春 夏 秋 冬

めぐり来る 春夏秋 麗しき 大和し護れ 民草いとえ 
          

ブログ休止のお知らせ

このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。 この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、 春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしました。(2010年3月) * * * * * * *  Fc2ブログに不祥事が起き、広告主が引き上げたそうです。 Fc2は何時終了になるか予断を許さない状況かと思い、 気になる過去記事を少しずつ、こちらのブログに写す事にしました。(2015・4・24)

テレビで見た 市井の素晴らしき妻女

2009年10月07日 12時22分36秒 | 日常徒然
関西テレビ「よーいどん」の「となりの人間国宝さん」と言うコーナーで、紹介されていた人に素晴らしい人があった。
今日は神戸線摂津本山駅近辺が舞台で、
「えっちゃん」と言うお好み焼き屋を夫婦でやっている店を訪ねていた。

まずお店の名前の由来を聞いて驚く。
「えっちゃん」と言うのはお好み焼き屋の主人の現在の妻女の名前ではない。
主人が結婚前に付き合っていた彼女の名前であると言う。
その店で、その妻女は屈託ない笑顔で、いそいそと働いておられる。
夫婦の間にはその名前の事で、何のわだかまりも無いようであった。

次にその主人が阪神大震災のときに、
みかんを入れた袋を、いつも通りかかる人の人数分用意して、無料で配った話をしておられた。
その袋の中に「人に絶えられない試練を、神が与えられる事は無いはずです。頑張りましょう」と言う意味の事を書いたメッセージを入れて。

「お宅は震災 大丈夫やったんでっか?」と訊ねる円ひろしに、
「うちは金持ちですさかい」と笑いながら返すお好み焼き屋さん!

このお好み焼きやさんの入り口の壁には、
「人の欲している事を、自分の出来る範囲でしてあげるのが、ボランティア」と書かれていた。(私の記憶力かなり落ちていますので、言い回しはいくらか違っていたかもしれませんが・・・・・)

テレビ収録中、このお好み焼き屋さん夫婦は、絶えず笑顔であった。
勿論ご主人も素晴らしい人だけれど、この奥さんも又素晴らしい人だと思った。
妻が有る身で、妻の名前ではなく他の女性の名前を、店の名前にするような、夫の我侭から、
震災で家を潰され明日をも知れない状況の中で、敢て知らない人に無料奉仕をするような男気まで、
総てを受け入れて、総てを愛しておられる、素晴らしい女性であると思った。

総選挙投票日

2009年08月30日 14時24分48秒 | 日常徒然
遂に投票日を迎えた。
懸念されたお天気も、朝から良いお天気で、陽があたると暑いけれど、
気温はそれほど高くもなく、申し分の無い投票日日和である。
夫は夕方娘と一緒に行きたいと言うので、
私は一人で、11時ごろに選挙に行った。

投票番号が539番だった。
ゴー サンキューで、芽出度いな!なんて思って一人でほくそ笑んでいた。
どうやら政権交代は出来そうなと言う情報ばかりなので、なんとなくウキウキ。

此れも新政権が動き出すまでの事で、
新しい政権の遣る事が、総て国民のウキウキに繋がる事は、不可能であろうけれど・・・・・
でも今日だけは、憲法無視の無法者政権に退場してもらえる事で、良しとしておきたい。
最高裁判事には、全員に×印を付けた。
一人でも罷免されたら好いのだけれど・・・・・
(竹内行夫には過半数の×が付きます様に)

今度の選挙には若い人も、大勢出かけられたのかな?
若い人が投票に出かけないのも、
政治家が若者を、不利な状況に放置する原因の一つであったと書いていた人が有った。
政治家はその位、票数を気にする生き物であるらしい。

次の時代をになうのは今の若者なのだから、
これからは若者も、政治によく目を光らせて、
郵政選挙の愚を反面教師として、
賢い政治活動ができる大人になって下さったら、
小泉以降の数年間の暗い政治も、無駄ではなかったと言うことになるのかも知れない。

