい夫婦』では京唄子師匠との丁々発止の言葉のやり取りが番組の人気を博し名物となった。1994年に没。一方の相方唄子師匠は、1945年、宮城千賀子の劇団「なでしこ劇団」に入り、京町唄子の名で舞台女優となる。後、不二洋子、瀬川信子などの一座を転々とする。俳優の浪花五郎と結婚するが5年で離婚。その後、1956年に「瀬川信子一座」で座付き作家を務めた鳳啓助と出逢い、漫才コンビ「唄子・啓助」を結成して漫才を始める。後、啓助と結婚するが1965年に離婚。3度目の結婚は三田マサル(啓助の実の弟・志織満助の元相方)。現在の夫は4人目の結婚相手である。1970年には唄啓劇団を旗揚げ、1980年代前半には一時、吉本興業と提携していたが、1987年、当時の所属事務所倒産に伴い解散。同年、京唄子劇団を設立。1969年から1985年まで16年間続いたフジテレビのトーク番組唄子・啓助のおもろい夫婦で啓助とともに司会を務め、啓助との丁々発止の言葉のやり取りが番組の人気となり名物となった。このほか、日本テレビの芸人オーディション番組お笑いスター誕生でも啓助とともにレギュラー審査員の一員として出演し、辛口のコメントで出場芸人の芸を評価した。刑務所への慰問活動も積極的に行っていた。 1997年、国際芸術文化賞を受賞。2008年3月20日、上方演芸資料館が選出する「上方演芸の殿堂入り」入り表彰を「唄子・啓助」で受けた。これに対して唄子は「表彰は身に余る光栄。亡くなった啓助さんも喜んではると思います」と語った。上沼恵美子とは親交が深く、大阪や東京での番組出演が多くなり、神戸のサンテレビで上沼自らがメイン司会を務めていた『ズバリ!悩みおまかせ』の出演が時間的に厳しくなった為、信頼を寄せる京唄子に後継番組として『京唄子の何でも言うて!』として司会をバトンタッチした。『快傑えみちゃんねる』にも上沼と馬が合うからかたびたびゲストとして出演していた。 2009年に病に罹り、1年半の病気治療及びリハビリを経て、2010年10月14日放送のドラマ『渡る世間は鬼ばかり』で復帰を果たした。←全てWikiコピペ(爆)僕は師匠らの漫才は、回顧番組でしか観た事が無いですし、知らんも同然です!ただ唄子師匠は、当時明石家電視台番組内で最後の素人参加(主にクイズ)チャレンジ・"「ポーカーチャンス」でいつもわざとショージが、他の解答者と意見を合わせず、外しにかかる事"に番組をテレビで観てる師匠が、冗談半分・本気半分で"あんたはいつも期待さしといて、外しに来るなぁ!ええかげんにせえ!!"と同番組に実際にゲストとして行って、怒ってましたが、結構お気に入りでもあったようで"村上ちゃん、村上ちゃん"と笑顔で連呼してましたな。あとは個人的には、ラジオ番組『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』にも時々出とった印象が、あります。あと議論番組『世代密林~ジェネレーションジャングル(ジェネジャン)』(←皆さん、覚えてる番組かな?)でも若者に対して大きな声で熱弁してた印象も!合掌です(涙)

 それと先日の広島対阪神戦で珍記録が(笑)両チーム計"26四球"は、1試合最多四球は、1937年の1リーグ時代に名古屋金鯱軍対ライオン戦に並ぶ"プロタイ(9回)記録"で、セでは"新記録"!80年ぶり2度目。さらに延長10回にも1四球が記録され、「27四球」

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