春 夏 秋 冬

めぐり来る 春夏秋 麗しき 大和し護れ 民草いとえ 
          

ブログ休止のお知らせ

このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。 この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、 春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしました。(2010年3月) * * * * * * *  Fc2ブログに不祥事が起き、広告主が引き上げたそうです。 Fc2は何時終了になるか予断を許さない状況かと思い、 気になる過去記事を少しずつ、こちらのブログに写す事にしました。(2015・4・24)

チェルノブイリ原発事故10年目の現実

2009年09月14日 15時56分34秒 | 原発・エネルギー問題
「住職のひとりごと」さんの別サイト「インド仏教通信ナマステ・ブッダ」に次の記事が有った。
平成8年のものだからかなり古いものではあるが、チェルノブイリの事故から10年後の環境問題についての、読売新聞の記事を詳しく紹介しておられた。
チェルノブイリの原発事故は、私が想像していた以上に悲惨なものであったと言う事を知り、
上関に原発を造るなど、正気の沙汰ではないと改めて確信させられたのだった。

現実を見つめて-チェルノブイリ原発事故10年目の環境問題
[平成8年(96)6月記]               (1996年4月17日読売新聞より)
                                        
 <原発事故十年目の現実>
 1996年4月26日、旧ソ連・ウクライナで起きたあのチェルノブイリ原子力発電所の事故から10年を迎えた。日本でも様々な集会が開かれ、新聞やテレビでも10年目を迎える現地の様子が報じられていた。

 NHKの特集番組「終わりなき人体汚染」を私も拝見した。チェルノブイリから400~500キロも離れた地域で子供たちの甲状腺がんや白血病がいまだに増え続けている。

 妊婦の染色体異常と新生児の先天異常、それに事故処理に当たった作業員たちの脳神経細胞の死滅も深刻さを増す。

 今も放射能を放つ土から栽培された作物を、それと知って食べざるをえない人々の心はいかばかりであろうか。その痛ましさ、恐ろしさに思わず映像に見入ってしまった。

 そして遠く日本から8000キロも離れた土地の出来事。50年も前の広島・長崎で起きた放射能被爆が繰り返されてしまった。そう感じた人も多かったかもしれない。しかし私はこの番組を見終って、そこに日本に暮らす私たちの今の現実に何も触れられていないことに戦慄を覚えた。

 はたして日本の老朽化しつつある原子力発電が、このチェルノブイリ原発の様に事故を起こさないと言い切れるのだろうか。はるかに狭いこの日本で、もしも同じ様な事故が起きたらどれほどの被害になるのか。大地震が原発を襲ったらどうなるのか。そのとき、私たちはどう行動したら良いのか。「もんじゅ」のその後も心配される。

 そうした同じ地球に暮らすものとして、同じ過ちを犯すやも知れない国の一員として、何も語られないことの怖さを感じずにはいられない。

 そもそもチェルノブイリ原発の事故がどれだけ恐ろしいものであったかを、私たちは知らない。プルトニウム、ストロンチウム、セシウムといった放射性物質が死の灰として降り注いだと新聞などで報じられている。

 こうした金属の仲間が原子炉の暴走による爆発によってガスになってしまうほどの高温、摂氏三千から四千度に上昇して、膨大な死の灰となり1万メートルも上空に吹き上げ、全世界を汚染してしまった。

 事故による直接の死者は阪神大震災の死者を上回る6千人以上に上るともいわれている。被曝した人は全体で1000万人を越え、この事故に直接起因するガン患者は数十万人に達する。そして避難者は立入禁止地区30キロ圏だけでも13万5千人にも及んだ。
 阪神大震災では地震後すぐ近くの学校などに歩いて避難できたが、チェルノブイリの事故では見えない放射能を浴びつつ、家族が散りじりとなりながらバスでの大移動になったという。

 一瞬の原発内の爆発で、地球上の環境が見えない放射能によって計り知れないほどに汚染されてしまった。原子炉から吹き上げた死の灰は国境を越えて全世界に降り注いだといわれる。ポーランドでは牛乳の飲用が禁止され、スウェーデンの湖では食用に危険な程の放射能で魚が汚染された。

 そして遠く離れた日本でも母乳から放射性ヨウ素が検出されている。震災後の復興は次の日から始まるが、原発事故は10年たった今も、その被害状況すら正確につかむことができない。そしてこのチェルノブイリの影響がピークに達するのはあと10年も先といわれている。
(以下略)


三日間は防いだ原発建設阻止活動

2009年09月13日 16時41分56秒 | 原発・エネルギー問題

上関原発建設計画:「島民の気持ち無視」 続く阻止行動、抗議集会も /山口
 ◇中電は作業できず
 上関町長島での原発建設計画を巡り、埋め立て工事の着手を目指す中国電力と同町祝島の漁民らとのにらみ合いは12日も約8時間続いた末、中電が作業を断念した。県内の反原発グループらが灯浮標(ブイ)が置いてある平生町田名埠頭(ふとう)に集まり、抗議集会を開いて島民の阻止行動を支援した。

 この日も早朝から祝島の漁船約20隻が埠頭近くで岸壁への進路をふさぎ、中電の再三の移動要請を無視。しかし、「(原発建設で)海が壊れるということは絶対と言っていいほどありません」との中電の呼びかけに、漁民らは猛反発。漁船を中電の船に近づけ「放射能で汚染されることは分かり切っている」などと叫んだ。

 中電は13日の作業を休み、14日から再開予定。漁民側は「やれるだけのことをやる」と話している。

 田名埠頭の陸上では上関原発に反対する「原水爆禁止山口県民会議」など3団体が海面埋め立てへの緊急抗議集会を開き、祝島の漁民や支援者ら約250人(主催者発表)が参加した。

 集会を呼びかけた「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表は中電を「安全で平和に暮らしたい島民の気持ちを分かっていないし、分かろうともしない」と改めて批判。同会議の岡本博之議長は「祝島のみなさんが『絶対にいやだ』と言い続けている限り、原発が建ったらおかしい」と強調、多くの支援を求めた。

 同会議によると、上関原発建設計画の中止を求める署名活動は今月初め、県内で目標とする10万人を超えたという。同会議などは10月2日、全国で集まった署名と共に経済産業省へ提出する予定。【近藤聡司、内田久光】


中国電力と祝島の漁民とのにらみ合いは、12日で3日間となった。
祝島の漁民にとっては、3日間といっても、大変な犠牲的出動であったと思われる。

中国電力は十三日は休み、14日には又工事を再開すると言うことである。
中国電力の担当者は、工事開始が出来てもできなくても、月給に影響が出る訳ではないし、
この衝突が少々長引いても生活に困る心配は全然無い。
中国電力は、親方日の丸だから、財源に不足は無いだろうし。

一方漁民の方は、仕事を休んで反対活動をしていたら、その間は無収入となってしまうのだから大変である。
電力会社側は、漁民がいくら反対しても、そのうち息切れするだろうから、
その時を気長く待って、おもむろに工事すれば良いと見ているのではないだろうか。

山口県内の原発建設反対の署名が、10万人を超えたので、10月2日に経済産業省に提出の予定だそうであるが、現地の漁業者にとっては10月2日までの、
20日あまりの日数を持ちこたえるのは、並大抵の事ではないのではなかろうかと、気の毒でならない。

民主党政権は原発の事についてどうする積りであるか、意見を言っているのを聞いた記憶が無いが、
何も言っていないとしたら、現状維持のつもりと言うことなのだろうか?

