歩かない旅人

 彼がなした馬鹿げたこと・・・彼がなさなかった馬鹿げたことが・・・人間の後悔を半分づつ引き受ける。ヴァレリー

文法の解釈も国益に架かったならば、「身の程知らずめ!」

2017-06-28 11:38:36 | 産経新聞の記事から抜粋

 

         

 

  今日は産経新聞の学術面から、初めて取り上げますが『国語逍遥』という欄があります.清湖口敬氏が執筆されていて、今日の分は86回目となっています。こういうさりげない小文が、結構力を持っていることも知っています。

   普段あまり、見過ごしがちでしたが、見出しの「一旦緩急あれば」の文字が、この分を読もうとするきっかけになったかもしれません。何しろ教育勅語の中の一節であり、何かとこの箇所だけをとって、危険な思想だとする学者さえいるのですから。

      

   今日は朝から、稲田防衛省の発言をめぐって、安倍攻撃の新しい材料が一つ増えたとばかりに飛びついています。福山哲郎議員に続き、共産党の小池晃氏も同じようなことを言って煽っています。あの福島瑞穂さえ出てくるでしょう。メディアは野党の太鼓持ち、いやメディアの太鼓持ちが野党四党かもしれません。

 

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  【国語逍遥】 産経新聞平成29年6月28日 付(86)

         産経新聞論説委員  清湖口敏 

                   

   一旦緩急あれば 「文法の誤り」とは何ごとぞ


  

   たまの涼しい朝には家を出る時間を少し早め、湯島天神(東京都文京区)に寄り道してから出社することがある。日頃の運動不足の解消を兼ねた、ほんのささやかな「逍遥」である。

 

 ♪湯島通れば思い出す

 

 お蔦(つた)主税(ちから)の心意気

    

 

   境内を歩くと決まって口ずさみたくなるのが、子供時分からの聞き覚えの流行歌「湯島の白梅」だ。そしてこの一節を口ずさむたびに必ず想起されるのが、教育勅語に対する昨今のつまらぬ批判である。歌と勅語に何の関係があるのかは結末に譲るとして、まずはその批判の一端を。

 

   昭和23年に国会で失効宣言が採択されてから70年目の今年、教育勅語は予期せぬ“復活”をとげた。森友学園問題が発端となって、にわかに世間の関心を集めることになったのである。

   

 

  「憲法や教育基本法などに反しない形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書が閣議決定されるや、一部のマスコミは「戦前の価値観に回帰しようとする動きの一環」(4月2日付朝日社説)などと反発した。

  

   しかし武蔵野大教授の貝塚茂樹さんは「教育勅語の歴史を直視せず、徒(いたずら)にこれを全否定することがさも民主的であるかのように振る舞うのは歴史に対する欺瞞(ぎまん)である。こうした態度が逆に、教育勅語を『神懸り的なもの』として扱うことになることに気づくべきだ」と叱正する(4月26日付本紙『解答乱麻』)。

   批判は、勅語の中の「一旦(いったん)緩急あれば義勇公に奉じ…」の「あれば」は文法的に誤っているといった方向にまで及んだので、さすがに小欄も取り上げないわけにはいかなくなった。


   『週刊文春』(3月30日号)ではジャーナリストの池上彰さんが、文法の間違いがあるとの指摘も紹介しておくと断った上で、「もしも国家に危機があるとするならば」の意では〈「あり」の未然形+ば〉の「あらば」が当時の文法では正しく、「一旦緩急あれば」では「危機は必ず来るから、そのときには」の意になってしまい、誤用である-と書いていた。

    

   反論したのが大阪大名誉教授の加地伸行さんである。月刊誌『WiLL』(6月号)で、まこと懇切丁寧に「あれば」の正当性を主張した。全文を引けないのは残念だが、概略を以下に示したい。

    

   古文の立場からは、助詞「ば」には3種のつながり方がある。

   (1)「あらば」(未然形+ば)は「もし~であるならば」(仮定)を表す。

   (2)「あれば」(已然(いぜん)形+ば)は「~ので」(理由)や「~したところ」(契機)を表す。

   (3)「あれば」(已然形+ば)は(2)の意味のほかにも、「或(あ)ることが有ると、いつでもそれに伴って後(あと)のことが起こる」という〈一般条件〉を表す。「一旦緩急あれば…」も「国民として、危急が起きたときには当然、戦う」の意だから(3)に相当し、文法として正しい。