なんとなく幸先よく感じられる、総選挙投票日であった。

追記
日本がアブナイさんが、次の歌の載せておられた。
私のブログ名でもあるで、写させて頂きたいと思う。
泉谷しげるさんの「春夏秋冬」の一節
『今日ですべてが終わるさ~。今日ですべてが変わる。
 今日ですべてが報われる。今日ですべてが始まるさ~。♪』

近畿地方今日梅雨明け

2009年08月03日 14時06分43秒 | 日常徒然
今日やっと梅の土用干しをした。
暑くならないうちにと思って、早朝まだ陽が当らないうちに、梅を並べたのだけれど、午前中は曇りがちだったので、ちゃんと干せるか心配だった。

お昼のニュースで、近畿地方の梅雨明けを報じていた。
どんぴしゃの日に、土用干しを始めたと思うと、ちょっと嬉しい(私単純ね)

気象庁が記録を取り出した昭和22年以来、最も遅い梅雨明けだそうである。
8月7日が立秋だから、今年の盛夏はたったの4日間と言うことになる。
これから暑い夏になるのだろうか?
衆議院議員に立候補した人たちにとっては、暑い夏に選挙運動で大変なことだろう。
しかしながら、総選挙の公示は8月18日と聞いているのに、世の中はもう選挙戦一色になっている。
此れは選挙違反と言うことにはならないのだろうか?

日本の司法は最近どうなっているのだろうと思うことが余りに多すぎる。
先日テレビのドキュメンタリーで放送していたものに、
痴漢に間違われた(と本人が主張している)ので、弁護士から「罪を認めて謝ったら50万円で何とかなるらしい。」と言われたのだけれど、
「やってないものをやったと言って謝るわけにはいかない。」と言ってあく迄も裁判で、無罪を勝ち取ろうと裁判に訴えたところ、
最高裁で有罪が確定して、2年6ヶ月の懲役となってしまった。
裁判には合計1000万円かかったそうである。
その上大手電機メーカーの部長の職も手放さざるを得なくなったそうである。
判決の理由は、「あく迄罪を認めず、反省の色が認められない。」と言うもので、
「お上に楯突く不届き者」と言う意味の制裁措置としての2年6ヶ月らしい。
此れでは本当にやっていない人は、どうしたらよいと言うのだろうか?

現在の日本では、
「お上がやったと決めたら、そちはやったのである。まだ楯突くか!不届き者めが!」と言う判決が下されるもののようである。

お父さんが収監される日、お父さんを信じている二人の娘さん達の、
悲痛な叫びの中、その人は収監される為に、役所に向かわれたのだった。

幾ら罪を認めないのが気に入らないからと言って、痴漢の疑いくらいで2年6ヶ月もの判決を下しながら、
一方では、ひき逃げ殺人犯、しかもお酒を飲んでいたから逃げたと本人が供述しているにもかかわらず、飲酒については事故から2ヶ月経過しているから証拠を取れないとして、無視することにして、
ひき逃げ殺人と言うことでの判決が、
冤罪かもしれない痴漢の罪と同じの、
懲役2年6ヶ月で、しかもひき逃げ殺人犯の方には、執行猶予まで付いているのである。http://blog.goo.ne.jp/fenetre39/e/6115f72cca38c59e5451f13843db566d
日本の司法制度は、今どうなっているのだろう?

そんな今日裁判員制度の下での、初めての裁判が行われる。
取り扱う事件は、予定通り殺人事件だそうである。
わざわざ法律を変え、相当の国費を投じて、
素人にそんな凶悪事件を判断させて、何のメリットが有ると言うのだろうか?
民事事件ならまだしも・・・・・
しかもこの法律成立に尽力したと言うことで、その功労者は最高裁判所長官に抜擢されたそうである。(竹崎博充氏