瀬戸内海の出入り口ともいえる、山口県上関町に原発を造って、
もし発電による事故か、地震による原発施設の破壊による放射能漏れか、
隣接する岩国基地を狙った、某国のミサイルが過ってか、狙われてかは別として、
原発私設に命中して、爆発したらどれ程の被害になるか、考えたら、
少なくともこんなところに原発を造るなど、考える事もできないはずである。

北朝鮮が核兵器を持ったと言ってあれほど大騒ぎしているのは、国内のどこかが核爆弾に犯されることを心配しているからなのではないのだろうか?
北朝鮮が核兵器を持っていなかったとしても、通常のミサイルであっても、
原発を狙い撃ちされたら同じことになるのではないだろうか?
北朝鮮の核兵器にそれほどまでに危機感を募らせるのであれば、
どうして国内の原発施設をそのままにして平気でいられるのだろう?

聞くところによると北朝鮮は経済的に余裕の無い国と聞く。
そんな国が虎の子の核兵器を、おいそれと使うはずは無いのではなかろうか。
北朝鮮にとっての虎の子の核兵器は温存して、
日本に55基も有ると言う原子力発電所を狙った方が余程安上がりと、
気楽に原発を狙われることは心配ではないのだろうか?
その場合岩国基地の近くにある上関に原発が出来ていたら、
上関は一番に狙われるのではないだろうか?

もし戦争相手があるとしたら、上関は最も日本に打撃を与える位置の一つであろうかと思われる。

祝島の漁民の為にも、瀬戸内海沿岸の漁民のためにも、そして近畿一円の海産物消費者の為にも、
上関に原発を新設するなど、断じて許さないと、民主党政権には待ったをかけてほしいものである。


上関原発の予定地の人々の苦衷を思う

2009年09月12日 17時18分30秒 | 原発・エネルギー問題

上関原発建設計画:漁民「海は売ってない」 埋め立て阻止、にらみ合い続く /山口
 上関町長島での原発建設計画を巡り、埋め立て工事の着手を目指す中国電力と同町祝島の漁民らとのにらみ合いは11日も8時間半にわたって続いた。灯浮標(ブイ)が置いてある平生町田名埠頭(ふとう)近くの海上では、漁船が中電の船に横付けして抗議、陸上で座り込むメンバーも埠頭のフェンス越しに「中電帰れ」のコールを繰り返した。

 11日午前6時ごろから、祝島の漁船約20隻が埠頭の岸壁に集結し、陸上に約60人が座り込んだ。7時半ごろに現れた中電の船に漁船1隻が接近し、中電の船を押し返した。漁船に乗った島の女性たちが「海は売っていませんから帰って下さい」「生活の場を失うわけにはいかない」などと約1時間にわたって訴えた。女性たちは午後3時ごろにも船に乗り、再び激しく抗議した。

 「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表が一時下船し、陸上で「中電は私たちの苦しみが分かっていない」と訴えた。山戸代表によると、12日午前9時から県内の反原発グループが田名埠頭に集まり、抗議集会を開く予定。【近藤聡司、内田久光】


今日も上関町では、中国電力と祝島の漁民とのにらみ合いが続いてるという。

「海は売っていませんから帰って下さい」「生活の場を失うわけにはいかない」と言う島の人たちの苦衷を無視して原発建設は断行されるのだろうか?
かつてdendrodiumで、「山口県上関の海に 原発を造る計画を立てる無責任な人達 」と言う記事を書いたことがあるが、この計画受け入れの時の上関議会の議決は、8:4で、賛成が反対の倍であるとは言え、たったの8人の賛成票で、決まったのである。

しかも上関原発の案は28年も昔からあって、住民が猛反対を続けても、尚しつこく受け入れさせるようにあの手この手を使って議員を篭絡して、遂に賛成させたと言う経緯がある原発予定地なのである。
原発賛成派と反対派に島民が2分され、反対運動に疲れて島を離れた島民も多数有ったという。

中電と言うより政府の意を受けた県の意志により、反対運動をする人たちは何かと不自由になるように仕組まれていたのかもしれない。

東京の築地市場を、ガス工場跡地である豊洲に移転させると言う案にしても、
賛否半々になったとき、一人の委員が最後の最後に反対を賛成票に変えるまで、
何時間も投票を繰り返させて、遂に賛成に変って初めて、
委員会の議決は賛成多数と言うことにして、豊洲移転を決定したそうである。

反対している時は、住民の意思を聞かなかったことにして、
賛成が上回ったら途端に、それを住民の意思として強行しても、
民主主義が守られていると言えるのだろうか?

権力者が住民の代表を篭絡できるまで、待たねばならないという縛りはあるかもしれないけれど、
住民が反対しても反対しても、繰り返し繰り返し、賛成するまで決議させるのでは、
住民の意思を問うているのではなくて、権力者の意志を通す為の工作をしているだけと言うことになりはしないだろうか?

そうやって遂に力尽きた住民の反対を、力技で下して強行された公共工事なるものが、
日本中いたるところで、国民の税金を浪費しながら、自公政権下猛威を振るってきたのであった。

祝島の漁業者の生業を奪うだけでなく、将来的には瀬戸内沿岸の漁業者の生業をも奪うかも知れない、上関原発の建設は、何とか思い留まらせてほしいものである。

上関原発を創らせないための反対運動にエールを送りたい

2009年09月11日 15時47分20秒 | 原発・エネルギー問題

上関原発建設計画:「中電帰れ」海上に怒声 反対漁民、阻止行動ドキュメント /山口 
7時間を超えるにらみ合いの末、埋め立て工事初日の10日の作業が延期された上関原発計画(上関町)。平生町の田名埠頭(ふとう)から灯浮標(ブイ)を積み込もうとした中国電力に対し、反対派の漁民らは海上で阻止し、埠頭周辺では「原発絶対反対」というのぼりを30本以上立て、反対の声を上げた。【近藤聡司、内田久光、丹下友紀子】

 ◇反対漁民、阻止行動ドキュメント
午前6時(海上)
 上関町祝島の島民が漁船約30隻でブイが置かれた平生町の田名埠頭に集結。

7時半(海上)
 クレーン台船が埠頭沖に到着。漁船団が進路を阻み、埠頭沖100メートル付近でストップ。

7時54分(海上)
 中国電力上関原発準備事務所の松蔭茂男副所長が船上から拡声器を使い、反対派島民に進路を開けるよう1回目の呼びかけ。以降、午前9時から1時間おきに説得を続ける。

9時半(埠頭)
 参加した70人が、それぞれの思いを海上にいる中電へ叫ぶ。大学のサークルで被爆者とかかわってきたという山口大大学院1年、満江亮さん(24)は「都会に住む人や若い人が原発について考えなければいけない」。

11時(海上)
 中電が拡声器で船の移動を呼びかけ「30年以上、島根原発を安全に管理している。その電気を祝島にも供給している」と訴える。漁船から「勝手なことを言うな」と怒声。
同(埠頭)
 「帰れ」「中電帰れ」のコールが5分間以上続く。

正午(海上)
 中電が「原発は発電時に二酸化炭素(CO2)を出さない。ここから見える平生町の風力発電も同じだが、今(風が無くて)風車が止まっている。原発は止まることはない」。
同(埠頭)
 前県議の小中進さん(61)が「中電は原発について、CO2が出なくて地球温暖化対策になると言うが、放射能はどうなんだ。きちんと説明しろ」とマイクで声を張り上げる。

