GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

実直さを貫いたが・・・

2015-01-21 20:52:00 | 野球

 あさってさんも触れてますが、その名の通り「スラッガー」として活躍した大豊泰昭(中日―阪神―中日)氏が、亡くなられました・・・大豊氏は王貞治に師事し(憧れ)台湾から来日し帰化し中日に入団!ルーキーイヤーから"左の長距離砲"として期待される。この時既にネタにもし易く、かっとばせ!キヨハラくんにも早くも登場してましたね{笑顔}ただ"触れ込み程"ホームランを量産できない年もありましたし、1992年頃はチーム状況が悪い事もあり、タイトルも獲ってなく、僕も失礼ながら、"騒がれてた割には、最近名前を聞かへん・見いへんなぁ"と思ってました{すいません}しかし王氏を尊敬してるだけあって、自身も1992年オフぐらいから「一本足打法」に取り組み始め、練習の成果もあったか1993年には25本塁打を放つ!!翌年には38本塁打、107打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得。また、同年は対広島戦で18本塁打を記録し、「年間カード別最多本塁打」の日本記録を樹立(こんな珍記録というか「重箱の隅をつつくような記録」ってあるんですなぁ{ドクロ}){OK}その後も1996年まで好調を続ける!しかし"中日の本拠地球場が、広いナゴヤドームに移転してから、明らかに風向きが変わり"12本塁打と激減{困った}"チームも機動力・ディフェンス重視の方針を打ち出すのは、当然の事"でオフに阪神へ移籍{汗}1998年も一本足打法継続も、2年連続の不振{悲しい}「頑固・信念の塊」も"一本足打法封印"で「新フォーム(というか普通の打撃フォーム・摺り足)」に着手、好調も同じファーストのポジションに期待の長距離砲・新助っ人のマーク・ジョンソン(阪神)が居た為、控えに回るか"併用"の起用法となる{落ち込み}だから規定打席不足ながら26試合連続安打を放つなど、打率.341、18本塁打の活躍。さらに代打でシーズン歴代2位となる6本塁打を放つなど、代打での勝負強さも発揮した。翌年はほぼレギュラーも時折桧山進次郎がファーストで起用されるなど、"イマイチ信用されてない・中途半端な起用"となる・・・ノムさんとの確執もあり、再度中日へ移籍。2001年のオープン戦は、絶好調もまたファーストは、山崎武司起用や(年齢的にも走力や守備面を考えたら、現実的ではなかったと思いますが{困った})レフトでもオジー・ティモンズ(中日)起用や波留敏夫(横浜―中日―ロッテ)のシーズン途中の加入もあり、"ある意味阪神時代よりも冷遇"される{悲しい}僕は、"この2001年は、守備を無視してでも大豊をレフトで使って欲しかった!使うべきや!!"と思ってましたねぇ{炎}それぐらい"この年のオープン戦は、良かった"!!→オープン戦の成績はアテになりませんが、そこぐらいしか判断材料はないやろう{汗}結局、2002年で現役引退・・・"もう1年早くに摺り足にしてれば"・"真面目すぎるからいい加減な所があったら"という気持ちも無くはないですが、そこが彼の「良い所」でもありましたが{笑顔}とにかく「練習の虫」・「努力家」・"真面目で実直な人柄"でしたねぇ!引退後は、一時期4足のわらじ(中日のアジア地区担当スカウト・少年野球指導・中華料理店経営・解説者)を履いていた時期もあり、精力的に活動!ただ1度目に出した中華料理店の経営失敗で借金が多くのしかかり、自身も大病を患い、2度目の中華料理店経営も繁盛も、大病を再発し、終には店にも立てなくなり・・・こうなりました{困った}通算成績は、試1324 率.266 277本722点 安1089 でした。合掌です{悲しい}
 あと緊急で入って来たのは、僕は全く知らない選手でしたが、岩下守道(巨人―国鉄―近鉄)氏が、亡くなりました。岩下氏は、1950年入団時は、投手で野手に転向・・・"川上哲治の控え一塁手"として役目を果たしていました!1959年、国鉄へ移籍。左翼のレギュラーポジションを獲得。同年、2番打者として123試合に出場し、.280はセ・リーグ打撃部門7位を記録する。翌年は6番打者として、111試合に出場した。1961年より近鉄へ移籍し、控え野手として守備固めや代打として出場した。引退後は、アパレル関係の企業「イワシタ服飾」を創業し、その代表取締役も務めました。通算成績は、投手としての出場は恐らく無く、野手として試549 率.246 9本94点 安277 でした。こちらの方も合掌です・・・

コメント
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