天下分け目の秋(とき) 近づく

2009年07月31日 15時49分52秒 | 日常徒然
今日はもう7月31日
とうとう7月一杯梅雨は明けなかった。
今年は6キロも梅を漬けたのに、未だに土用干しが出来ないでいる。
土用と言えば今日は2回目の土用の丑の日であった。
土用の丑の日が2回ある年は暑い夏になると言うジンクスがあると聞いていたのに、
此れまでのところ真夏とは思えない涼しい日が続いている。
涼しいのは有難いのだけれど、北海道の方では冷夏の為、
作物に実が入らず病気を起こしている作物が多いと言う報道も聞かれる。

たしか16年前の冷夏の年、お米の収穫が少なくて、
政府が外国米を輸入して、
「外米を食べましょう」と国民に呼びかけた年があった。
その直前まで、国の倉庫には古米、古々米、古々々々米があると言う話で、
「鶏の鳴き声みたいね」と噂していたくらいだったのが、
突然の米不足騒動で、吃驚した事が思い出される。

当時の私は政府に全幅の信頼を寄せていたので、少しも疑いなど挟まず、
政府の指導のままに、まずいのも我慢して、外米を買っていたのだった。

エルニーニョ現象の影響と言われたその夏の気候と、
この夏は非常に良く似ているのだそうである。
今年も冷夏による不作になるのだろうか?
お米の収穫が足りなくて、又してもあの年のような大騒ぎになっていくのだろうか?
尤も収穫が少なくて足りないと言われていた国内産のお米が、
翌年の収穫期直前に、次々と安価で店頭に並んでいたものだったけれど・・・・

今年は二の丑が有る年だから、8月になったら、打って変わって猛暑となるのかも知れないが、
そうしたら衆議院の候補者の人達には、大変な日々となるのではないだろうか。
民主党が勝ったは良いが、党首が夏ばてなんて事になると、予定された改革も覚束なくなるかもしれないし・・・・・

心配症の私に心配の種は尽きないが、
いよいよ総選挙は一ヶ月後に迫ってきた。
収穫の秋も同じ頃に重なるが・・・・・

ハグロトンボ

2009年07月11日 17時26分12秒 | 日常徒然
今日は11日なので例によって立木観音にお参りした。
通り道の木陰の草の上で、真っ黒なトンボが羽を休めているのが見えた。
私の若い頃にはあまり見た記憶が無いのだけれど、数年前ごろから夏になると黒いトンボが多数でいるのをたびたび見かけるようになったのだが、
羽が真っ黒く、ちょっと蝶々の燐粉を含んでいるのではないかと思わせるよう肌合いの羽のトンボであった。

やっぱりインターネットは便利だ。
黒いトンボで検索して、色々調べたらハグロトンボというトンボにたどり着いた。
別に新種と言うわけでもなさそうで、たまたま私が出会った事がなかっただけであったらしい。
数年前始めて見た時は、秋の終わりごろで赤とんぼの季節だったのに、赤とんぼが見えないで黒い羽のトンボが一杯群れていたので、赤とんぼが黒トンボにやられてしまったのかな等と心配したものだった。

もしかしたら気温が以前より高くなった為,棲む虫の種類が変わってきていると言う事なのだろうか?
そう言えば先日テレビのコメンテーターが「近畿地方でも、ベランダでゴーヤが育てられるようになっていると言う事は、もう亜熱帯並の気温になっていると言う事なのかもしれませんね。」と言っていたが、
棲む動植物も自然に入れ替わってくる事にならざるを得ないのだろう。

温暖化対策に手が打てないとしたら、私達も新しい気温にあった生活習慣に変えていくしかないのかもしれない。

信楽川の河川敷の自生林

2009年07月10日 16時18分51秒 | 日常徒然
今日は時折は止みながらしとしとと降り続く、梅雨らしい雨の一日であった。
丁度雨が止んでいた2時過ぎに、近所のスーパーマーケットに、買い物に行く事ができた。
この季節、晴れていたら焼け付くように強い陽射になるところだから、今日は曇っていて、かえって助かるくらいであった。

 信楽川沿いの道を通っていたら、河沿いの藪の中から鶯の鳴き声が聞こえてきた。
鶯は8月下旬位まで、泣き声が聞かれるとウィキペディアには書いてあったけれど、私は毎年8月上旬に聞くのが最後だったような気がしていて、
今年は後何回鶯の鳴き声を聞くことが出来るのかと、いつも以上に鶯の声に心引かれたる思いがした。