午後3時20分(埠頭)
 「今日の作業は中止します」と中電が発表すると、参加者から拍手。「戦いは明日もあさっても続く」とマイクで訴える男性も。

3時半(海上)
 「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表が「中電の説得には、うそばかりの作文を聞かされるようであきれた。埋め立ては確実に海を壊す。これまでの阻止行動とは意味合いが違う」。〔山口版〕


民主党政権になってもやっぱり、上関原発は造られてしまうのだろうか?
日本人にとって海産物の宝庫である瀬戸内海が、放射能汚染したらどうなるだろう?
只でさえ珊瑚の死滅など、海の生き物に異変がきていると言うのに・・・・・
又日本は遠洋漁業で、アフリカ沿岸を初めとして世界中の海に、魚を取りに出かけていたけれど、だんだんと規制する国も増えてきていると聞く。

有明海に続いて、瀬戸内海まで汚染されてしまったら、沿岸の人だけでなく遠く離れた私達にも、影響が出てくるのではないだろうか?

国際機関は鯨に続いて、最近はマグロまで規制しようとし始めていると聞く。
日本人から海産資源を奪ったら、アメリカの狂牛病肉でも諦めて買うようになるだろうと見越して、
日本の海を汚させようとアメリカが目論んでさせているわけではないとは思うけれど、
日本人ならどうしてこんな、日本人自身の首を絞めることになる恐れの有ることを立て続けにやってしまうのだろうか?

中電は島根原発を30年以上安全に管理していると言っているけれど、
30年以上たった原子力発電所の設備を、そのまま動かしているのだろうか?
原発の安全に使える年数は30年と聞いた事があるが、
島根原発は何時建て替える積りなのだろうか?
支障が生じる迄運用し続けて、停止する積りが無いとしたら、
相手は放射能を入れた、巨大な入れ物なのだから、恐ろしい限りである。

此れが上関原発での将来像であるとしたら、
瀬戸内海の伊予灘周防灘のそばの島での原発なのだから、漏れた放射能はもろに瀬戸内海全域に流れ入る事だろう。
それに地震国日本において、安全に運用できたのは、たまたま運良く大きな地震がこなったからであって、
もし運悪く安全の限度を超えた超弩級の地震に襲われる様なことがあったら、
周辺住民ははどうなる事だろう?
その上地震が来なくても、
耐用年数を大幅に過ぎても使い続けるような、
経済最優先の姿勢の会社なのだから、
周辺の人々が反対されるのも当然の事であると思う。

中国電力の人が、風力発電では風がないときは発電できないと言われた様だが、
だからと言って短絡的に、解決策を原発に求めないでも、
あらゆる方法を検討して、どうしても電力供給量が足りないときには、
消費者に訴えて電力消費を抑えると言う道だって有るはずである。

オール電化を合言葉に、熱源にガスを使っていた家も電気を使うように誘導して、
無暗に電力消費量を増やさせておいて、電力消費に追いつかないから、原発を造るしかないと言っている人達が、何を言っても信用されないのは、当然の帰結であるかと思われる。

中国電力の責任者に、同じ日本人として日本人の将来を思う気持ちがおありなら、
目先の利益に騙されないで、上関に原発など造る計画は、取りやめにしていただきたいと切に願われる。

日米の民主党、国民の為に何処まで頑張れるか?

2009年09月10日 12時44分02秒 | 海外情報

米大統領、医療保険改革の断行表明=「争いやめ行動を」-異例の議会演説
 【ワシントン時事】オバマ米大統領は9日夜(日本時間10日午前)、米上下両院合同会議で演説し、「国民皆保険」の実現を目指す医療保険制度改革への支持を訴えた。大統領は医療保険のコスト上昇による財政赤字の膨張や家計の負担増大に懸念を示した上で、議場を埋めた与野党議員に対し「何もしなければどのような事態が起こるか、ここにいる全員が認識すべきだ」と警告。「今こそ言い争いをやめ、行動する時だ」と改革の断行を表明した。
 年頭の一般教書演説以外で大統領が両院合同会議で演説するのは異例。テレビ視聴率の高い夜の時間帯を利用し、国民環視の下で議会に改革実現を迫ることで、年内の法案成立に向けた主導権を握るのが狙いとみられる。(2009/09/10-12:06)


アフガニスタン戦争を止めさせる事はできないでいるけれど、
オバマ大統領は此れまでの、大企業や金融資本家の言いなりの、大統領とは一味違う人なのかもしれない。
先日は医療保険改革の担当責任者を、インターネットに署名したと言うだけの理由で、辞任に追い込んだり(こちら)国民皆保険を政府に作らせないために、健康保険企業はあらゆる妨害をしていると言う話である。(英語日本語ニュースさんの「社会健康保険阻止の為、健康保険企業は140万ドルを毎日払っている。」に、恐るべき実態が書かれていた。)
豊かさの象徴のように言われていたアメリカに、未だに公的医療保険が無く、健康保険が無い為医療を受ける事の出来ない人が大勢有るなんて、信じられないような話であったが・・・・・
世界中のお金の亡者達の犠牲になっているのは、アメリカ以外の国々だけと言うわけではなく、アメリカ人も犠牲者のうちに入るのかもしれないと言う気がする。

日本で民主党政権が誕生し、国民の生活が第一をモットーに政治改革されるかもしれないとの、
期待が膨らんでいるところだけれど、
オバマさんの決意を表す演説のニュースを見て、
鳩山さんもかなりの事が、やれるかもしれないとの期待が、益々膨らんで来た。

重陽の節句

2009年09月09日 11時39分18秒 | 思想信条
9月9日今日は重陽の節句である。
杜甫が晩年、重陽節に詠んだ「登高」という詩が、京都新聞に紹介されていた。
 無辺の落木は 蕭蕭として下ち
 不尽の長江は滾滾として来る
 万里 悲秋 常に客と作り
 百年 多病 独り台に登る
「杜甫晩年の名作の『登高』は、草木の凋落する秋と、自らの衰残を重ね合わせて悲壮感がにじむ」と京都新聞にあった。
長寿を得るのは芽出度いけれど、独り残るのは寂しい。
実りの秋は賑わう季節ではあるけれど、冬のすぐ手前でもある。

日本でも重陽の節句は奈良時代この方、広く行われていたが、
九という数は陽のうちでも最高の陽数なので、近年日本では重陽節はあまり祝わないのだそうである。
「陰極まれば陽となる、陽極まれば陰となる」という事で、陽の極まった9月9日は、逆に祝いたくない日となったのだろう。

自公政権はは3分の2議席を得て、陽の極みとなったが、
その勝ちにおごり高ぶって、国民無視の政治を続けてきた為に、
国民から見放されてしまったのが、今回の転落の主な原因であるかと思う。

昔から勝って兜の緒を締めよと言う諺が有るが、
民主党は自民党の轍を踏むことなく、
政治の軌道をまともなものにすると言う初志を忘れず、
精一杯頑張って国民の期待に答えてほしいものである。

ところで、杜甫の病気はインフルエンザではなかったかもしれないけれど、
アメリカのインフルエンザのニュースが有った。

「新型」感染でもタミフル原則不要、米が指針
2009年9月9日(水)11:10
 【ワシントン=山田哲朗】米疾病対策センター(CDC)は8日、新型インフルエンザに感染しても、健康な人はタミフルやリレンザなど抗ウイルス薬による治療は原則として必要ないとする投薬指針を発表した。

