GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

奇蹟のインシュートを天国でも!

2015-10-17 21:39:00 | 野球

 盛田幸妃(幸希)[大洋・横浜―近鉄]氏が、亡くなりました!盛田氏は、1987年の夏の甲子園で1回戦で敗退したものの、プロのスカウトへのアピールも密かに成功させ、上原晃(中日―広島―ヤクルト)と共に当時の"目玉投手"として注目を浴びました。速球が、売りでした。函館有斗(現:函館大有斗)高校から1987年オフに大洋に1位指名で入団!1992年にシュートを武器に"中継ぎ投手ながら、最優秀防御率"を獲得(クラッカー)大魔神と共に「勝利の方程式」の"ダブルストッパー"を担う(力こぶ)しかし翌年は、疲労からか不振に陥る・・・1994・95年と大魔神離脱時は、守護神も務めましたし、ダブルストッパーは当時のセ・リーグでも脅威の存在でした!!1996年は開幕投手となった様に先発に転向したものの、失敗した上、危険球騒動にモロに巻き込まれ、大不振となる(困)翌年も開幕投手も殆ど二軍暮らし・・・近鉄に請われて、1997年オフに近鉄とのトレードが、成立!!=パ・リーグへ移籍。移籍初年度の1998年は、絶好調で守護神・大塚へ繋ぐ8回登板の貴重な中継ぎ投手として「勝利の方程式」の一翼を担いました!!!何と前半戦だけで1敗のみの5勝1Sを挙げました!!と同時に体調不良や右足の痙攣などに襲われたのは、原因は脳腫瘍であったんで、当然戦線離脱、酒井弘樹が台頭し盛田の役割を果たすも、近鉄も優勝を逃す一因となってしまった・・・僕も当時"盛田良かったのに、急に戦線離脱したけど、どないしたんかなあ?痛いなぁ!"と思ってましたが、そんな深刻な病に罹ってたとは、露知らずでした(すいません)今でも多分、"この時彼が居たら、近鉄はAクラスか優勝してたと思ってますよ"!同年手術をした後、医師から「スポーツ脳に腫瘍があり、普通の生活に戻れても、野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたという。手術後も右足に麻痺が残る後遺症があったがリハビリで克服。驚異的な回復力で翌1999年8月には二軍戦に登板出来るようになり、1999年近鉄の試合最終戦でもあり、大阪近鉄最後の藤井寺球場での一軍戦の試合という「記念となる試合」で劇的な復帰を果たし、しかも1イニングを無失点で抑える(しかし本人の中では、「復帰」であって「復活」ではない!と)[拍手]飛躍も期待された翌年でしたが、3試合の登板に終わり、"現役続行危機"を噂されるも、フロントの温情措置もあり、大幅減俸も契約更新(大笑)翌年の2001年は、投手陣炎上の中、"彼も例外ではない事もあった"が、時々結果が出た時もあり、特にダイエー打線が、彼を苦手としてた事もあり、"対ダイエー戦での有効"が、見られた!現に6/13の対ダイエー戦で1082日振りの勝利を飾る!!最終的に防御率7.06も、地元札幌でのオースルターの出場や2勝を挙げ、"近鉄のリーグ優勝(冠)にも「大きく貢献」"(拍手)カムバック賞も受賞するっ!!!「奇跡のリリーバーと呼ばれるようになる!それでも本人は、気丈夫で「もう美談で語られるのは、勘弁かな」と強気を隠さない(燃)翌年の2002年に2試合目が対オリックス戦での引退登板となり、先発として打者1人と対しかつてのチームメイトの進藤達哉から奪三振しました。したがって2002年のオフに引退・・・
 翌年からは、解説者となっていましたが、GAORAの解説やTBSラジオのナイターの無い日の野球情報番組などにも出演してましたし、つい最近まで見聞きしてた存在やったのに(涙)あまりにも突然の事に感じています・・・僕は外様ながら、マウンドでの強気なインコース攻めとは裏腹に、オフのバラエティ番組で笑いながら下ネタを言う「茶目っ気」のあるあなたが、大好きでした!!あの落合博満が、「一番苦手な投手は盛田」と言わしめた存在で、落合氏に対しても一歩も引かなかったですからね(燃)ほんまに怒鳴られても、反感を喰らおうとも、インコースを攻め続けるあなたは、立派でした!!通算成績は、試345 47勝34敗29S 防4.05 でした。本当にお疲れ様でした、安らかにお眠りください!

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