信楽川沿いには、自然に生えて大きくなった桑や、合歓の木もある。
桑の実は6月下旬に実っていたはずだったのだけれど、今年はうっかりして気が付かないでいたら、誰かが収穫してしまったのか一つも残ってはいなかった。
例年私は気が付いても1つか2つ摘んでみるだけで、収穫と言うほどの事をした事は無いのだけれど、桑の実はジャムにしたら美味しい物が出来るらしい。

合歓の木は今花盛りである。
この団地に住むようになるまで、名前を聞いたことはあったけれど、ねむの木というものを見た事は無く、どんな木か全く知らなかった。
宮城まり子さんの「合歓の木学園」の話などで、合歓の木に対する憧れのようなものはあったのだけれど・・・・・

初めて合歓の木の花を見た時、「此れがねむの木に違いない。」と言う気がした。
如何にも眠そうな、ふわっとした感じの花で、ねむの木の花と呼ぶのがぴったりな感じの花に思えたからであった。
信楽川沿いの河川敷にはそのほかにも、4月には桜5月には藤の花が咲く他、
私の知らない木々が色々自生しており、季節になるとそれぞれの花や実をつけてその存在を主張している。

日本の原風景ともいえそうな滋賀県の山里に住むようになって17年、
自然界は微妙に変わっているような気がする。
一頃はいたるところに繁茂していたセイタカアワダチソウは、すっかり姿を消してしまい、逆に減っていたススキが勢いを盛り返してきた。
それから気のせいか虫の種類や数が減ったような気がする。
五月蝿いという字を当てられているハエに、私は今年まだ悩まされた記憶が無い。
蝿がいないのは有り難い事だけれど、ちょっと不気味な感じもする。

サミットで温暖化対策についての有効な対策は何も決める事が出来なかったそうだけれど、
(MEF:温暖化交渉、足並み一致難しく G8宣言形骸化も)
何とかせねばならないとは分かっていても、どう手を付けたら良いのか実際問題として、余りに問題は難し過ぎるのだろう。

何時までも守りたい自然が、今はまだ満ち溢れているのだけれど・・・・・


梅雨のさなかの温泉旅行

2009年07月03日 16時14分38秒 | 日常徒然
昨日雄琴温泉に私達は(老)夫婦での宿泊であった。
温泉旅館は老人の夫婦や老女達の団体客で満ちていた。
ちょっと驚いたのは、此れまでは温泉旅館の仲居さんは、女性と相場が決まっていたかと思うけれど、
久しぶりに泊まった温泉は、男性の仲居さんであった。
仲居さんと言っても、仲居さんの仕事をする人という意味で、
いでたちは男性用の作務衣で、仲居さんの様に艶っぽさを演出はされていないけれど・・・・
所謂アラホーという世代であろうかと思われる年代の、気配りの利いた感じの良い男性であった。
長い就職難時代が生み出した新しい職業なのか、男女雇用機会均等法の効果なのか?
しばらく振りに触れる社会はかなり変わってきているようであった。

尚風俗営業盛んなりし頃の雄琴温泉には行った事が無いから、比較の仕様がないのだけれど、
現在の雄琴温泉駅は極普通の静かな駅で、泊まった宿も極普通の温泉ホテル旅館だった。
その上従業員がイメチェンに勤めておられるのだろう、廊下の清掃も行き届いているし、お花も至る所に綺麗に活けてあって、とても感じの良い宿だった。

同じ大津市内と言っても、いつもは通らない鉄道なので、ちょっと遠くに来たような気がしたし、
車窓に琵琶湖が見えて望外に楽しめた。

帰り道に京都に回って、本願寺さんにお参りをして帰った。
本願寺さんは御影堂の屋根の吹き替え等大修復で、御影堂には10年位入れなくなっていたのが、今年5月に完成したとニュースで言っていたので、お参りしてみたくなったのだった。