 抗ウイルス薬の供給には限りがあるほか、過剰投与で耐性ウイルスが出現する恐れが高まるため。CDCのアン・シュケット博士は同日の記者会見で「子供でも大人でも大多数は抗ウイルス薬は必要なく、自宅で休養することで治る」と述べた。

 ただし、持病がある人や、健康な人でも重症化した場合には、ウイルス検査の結果を待たず抗ウイルス薬を投与することが必要としている。世界保健機関(WHO)も、抗ウイルス薬の投与は持病がある人など高リスク集団か、新型インフルエンザで症状が悪化しつつある人に絞るべきだと勧告している。これに対し日本では、健康な人でも感染した場合、抗ウイルス薬を投与する医療機関が多い


タミフルの本家本元のアメリカで、
「新型インフルエンザの大多数は抗ウイルス薬の必要はなく自宅で静養することで治る。」と専門の博士に言わせている。
近年アメリカでも日本でも、マスコミが気に入らなかったら、どんな偉い博士の言葉でも、無視して一切報道しない習慣になっていると思われる。
それが今回は(抗ウイルス薬を使い過ぎるなと)報道している。
此れはアメリカ政府とマスコミが薬屋の利益優先の姿勢を改めて、まともな指導をするようになったと言うことだろうか?
それともワクチン作りが忙しくて
タミフル作りが追いつかず、足りなくなったと言うことだろうか?
これからは日本でも、タミフルは必要ないと言う指導に改められるのだろうか?

元々弱毒性と言われているのだから、あまり怖がることはなかったはずなのである。
それなのに日本ではタミフルがどうのこうのとの報道が、やたらと姦しかった。
勿論腎臓とか心臓、肺その他色々の持病のある人は、用心しなければならないとは思うけれど、
特に持病の無い人だったら、無暗に薬に頼らず、
アメリカの専門家の言われるように、
自宅で休養して治すのが一番と言う意見に私も同感である。

「邪魔者のスキャンダルを探せ」の政治の世界

2009年09月07日 14時20分41秒 | 海外情報
アメリカでは先日、
バン・ジョーンズ大統領環境問題諮問委員会(CEQ)特別顧問が、2001年9月11日の同時多発テロに関する捜査嘆願書へのネット署名を批判されたことを受け、辞任したそうである。
米大統領特別顧問、ネット署名問題で辞任
バン・ジョーンズ大統領環境問題諮問委員会特別顧問は、
環境問題や医療保険改革を担当していたそうだから、
国営の医療保険を創られる事を阻止したいグループによって、追い詰められたのではないかと言う疑いを禁じえない。
9・11事件について疑問を持って、9・11についての捜査嘆願書に、
インターネットで署名したと言うだけの事で辞任する事になったそうである。
彼を辞任に追い込込んだのは、この署名問題が問題だからではなくて、
保険会社のロビイストが暗躍していたそうだから、
何かに難癖を付けてバン・ジョーンズ氏をその役から外して、
オバマの健康保険改革を頓挫させようと、企んでの事だったのではないかと言う気がする。

このやり方は、日本でも度々やられている、彼等(利権保有者達)の常套手段であったし・・・・・

安倍元総理の時、何とか還元水とかいう、
500万円かそこらの使い込みを論われたり、
もっと大きな事を追及してほしいのにと思うような、小事件ばかりが追及されて、
やたらと閣僚の辞任が続いたものだった。
そして農水大臣が何人も変えられ、自殺した農水大臣まで出たのだった。

安倍総理は憲法改正とか右翼的なことに熱心で、
国民の一人としては賛成できない総理大臣だったので、
私は複雑な気持ちではあったけれど、
安倍総理がアメリカの期待に答えた政治をせず、
アメリカの担当者の気に入らないから、
安倍内閣は嫌がらせをされているのではないかと、感じさせられていたもののだった。

これから民主党が政権に就いて、
誰かの利権に絡む事を実行しようとし始めた時、
この手の妨害が続出するのかもしれないな~と、
ちょっと心配になるようなニュースであった。

危険思想

2009年09月06日 11時25分41秒 | 思想信条
今朝のサンデーモーニングで、鳩山由起夫さんの論文がアメリカで、
アメリカを否定しようとしていると、批判されていると言う話題になった時、
「アメリカでもあの論文を支持する人もあるし、アメリカ離れではないかと危険視する人もある。
危険視している人は、主に此れまで日本から利益を得ていた人たちで、その利権が失われるのを恐れているのだと思う。」と金子勝さんが言っておられました。

アメリカで鳩山論文を声高に批判する者があるからと言って、それが即アメリカを代表する意見であるとは限らないと、知らなければならない、と言うことなのでしょう。

私の父などは戦後間もない頃まで、
「人間が皆平等だなどと言うのは、危険思想だ。」と言っていました。
殿様も足軽も同じ人間だなどと言うなんて、とんでもないと本気で思っていたようです。
子供の頃に周りの大人がそう言う思想であったら、素直な子供ほどそれを自分の意見だと思い込んでしまうようです。

でも平等の思想が誰にとって危険なのかと考えたら、
それは支配者階級だった人たちが、此れまで得ていた利権を取り上げられる恐れが有るから、支配者階級にとって危険思想であるに過ぎません。
庶民が殿様階級の為に、四民平等を危険思想と言うとしたら、
今なら「ばっかじゃないの!」でかたずけられてしまうでしょう。

しかし親代々殿様の加護を受けていた家の子であったら、
殿様の利益は自分達の利益であるから、
四民平等は危険思想と言うことになるのかもしれません。

アメリカで日本が此れまでの従米路線を修正しようとする事を、危険思想と断ずる勢力が有るとしたら、それは従米路線の日本から多額の利益が入っていた勢力と考えても、それほど間違ってはいないかもしれません。
そして、そのアメリカの意見を声高に吹聴する日本の勢力も又、
盲目的従米路線によって、利益を得ていた日本人と見ても良いのではないかと思います。

日米両国の従米路線修正を危険視する勢力は、共に日本の利権に群がっていた勢力と見ても間違いないのではないでしょうか?

一口に危険思想と言っても、誰にとって危険思想であるかを考える必要があると思います。
今の日本は民主主義の時代なのだから、国民に不利益を押し付ける思想が、危険思想であると言うべきなのではないでしょうか。

「アフガンに命の水を」を見て

2009年09月05日 16時45分11秒 | 思想信条
先日申し込んでいたペシャワール会のDVDが送られてきたので、夫と二人で早速見た。
マルワリード用水路は、素人が作る用水路とは思えないような規模で、
取水口など、かなり大きな構造物になっていた。
渇水地なのに時々来る集中豪雨で起きる鉄砲水も、吸収する必要性が有って、
かなり広い水路を作ることになったと言っておられた。

かつて農地だったが、渇水によって何も生えない荒地と化していた、殺伐とした広大な地域が、
今は青々とした麦畑になっている。
用水路の終点は、昔からの砂漠(ガンべり)で、其処に通水したら30万人くらいの人を養える畑が出来る見込みであると言う。
初めガンべりを緑化するなど無理だと言っていた人たちも、2年前くらいからはガンべり、ガンべりが合言葉となっているそうである。