   漢文の立場からも加地さんは、漢文訓読では例えば「行いて余力あらば~」と未然形で訓(よ)んでもいいが、一般的には、未然形相当のときに已然形で訓む慣行がある-と言及している。

   教育勅語は井上毅(こわし)の草案を基に元田永孚(ながざね)が成文化に協力したといわれるが、加地さんは「井上、元田ともに漢詩漢文の造詣の深さでは超一級の人物である。その成果としての名文、教育勅語に対して文法の誤りの指摘とは、身の程知らずのチンピラである」とバッサリ。いやもう、なかなかの快気炎であります。

  

   「あれば」の正当性は以上の「加地説」で言い尽くされ、付け加える余地は全くないが、かといって「では今回の小欄はこれにて」ともいかないので、古文の「ば」の用例をもう少し詳しくみてみたい。

   万葉集に載る山上憶良の長歌「瓜(うり)食(は)めば子ども思ほゆ…」の「食めば」がまさしく右の(3)に該当し、「瓜を食うといつも子供のことが思われ」の意味になる。

   百人一首の「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」も「夜が明けてしまうと、必ずまた日が暮れるものとは知っていながら…」と、やはり(3)の例に挙げられよう。旺文社全訳古語辞典は「『ぬれば』は『已然形+ば』で、ここは恒常条件を表す。『…と、いつもきまって』の意」とわざわざ注記している。

   それなのにどう勘違いしたのか、「夜が明けてしまったので、再び日が暮れて…」と(2)の「理由」に解した古語辞典が、私の知る限りでわずか1点とはいえあったのには驚かされた。

  

   さて、冒頭の「湯島の白梅」に戻ろう。既にご賢察かとも思われるが、「湯島通れば思い出す」の「通れば」も、古文法上では(3)の「(湯島を)通るといつも…」の意味になると考えられる。いや、そう考えないことには、文語調の詞に漂うせっかくの情緒も台無しになってしまう。

   それでも「文法上は『湯島通らば』が正しい」と言い張るのであれば、作詞者の佐伯孝夫さんも泉下から一喝を見舞うのではなかろうか。

 「身の程知らずめ!」


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   日本の左翼勢力は果たして日本に敵なのでしょうか。左翼勢力がメディアのけた外れの、政府攻撃「政権交代」の大合唱で、左翼勢力が政権を一時担いました。政権を担った左翼勢力は、日本の国益のために働いたでしょうか。

   チャイナや韓国の為になる政策は数多くやりました。無法な体当たりをしてきたチャイナの漁船を、どんな武器を持っていたか知りませんが。それらを使わず必死の覚悟で逮捕しましたが、民主党政権はそれを沖縄地検の責任にしてあっさり返してしまいました。

   相手のまるでご機嫌取りみたいな、日本の為だとは口が裂けても言えないようなことを平気でして恥じません。いくら日本のメディアが何と言おうともこれで民主党は、日本の政府にふさわしくない党だと、知らしめてしまいました。

   いくらメディアが応援しようとも、そのメディアでさえ、民主党のおかげで評判を一気に落としてしまった結果になってしまいましたが。凝りもせずと言うより、メディアの中に入り込んだ特定アジアの工作人がそれを緩めず、政府攻撃を続けています。

    

   それはもう特定アジアの中の事情で会って日本の事情より優先しているのが日本のメディアなのでしょう。ここまでくるともはや時の過行くのを待つだけです。特にテレビがひどいことになっています。今日の稲田問題もそうですが、それっとばかりに群がるさまは、モリ・カケ問題ではどうしようもないと思い知らされているからでしょう。


   「一旦緩急あれば」の時は迫っているかもしれません。日本の強みはここにあるということを特定アジアは、まだ覚えている人もあるでしょうし、まじめな歴史学者もいることを信じています。今弾圧されたり、話せない正しい歴史を認識している学者が、特定アジア内にいて、それとなく日本を恐れている面もあります。

   それが日本の強い抑止力になっているのを日本の野党を含め認識しているのでしょうか。自民党の中にさえ、当選するために自民党から出ている人も大勢います。「一旦緩急あれば」という言葉は重い言葉です。いい加減な解釈をするな池上彰!