平成の大修復と銘打っての10年がかりの大工事も、立派に終了して本願寺は元の静けさを取り戻していた。
新しい瓦は艶やかで、鈍い光を放っているように感じられた。
それにしても本願寺は広い。
御影堂が立ち入り禁止になっても、すぐ隣に御影堂よりはいくらか小さめだけで、一般的に言ったら大きなお堂、阿弥陀堂が有るので、御影堂に入れなくても特に不自由には感じていなかった事に改めて気が付かされた。
京都に寄り道して帰ったのに、家に帰り着いたのは、まだ12時を少し回ったところであった。
近場の旅行は、楽で良いかも。

今日はもう雨は降らないのかと思っていたら、3時過ぎごろから、ポツリポツリと降り出して、5時22分現在は傘が無かったらびしょ濡れになりそうなくらいの雨が降ってきている。

7月2~3日は雨の予報だったけれど、幸いな事に行って帰って来るまで、雨は全然降らなかった。
今回もお天気さんに助けていただけたようであった。感謝!感謝!

先の見えにくい世の中

2009年06月07日 15時20分47秒 | 日常徒然
今日は午後から晴れてきた。
梅雨が近づく季節なので、残り少ない晴れの日かもしれない。
日向は陽の光が強くて、暑そうだけれど、日陰はまだ涼しく過ごし易い。

犬の里親募集のサイトに応募してみた。
返事はまだ無いけれど・・・・
ご縁が有ったらうちの子になってねと言う気持ちである。

でもこれからドルや円はどうなるか分からないから、ちょっと心配になってくる。
アメリカが財政破綻したら、ドルが二束三文になり、
それに連動して円も二束三文になってしまい、円の値打ちが下がってしまったりしたら、此れまで買えていた金額で、同じものが同じ量買えなくなるかもしれない。
これから新しく犬など飼っても大丈夫だろうか?
そんな気持ちが新しく飼い犬を求める事を躊躇させていた。

最近犬の散歩に行かなくなった所為か、夫のウエストがどんどん大きくなっていき、此れまでのズボンがはけなくなってしまった。

里親募集のサイトには注目し、どうしようか踏ん切りがつかないでいたのだけれど
健康には代えられないという事で、急遽申し込む事にしたのだった。
最後まで飼ってやれると良いのだけれど・・・・・

何をするにも二の足を踏みたくなる今日この頃である。

税金消化工事

2009年04月09日 16時34分08秒 | 日常徒然
今日は雲ひとつ無い快晴の空の下、夫婦だけでですが、お花見をしました。
近所のスポーツ公園の桜は、川沿いに並んで植えられているのですが、私たちのお弁当を食べた桜の木は、まさに今満開で、枝もたわわに垂れ下がり、咲き乱れていました。低くたれている枝は胸の高さくらいのも何本もありましたが、足の脛くらいに低く垂れ下がった枝もあり、素敵なお花見でした。
桜の周りの草原には、タンポポも咲いていました。

平和な日本で、暖かい春の一日夫婦そろって、のどかにお花見など出来る幸せに、
世界のあちこちで、今も尚戦争のさなかに置かれている事を思うと、
今日のお花見が、どんなに貴重なものかと有り難く感じられたのでした。

大津市営のスポーツ公園で瀬田川沿いのかなり広い区域を、地域の運動会にも利用される広い運動場とか、テニスコートが何面もあったり、雨の日用に造られたのか、屋根つきの、観客席も備わったテニスコートとか、ゲートボール場も何面か有ります。
それらの施設の他に、ただの草原も広々ととられ、田舎ならではの、ゆとりのあるつくりになっています。

目的地に行く途中の、川沿いに造成されたばかりのような、草も生えていない土地がありました。
散歩のとき、この辺まで時々足を延ばしていた主人の話では、
「2月頃までは瀬田川沿いに、雑木が何本も生えていたのだけれど、3月になって立ち入り禁止にして何かはじめたと思ったら、わざわざ樹を抜くための工事だったのか」との事でした。