中村哲さんは、「国際貢献と言う言葉はあまり好きでは有りません。」と言っておられた。
たまたま自分はアフガニスタンにいたからアフガニスタンの人が、渇水で困っておられるのを見かねて、水路を作ろうと思っただけで、
どこか遠くの人を助けると言うのではなく、自分のすぐそばの人が泣いていたら、どうして泣いているの?と訊ねて何とかしてあげたいと思うでしょう。私のしたことはそういうことなのです。」と言うような意味のことを話しておられた。

イエスキリストの有名な言葉に「汝の隣を愛せよ。」と言う言葉があるけれど、
中村哲さんの生き方は、この言葉を実地で実行されているものだと思った。

その他にも宗教施設(モスク)と子供の学校(マドラサ)、
難民キャンプを追われた孤児達の為の宿舎を備えたものを現在建設中で、
次から次に気が付かれた事をしてあげておられる姿には、頭が下がるを通り越して、言葉では表せない感動であった。

水路に水が流れ始めるのを皆で見ているシーンが有ったが、アフガニスタンの人たちはどんなに嬉しい事だろうと思うと、涙が滲み出して来て、嗚咽しそうになってしまった。
中村さんは新しい用水路だけでなく、昔から有るけれど使えなくなっていた用水路の修繕も、同時に進められて、そちらの方も水が満ちるようになっていた。

現地の人が、初めはこんな計画が出来るとは信じられなかったと言っておられた農業用用水路計画だけでなく、
今はガンべり砂漠に水を張ると言う計画も、みなの楽しみになっている。

あの広大な荒地を見たら、其処にあのような施設を作る事を計画するだけでも、気が遠くなるようなことなのに、寄付金を集めて現地の仕事の無い人たちに、仕事を用意する事で生活の道を提供しつつ、遂に恒久的に生きていけるための、農地を提供されたのである。

アフガニスタンの人たちが、「先生と日本人のお陰です。」と言っておられたけれど、私は日本人として何もしていないのに、中村さんのお陰で日本人として感謝される立場を頂いたのだな~と思った。
日本も、中村さんのされたことによって、計り知れない恩恵を頂いたのではないだろうか?

「アフガンに命の水を」ペシャワール会26年目のたたかい と言うDVDビデオは、
菅原文太の渋い声と共に、50数分間退屈する暇も無い、充実したものであった。

40年経過した原発を、更に延長使用許可させる経産省

2009年09月04日 15時50分44秒 | 原発・エネルギー問題

柏崎原発2号機、配管にひび=外部環境に影響なし-東電
 東京電力は3日、新潟県中越沖地震で被災し運転停止中の柏崎刈羽原発2号機で、原子炉再循環系配管の接ぎ目にひびが見つかったと発表した。ひびは管内部の1カ所だけで、放射能漏れなど外部環境への影響はないという。
 東電によると、配管の厚みは38.9ミリ。見つかったひびは長さ約12ミリ、深さ約2.9ミリだった。地震によるものではなく、溶接時の熱などの影響が原因の「応力腐食割れ」としている
 同社は今後、国の定める健全性評価制度に基づき、補修の必要性の有無などを検討するという。(2009/09/03-19:15)


ひびは地震によるものではなく、溶接時の熱などの影響が原因の「応力腐食割れ」としているそうだけれど、それはそれとして問題ではないだろうか?
と言うのは、政治の記事に次のようなものが引用してあった。

敦賀原発1号、運転40年超へ=保安院が正式に認可-16年まで継続・日本原電
9月3日17時48分配信 時事通信

 経済産業省原子力安全・保安院は3日、来年で運転開始40年を迎える日本原子力発電の敦賀原発1号機(福井県敦賀市)について、老朽化を踏まえた適切な保守管理方針が策定されているとして、運転継続を正式に認めた。これを受け同社は同日、敦賀1号機の運転を2016年まで継続すると発表した。運転開始から40年を超える原発は国内初となる。 


柏崎原発の場合、30年未満であっても、腐食割れで配管の継ぎ目にひびが出来ているのである。

それが原子炉の耐久年数とされている30年をはるかに超えて40年たってしまった原発を、此れまで支障が見つからないと言う理由で、更に7年間も延ばそうというのである。
明白な障害又は事故が起きない限り、この危険極まりない原発を使い続けようと言う姿勢が、
近隣の人々にどれ程の脅威を与えているか、考えても分かると思うのに、
只希望的観測だけで、40年経過した原発に「大丈夫」とお墨付きを出すのである。
ここ迄安全より利益優先の姿勢が、あからさまな経産省に、
原子力発電所の許認可をさせて、地震国日本に原発を造らせ続けてきた行政に、
新しい政権である民主党は「待った」をかけてくれるのだろうか?

国民の安全を脅かすものは、外国からのミサイルだけではないと言う事を、
新政権はちゃんと認識して、安全を経済の犠牲にしない、
「国民の生活が第一」の政治を、実行していただきたいと切に願われる。

鳩山由起夫 私の政治学(前編)

2009年09月02日 14時36分08秒 | 記録しておきたいもの
きっこのブログに紹介されていた、鳩山由起夫さんの論文を読んで、
総てに於いてうなずける論文であったのに、驚いた。
原文を書きとめておきたい。

 私の政治学   鳩山由起夫
党人派・鳩山一郎の旗印
 現代の日本人に好まれている言葉の一つが「愛」だが、これは普通loveのことだ。そのため、私が「友愛」を語るのを聞いてなんとなく柔弱な印象を受ける人が多いようだ。しかし私の言う「友愛」はこれとは異なる概念である。それはフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」の博愛=フラタナティ(fraternite)のことを指す。
 祖父鳩山一郎が、クーデンホフ・カレルギーの著書を翻訳して出版したとき、このフラタナティを博愛ではなくて友愛と訳した。それは柔弱どころか、革命の旗印ともなった戦闘的概念なのである。
 クーデンホフ・カレルギーは、今から八十五年前の大正十二年(一九二三年)『汎ヨーロッパ』という著書を刊行し、今日のEUにつながる汎ヨーロッパ運動の提唱者となった。彼は日本公使をしていたオーストリア貴族と麻布の骨董商の娘青山光子の次男として生まれ、栄次郎という日本名ももっていた。
 カレルギーは昭和十年(一九三五年)『Totalitarian State Against Man (全体主義国家対人間)』と題する著書を出版した。それはソ連共産主義とナチス国家社会主義に対する激しい批判と、彼らの侵出を許した資本主義の放恣に対する深刻な反省に満ちている。
 カレルギーは、「自由」こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考えていた。そして、それを保障するものとして私有財産制度を擁護した。その一方で、資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする「平等」への希求が共産主義を生み、さらに資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして国家社会主義を生み出したことを、彼は深く憂いた。
 「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」
 ひたすら平等を追う全体主義も、放縦に堕した資本主義も、結果として人間の尊厳を冒し、本来目的であるはずの人間を手段と化してしまう。人間にとって重要でありながら自由も平等もそれが原理主義に陥るとき、それがもたらす惨禍は計り知れない。それらが人間の尊厳を冒すことがないよう均衡を図る理念が必要であり、カレルギーはそれを「友愛」に求めたのである。
  「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない」
 彼の『全体主義国家対人間』は、こういう書き出しで始まる。
 カレルギーがこの書物を構想しているころ、二つの全体主義がヨーロッパを席捲し、祖国オーストリアはヒットラーによる併合の危機に晒されていた。彼はヨーロッパ中を駆け巡って、汎ヨーロッパを説き、反ヒットラー、反スターリンを鼓吹した。しかし、その奮闘もむなしくオーストリアはナチスのものとなり、彼は、やがて失意のうちにアメリカに亡命することとなる。映画『カサブランカ』は、カレルギーの逃避行をモデルにしたものだという。
 カレルギーが「友愛革命」を説くとき、それは彼が同時代において直面した、左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だったのである。
 戦後、首相の地位を目前にして公職追放となった鳩山一郎は、浪々の徒然にカレルギーの書物を読み、とりわけ共感を覚えた『全体主義国家対人間』を自ら翻訳し、『自由と人生』という書名で出版した。鋭い共産主義批判者であり、かつ軍部主導の計画経済(統制経済)に対抗した鳩山一郎にとって、この書は、戦後日本に吹き荒れるマルクス主義勢力(社会、共産両党や労働運動)の攻勢に抗し、健全な議会制民主主義を作り上げる上で、最も共感できる理論体系に見えたのだろう。
 鳩山一郎は、一方で勢いを増す社共両党に対抗しつつ、他方で官僚派吉田政権を打ち倒し、党人派鳩山政権を打ち立てる旗印として「友愛」を掲げたのである。彼の筆になる『友愛青年同志会綱領』(昭和二十八年)はその端的な表明だった。
 「われわれは自由主義の旗のもとに友愛革命に挺身し、左右両翼の極端なる思想を排除して、健全明朗なる民主社会の実現と自主独立の文化国家の建設に邁進する」
 彼の「友愛」の理念は、戦後保守政党の底流に脈々として生きつづけた。六十年安保を経て、自民党は労使協調政策に大きく舵を切り、それが日本の高度経済成長を支える基礎となった。その象徴が昭和四十年(一九六五年)に綱領的文書として作成された『自民党基本憲章』である。
 その第一章は「人間の尊重」と題され、「人間はその存在が尊いのであり、つねにそれ自体が目的であり、決して手段であってはならない」と記されている。労働運動との融和を謳った『自民党労働憲章』にも同様の表現がある。明らかに、カレルギーの著書からの引用であり、鳩山一郎の友愛論に影響を受けたものだろう。この二つの憲章は、鳩山、石橋内閣の樹立に貢献し、池田内閣労相として日本に労使協調路線を確立した石田博英によって起草されたものである。

  自民党一党支配の終焉と民主党立党宣言
 戦後、自民党が内外の社会主義陣営に対峙し、日本の復興と高度経済成長の達成に尽くしたことは大きな功績であり、歴史的評価に値する。しかし、冷戦終焉後も経済成長自体が国家目標であるかのような惰性の政治に陥り、変化する時代環境の中で国民生活の質的向上を目指す政策に転換できない事態が続いた。その一方で政官業の癒着がもたらす政治腐敗が自民党の宿痾となった観があった。
 私は、冷戦が終ったとき、高度成長を支えた自民党の歴史的役割も終わり、新たな責任勢力が求められていると痛感した。そして祖父が創設した自民党を離党し、新党さきがけの結党に参加し、やがて自ら党首となって民主党を設立するに至った。
 平成八年九月十一日「(旧)民主党」結党。その「立党宣言」に言う。
 「私たちがこれから社会の根底に据えたいと思っているのは『友愛』の精神である。自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は『出る釘は打たれる』式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛であるけれども、それはこれまでの一〇〇年間はあまりに軽視されてきた。二〇世紀までの近代国家は、人々を国民として動員するのに急で、そのために人間を一山いくらで計れるような大衆(マス)としてしか扱わなかったからである。
 私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない」。
 武者小路実篤は「君は君、我は我也、されど仲良き」という有名な言葉を残している。「友愛」とは、まさにこのような姿勢で臨むことなのだ。
 「自由」や「平等」が時代環境とともにその表現と内容を進化させていくように、人間の尊厳を希求する「友愛」もまた時代環境とともに進化していく。私は、カレルギーや祖父一郎が対峙した全体主義国家の終焉を見た当時、「友愛」を「自立と共生の原理」と再定義したのである。
 そしてこの日から十三年が経過した。この間、冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた。至上の価値であるはずの「自由」、その「自由の経済的形式」である資本主義が原理的に追求されていくとき、人間は目的ではなく手段におとしめられ、その尊厳を失う。金融危機後の世界で、われわれはこのことに改めて気が付いた。道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それが今われわれに突きつけられている課題である。
 この時にあたって、私は、かつてカレルギーが自由の本質に内在する危険を抑止する役割を担うものとして、「友愛」を位置づけたことをあらためて想起し、再び「友愛の旗印」を掲げて立とうと決意した。平成二十一年五月十六日、民主党代表選挙に臨んで、私はこう言った。
 「自ら先頭に立って、同志の皆さんとともに、一丸となって難局を打開し、共に生きる社会『友愛社会』をつくるために、必ず政権交代を成し遂げたい」
 私にとって「友愛」とは何か。それは政治の方向を見極める羅針盤であり、政策を決定するときの判断基準である。そして、われわれが目指す「自立と共生の時代」を支える時代精神たるべきものと信じている。

  

鳩山由起夫 私の政治学(後編)