スポーツ公園は広大な敷地を持っていますので、そのような空き地だらけで、今更川沿いの樹を抜いて更地にする必要などほとんど無いと思える位に、空き地だらけなのです。
それらはただ草が生えていて、ゆったりとしては居ますが、特に利用する目的も無い土地なのです。
雑木が生えていても少しも邪魔になどならないところなのです。
川沿いの土地なら樹が生えていた方が、返って土がしまって護岸に良いのではないかとさえ思えるほどです。

3月の工事と言う事で気が付きました。
年度末に予算が余ったので、市が予算消化のためにさせた工事だったのかもしれません。
私たちの団地でも、数年前、川沿いの竹薮を、わざわざ抜いてしまって、ただの草原にしてしまいました。(今はただ雑草の生える空き地になっています。)
昔の人が護岸の為にわざわざ植えたと思われる竹薮で、そのままにしていても何の邪魔にもならないどころか、川岸を強くする働きがあるといわれている竹やぶを、わざわざ潰してしまったのです。
勿論、市民の血税を使っての、公共工事です。
いまや国も自治体も、本当はしない方がましなくらいの工事を、税金を使うだけの為にやらせているように見受けられます。
そんな公共工事をするのが当たり前になっているのでしょうか。

それで思いついたのですが、東京都の築地市場を豊洲に移転させると言う計画も、ただ豊洲の空き地の埋め立て工事を、やりたい(やらせたい)だけなのではないでしょうか?
石原慎太郎が幾ら耄碌しているからと言っても子々孫々が後ろ指刺されるような事を、本気でしようと思っているのではないのかもしれません。
こんな人体に影響があるくらいに高濃度の有毒化学物質があり、地盤沈下まである土地に、本気で食品の公設市場を立てさせようと思っているわけではなく、ただ埋め立て工事で儲けたいだけなのではないでしょうか。
いざ市場建設と言う段になって、問題ありと言う事で差し止められる事も織り込み済みで、やっているのではないかと言う気がしてきたのです。

これも地方税に回っていたものまで、集中的に東京都の税収になるような方式に、変えた地方行政の改革なるものの、落とし子なのではないかと思います。
地方は税不足で、すべての行政に資金不足で汲々としていると言うのに、東京では無駄金使いに汲々としているなんて・・・・・

今日は大阪やあちこちで、25℃以上の夏日を観測されたそうですが、明日はもっと気温が上がるだろうとの天気予報でした。


半島からの飛翔体も通り過ぎて・・・・・

2009年04月06日 16時50分50秒 | 日常徒然
やっぱり北朝鮮からの寒波だったのだろうか?
今日の大津は一気に気温が上がった感じで、買い物に行く時いつも着ていた上着が、暑苦しくて道の途中でわざわざ脱いだほどであった。

春の小川はさらさら行くよ の歌詞の通り、春の暖かい陽光を反射させながら、
春の川はさらさらと音を立てて流れていた。

桜の花は大分開いてきたけれど、これでもまだ5~6部咲きなのかもしれない。
遠くから見るとき、満開を過ぎた桜は白っぽく、色あせて感じられるけれど、
今日の桜はまさに桜色をしている。

春爛漫の日本列島、
凍えながらのお花見をしていたところも有ったらしいけれど、
やっと本当の春らしい陽気になったような気がする。

私は北朝鮮のミサイルなど初めから恐れては居なかったけれど、
政府やマスコミがやたらと騒ぐものだから、肝を冷やしていた人も多かったのかもしれない。

政府はミサイルを発射したら、迎撃ミサイルで打ち落とすなどと勇ましそうな事を言って、
わざわざあちこちにミサイルを配備して見せながら、
ミサイルに照準を合わせるどころか、誤探知などと言う、
私は長らく日本人をやっているけれど、これまで一度も聞いた事もなかった妙な言葉を、NHKテレビで放送して、苦笑を誘う羽目になってしまっただけだった。