2009年09月02日 14時32分54秒 | 記録しておきたいもの
前編に入らなかった鳩山由起夫さんの論文を写します。

 衰弱した「公」の領域を復興

 現時点においては、「友愛」は、グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われてきた国民経済との調整を目指す理念と言えよう。それは、市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する。
 言うまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終焉後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされたものである。米国のこうした市場原理主義や金融資本主義は、グローバルエコノミーとかグローバリゼーションとかグローバリズムとか呼ばれた。
 米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的な経済秩序であり、諸国はそれぞれの国民経済の伝統や規制を改め、経済社会の構造をグローバルスタンダード(実はアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった。
 日本の国内でも、このグローバリズムの流れをどのように受け入れていくか、これを積極的に受け入れ、全てを市場に委ねる行き方を良しとする人たちと、これに消極的に対応し、社会的な安全網(セーフティネット)の充実や国民経済的な伝統を守ろうという人たちに分かれた。小泉政権以来の自民党は前者であり、私たち民主党はどちらかというと後者の立場だった。
 各国の経済秩序(国民経済)は年月をかけて出来上がってきたもので、その国の伝統、慣習、国民生活の実態を反映したものだ。したがって世界各国の国民経済は、歴史、伝統、慣習、経済規模や発展段階など、あまりにも多様なものなのである。グローバリズムは、そうした経済外的諸価値や環境問題や資源制約などを一切無視して進行した。小国の中には、国民経済がおおきな打撃を被り、伝統的な産業が壊滅した国さえあった。
 資本や生産手段はいとも簡単に国境を越えて移動できる。しかし、人は簡単には移動できないものだ。市場の論理では「人」というものは「人件費」でしかないが、実際の世の中では、その「人」が地域共同体を支え、生活や伝統や文化を体現している。人間の尊厳は、そうした共同体の中で、仕事や役割を得て家庭を営んでいく中で保持される。
 冷戦後の今日までの日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を破壊し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程と言っても過言ではないだろう。郵政民営化は、長い歴史を持つ郵便局とそれを支えてきた人々の地域社会での伝統的役割をあまりにも軽んじ、郵便局の持つ経済外的価値や共同体的価値を無視し、市場の論理によって一刀両断にしてしまったのだ。
 農業や環境や医療など、われわれの生命と安全にかかわる分野の経済活動を、無造作にグローバリズムの奔流の中に投げ出すような政策は、「友愛」の理念からは許されるところではない。また生命の安全や生活の安定に係るルールや規制はむしろ強化しなければならない。
 グローバリズムが席巻するなかで切り捨てられてきた経済外的な諸価値に目を向け、人と人との絆の再生、自然や環境への配慮、福祉や医療制度の再構築、教育や子どもを育てる環境の充実、格差の是正などに取り組み、「国民一人ひとりが幸せを追求できる環境を整えていくこと」が、これからの政治の責任であろう。
 この間、日本の伝統的な公共の領域は衰弱し、人々からお互いの絆が失われ、公共心も薄弱となった。現代の経済社会の活動には「官」「民」「公」「私」の別がある。官は行政、民は企業、私は個人や家庭だ。公はかつての町内会活動や今のNPO活動のような相互扶助的な活動を指す。経済社会が高度化し、複雑化すればするほど、行政や企業や個人には手の届かない部分が大きくなっていく。経済先進国であるほど、NPOなどの非営利活動が大きな社会的役割を担っているのはそのためだといえる。それは「共生」の基盤でもある。それらの活動は、GDPに換算されないものだが、われわれが真に豊かな社会を築こうというとき、こうした公共領域の非営利的活動、市民活動、社会活動の層の厚さが問われる。
 「友愛」の政治は、衰弱した日本の「公」の領域を復興し、また新たなる公の領域を創造し、それを担う人々を支援していく。そして人と人との絆を取り戻し、人と人が助け合い、人が人の役に立つことに生きがいを感じる社会、そうした「共生の社会」を創ることをめざす。
 財政の危機は確かに深刻だ。しかし「友愛」の政治は、財政の再建と福祉制度の再構築を両立させる道を、慎重かつ着実に歩むことをめざす。財政再建を、社会保障政策の一律的抑制や切捨てによって達成しようという、また消費税増税によって短兵急に達成しようという財務省主導の財政再建論には与しない。
 財政の危機は、長年の自民党政権の失政に帰するものである。それは、官僚主導の中央集権政治とその下でのバラマキ政治、無批判なグローバリズム信仰が生んだセーフティネットの破綻と格差の拡大、政官業癒着の政治がもたらした政府への信頼喪失など、日本の経済社会の危機の反映なのである。
 したがって、財政危機の克服は、われわれがこの国のかたちを地域主権国家に変え、徹底的な行財政改革を断行し、年金はじめ社会保障制度の持続可能性についての国民の信頼を取り戻すこと、つまり政治の根本的な立て直しの努力を抜きにしてはなしえない課題なのである。

  地域主権国家の確立

 私は、代表選挙の立候補演説において「私が最も力を入れたい政策」は「中央集権国家である現在の国のかたちを『地域主権の国』に変革」することだと言った。同様の主張は、十三年前の旧民主党結党宣言にも書いた。「小さな中央政府・国会と、大きな権限をもった効率的な地方政府による『地方分権・地域主権国家』」を実現し、「そのもとで、市民参加・地域共助型の充実した福祉と、将来にツケを回さない財政・医療・年金制度を両立させていく」のだと。
 クーデンホフ・カレルギーの「友愛革命」(『全体主義国家対人間』第十二章)の中にこういう一説がある。
 「友愛主義の政治的必須条件は連邦組織であって、それは実に、個人から国家をつくり上げる有機的方法なのである。人間から宇宙に至る道は同心円を通じて導かれる。すなわち人間が家族をつくり、家族が自治体(コミューン)をつくり、自治体が郡(カントン)をつくり、郡が州(ステイト)をつくり、州が大陸をつくり、大陸が地球をつくり、地球が太陽系をつくり、太陽系が宇宙をつくり出すのである」
 カレルギーがここで言っているのは、今の言葉で言えば「補完性の原理」ということだろう。それは「友愛」の論理から導かれる現代的政策表現ということができる。
 経済のグローバル化は避けられない時代の現実だ。しかし、経済的統合が進むEUでは、一方でローカル化ともいうべき流れも顕著である。ベルギーの連邦化やチェコとスロバキアの分離独立などはその象徴である。
 グローバル化する経済環境の中で、伝統や文化の基盤としての国あるいは地域の独自性をどう維持していくか。それはEUのみならず、これからの日本にとっても大きな課題である。
 グローバル化とローカル化という二つの背反する時代の要請への回答として、EUはマーストリヒト条約やヨーロッパ地方自治憲章において「補完性の原理」を掲げた。
 補完性の原理は、今日では、単に基礎自治体優先の原則というだけでなく、国家と超国家機関との関係にまで援用される原則となっている。こうした視点から、補完性の原理を解釈すると以下のようになる。
 個人でできることは、個人で解決する。個人で解決できないことは、家庭が助ける。家庭で解決できないことは、地域社会やNPOが助ける。これらのレベルで解決できないときに初めて行政がかかわることになる。そして基礎自治体で処理できることは、すべて基礎自治体でやる。基礎自治体ができないことだけを広域自治体がやる。広域自治体でもできないこと、たとえば外交、防衛、マクロ経済政策の決定など、を中央政府が担当する。そして次の段階として、通貨の発行権など国家主権の一部も、EUのような国際機構に移譲する……。
 補完性の原理は、実際の分権政策としては、基礎自治体重視の分権政策ということになる。われわれが友愛の現代化を模索するとき、必然的に補完性の原理に立脚した「地域主権国家」の確立に行き届く。
 道州制の是非を含む今後の日本の地方制度改革においては、伝統や文化の基盤としての自治体の規模はどうあるべきか、住民による自治が有効に機能する自治体の規模はどうあるべきか、という視点を忘れてはならない。
私は民主党代表選挙の際の演説でこう語った。
 「国の役割を、外交・防衛、財政・金融、資源・エネルギー、環境等に限定し、生活に密着したことは権限、財源、人材を『基礎的自治体』に委譲し、その地域の判断と責任において決断し、実行できる仕組みに変革します。国の補助金は廃止し、地方に自主財源として一括交付します。すなわち、国と地域の関係を現在の実質上下関係から並列の関係、役割分担の関係へと変えていきます。この変革により、国全体の効率を高め、地域の実情に応じたきめの細かい、生活者の立場にたった行政に変革します」
 身近な基礎自治体に財源と権限を大幅に移譲し、サービスと負担の関係が見えやすいものとすることによって、はじめて地域の自主性、自己責任、自己決定能力が生れる。それはまた地域の経済活動を活力あるものにし、個性的で魅力にとんだ美しい日本列島を創る道でもある。
 「地域主権国家」の確立こそは、とりもなおさず「友愛」の現代的政策表現」であり、これからの時代の政治目標にふさわしいものだ。

  ナショナリズムを抑える東アジア共同体

 「友愛」が導くもう一つの国家目標は「東アジア共同体」の創造であろう。もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは紛れもなく重要な日本外交の柱である。同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならないだろう。経済成長の活力に溢れ、ますます緊密に結びつきつつある東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない。
 今回のアメリカの金融危機は、多くの人に、アメリカ一極時代の終焉を予感させ、またドル基軸通貨体制の永続性への懸念を抱かせずにはおかなかった。私も、イラク戦争の失敗と金融危機によってアメリカ主導のグローバリズムの時代は終焉し、世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろうと感じている。しかし、今のところアメリカに代わる覇権国家は見当たらないし、ドルに代わる基軸通貨も見当たらない。一極時代から多極時代に移るとしても、そのイメージは曖昧であり、新しい世界の政治と経済の姿がはっきり見えないことがわれわれを不安にしている。それがいま私たちが直面している危機の本質ではないか。
 アメリカは今後影響力を低下させていくが、今後二、三〇年は、その軍事的経済的な実力は世界の第一人者のままだろう。また圧倒的な人口規模を有する中国が、軍事力を拡大しつつ、経済超大国化していくことも不可避の趨勢だ。日本が経済規模で中国に凌駕される日はそう遠くはない。
覇権国家でありつづけようと奮闘するアメリカと、覇権国家たらんと企図する中国の狭間で、日本は、いかにして政治的経済的自立を維持し、国益を守っていくのか。これからの日本の置かれた国際環境は容易ではない。
 これは、日本のみならず、アジアの中小規模国家が同様に思い悩んでいるところでもある。この地域の安定のためにアメリカの軍事力を有効に機能させたいが、その政治的経済的放恣はなるべく抑制したい、身近な中国の軍事的脅威を減少させながら、その巨大化する経済活動の秩序化を図りたい。これは、この地域の諸国家のほとんど本能的要請であろう。それは地域的統合を加速させる大きな要因でもある。
 そして、マルクス主義とグローバリズムという、良くも悪くも、超国家的な政治経済理念が頓挫したいま、再びナショナリズムが諸国家の政策決定を大きく左右する時代となった。数年前の中国の反日暴動に象徴されるように、インターネットの普及は、ナショナリズムとポピュリズムの結合を加速し、時として制御不能の政治的混乱を引き起こしかねない。
 そうした時代認識に立つとき、われわれは、新たな国際協力の枠組みの構築をめざすなかで、各国の過剰なナショナリズムを克服し、経済協力と安全保障のルールを創りあげていく道を進むべきであろう。ヨーロッパと異なり、人口規模も発展段階も政治体制も異なるこの地域に、経済的な統合を実現することは、一朝一夕にできることではない。しかし、日本が先行し、韓国、台湾、香港がつづき、ASEANと中国が果たした高度経済成長の延長線上には、やはり地域的な通貨統合、「アジア共通通貨」の実現を目標としておくべきであり、その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力を惜しんではならない。
 今やASEAN、日本、中国(含む香港)、韓国、台湾のGDP合計額は世界の四分の一となり、東アジアの経済的力量と相互依存関係の拡大と深化は、かつてない段階に達しており、この地域には経済圏として必要にして十分な下部構造が形成されている。しかし、この地域の諸国家間には、歴史的文化的な対立と安全保障上の対抗関係が相俟って、政治的には多くの困難を抱えていることもまた事実だ。
 しかし、軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題は、それ自体を日中、日韓などの二国間で交渉しても解決不能なものなのであり、二国間で話し合おうとすればするほど双方の国民感情を刺激し、ナショナリズムの激化を招きかねないものなのである。地域的統合を阻害している問題は、じつは地域的統合の度合いを進める中でしか解決しないという逆説に立っている。たとえば地域的統合が領土問題を風化させるのはEUの経験で明らかなところだ。
 私は「新憲法試案」(平成十七年)を作成したとき、その「前文」に、これからの半世紀を見据えた国家目標を掲げて、次のように述べた。
 「私たちは、人間の尊厳を重んじ、平和と自由と民主主義の恵沢を全世界の人々とともに享受することを希求し、世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力及び集団的安全保障の制度が確立されることを念願し、不断の努力を続けることを誓う」
 私は、それが日本国憲法の理想とした平和主義、国際協調主義を実践していく道であるとともに、米中両大国のあいだで、わが国の政治的経済的自立を守り、国益に資する道でもある、と信じる。またそれはかつてカレルギーが主張した「友愛革命」の現代的展開でもあるのだ。
 こうした方向感覚からは、例えば今回の世界金融危機後の対応も、従来のIMF、世界銀行体制の単なる補強だけではなく、将来のアジア共通通貨の実現を視野に入れた対応が導かれるはずだ。
 アジア共通通貨の実現には今後十年以上の歳月を要するだろう。それが政治的統合をもたらすまでには、さらなる歳月が必要であろう。世界経済危機が深刻化な状況下で、これを迂遠な議論と思う人もいるかもしれない。しかし、われわれが直面している世界が混沌として不透明で不安定であればあるほど、政治は、高く大きな目標を掲げて国民を導いていかなければならない。
 いまわれわれは、世界史の転換点に立っており、国内的な景気対策に取り組むだけでなく、世界の新しい政治、経済秩序をどうつくり上げていくのか、その決意と構想力を問われているのである。
 今日においては「EUの父」と讃えられるクーデンホフ・カレルギーが、八十五年前に『汎ヨーロッパ』を刊行した時の言葉がある。彼は言った。

 「すべての偉大な歴史的出来事は、ユートピアとして始まり、現実として終わった」、そして、「一つの考えがユートピアにとどまるか、現実となるかは、それを信じる人間の数と実行力にかかっている」と。
―Voice 9月号掲載

「かつぎ屋」の戯言

2009年09月01日 17時17分12秒 | 思想信条
昨日の私のブログのアクセスカウンター(gooブログ)に、珍しい数字が並んだ。
2009.08.31(月) 789(閲覧数) PV 308(訪問者数) IP 2525 位 (gooブログでの順位)
全然、自慢できるような数値ではないのだけれど、数の並び方に気が引かれたのである。
閲覧者数は、789と上り調子だし、訪問者数は308と民主党が獲得した議席と同数である。そして順位は2525で、ニコニコと読めそうである。

3年前の9月、私はdendrodium と言うブログを始めて間も無く、
紀子妃に男子ご誕生で、何かと肩身狭くしておられるであろう雅子妃がお気の毒で、私はつたない,論理にも何にもなっていないような、
雅子妃擁護論を書いたのだった。
その時の投稿時刻が、11時11分11秒で、記事の下部に11・11・11と1が並んだのだった。
それを目にしたときは、これは一体なんだろうかと驚いたものであった。
まだブログに慣れていなかった私には、何か異様な棒が立っているように見えたのだった。

それ迄政治ブログなど書くなど思いもよらなかったのに、
その記事に色々とコメントをしてくださる方があって、それに対して言い訳をしているうちに、
いつの間にか私は、政治ブログにはまっていたのだった。

今でも私にはあの時の11・11・11と言う数字の羅列が、不思議な暗示だったような気がしてならない。
大げさに言えば、あの時天命が下ったのかも知れない、と。

そして今朝出ていた昨日のアクセス数である。

国内の事だけでなく、世界の情勢を思ったら、色々心配な事だらけだけれど、
その中でも、民主党は一応の事はやってくれるのではないかと言う期待が、
私の中に新たに湧いてきている。

こんな「かつぎ屋」丸出しの事を書いて、呆れてしまわれるかもしれないけれど・・・・・

追記
自民党政権が打倒されたところで、私に有ったかもしれない天命も、終了したような気がしています。
多分今後はもう政治についての意見は、浮かんでこないのではないかと言う気がしています。
今後は、民主党が何処まで国民の期待に答えてくれるか、黙って見守っていく所存です。