どこかのニュースバラエティで、誤探知は今年の流行語大賞に選ばれるかもしれないと言っていたけれど、「不謹慎な事を言う」と言ってあとでしかられたりはしなかったかな?
(中らない迎撃ミサイルをあたらないと言っても、不謹慎なとしかられるのだそうだから・・・・・)
本当に流行語大賞の候補になりそうなくらいに、
初めて耳にした時、ぎょっとするような変な言い回しだなと感じたものだった。

この北朝鮮のミサイル騒動で、自民党の支持率が少し上がったと言うアンケート結果が出ているそうだけれど、
誤探知をするような自衛隊のトップが、麻生総理だと言う事を承知で、
麻生自民党を支持したくなった人が多数有ったなんて信じられない気がする。

これに味をしめて、これからも北朝鮮のミサイル問題をマスコミで、がんがん流すのだろうか?

天木直人さんが次のような事を書いておられる。
   (引用)
「ゲーツ米国防長官は3月末のテレビとの会見で、北朝鮮のミサイルが
米国本土に向かってこない限り『迎撃の計画はない』と断言した。同じミサイル
が日本領土に照準を合わせて発射されても迎撃対象としないという意味になる。
文字通り解釈すれば、日米安保条約の米国の責務に反する重大発表だった・・・
北朝鮮のミサイル脅威(から日本を守ること)には米国には必ずしも依存
できないという深刻な新シナリオが浮かびあがる・・・」(引用終わり)

ゲーツ長官は、ミサイルの照準が日本に合わされているのだったら、アメリカは関係ないと言ったそうだけど、この事はこっそりと隠しておこうとするのだろうな。
アメリカの国防長官は日本が危険にさらされる事があっても、守るつもりは無いとはっきりと言ったのに、
それでも日本は「守ってもらっているのだから」と言って、
思いやり予算を出し続けるのだろうか?
100年に一度の金融危機で、財政も厳しいと言うのに?

マスコミで北朝鮮問題を論議するのなら、是非ゲーツ米国防長官の言葉も話題にしてもらいたいものである。

プライバシーレポートの目玉

2009年03月19日 16時22分13秒 | 日常徒然
今日も近畿地方は20度を上回るぽかぽか陽気で、ちょっと歩くと汗ばむくらいの暖かい日であった。
お天気は下り坂の予報どおり、雲が広がってきた。

今日よそのブログで気持ち悪いものを見た。目玉に赤いストップのマークがつけられたもので、プライバシーレポートと表示される。
これまで自分のブログには付いてないのかと思っていたけれど、ほかの表示物で隠されていただけで、其れをのけてみたら、やっぱり付いていた。(ショック!)

これはどうやったらのける事ができるのだろうか?
これはウイルスというものなのだろうか?(スキャンしても駄目みたい。)

試しに良く見るブログを調べてみたら、10指に余る目玉が、たちまちにして数えられた。
ちなみに、私の以前のブログには付いていなかったから、ウイルスというわけでもないのだろうか?

この目玉の事ご存知の方がおられましたら、教えていただけませんか?

鶯の棲む山里で

2009年03月09日 16時35分13秒 | 日常徒然
今朝新聞を取りに表に出たら、姿は見えないのだけれど、玄関脇の白樫の木に鶯が止まっているようで、すぐ耳元でしばらくの間ホーホケキョという鳴声が聞こえた。
例年なら2月中に鶯の声を聞くのだけれど、今年は二月は暖かかったにもかかわらず、鶯の声を聞かずじまいだった。
3月の初めに山の方で啼いている声を聞いてはいたのだけれど、すぐ耳元で啼いているのを聞くのは初めての経験であった。
田舎に住んでいるのは、不便なことも多いけれど、こんなこともあるのだと嬉しくなった。

先日亀井静香を応援したくなって、国民新党に入党の手続きをしたら、今日午後国民新党から党員証が届いた。
計らずも政党に入党してしまったと言う感じである。
党大会みたいなところに出ることもないのだろうけれど、頑張っている政治家を応援してあげることしか出来ないので・・・・・

日本の国際収支が赤字に転落したらしい。
一時的なことかもしれないけれど・・・・・
国際収支:13年ぶり経常赤字、最大1728億円 輸出が半減--1月

節分

2009年02月03日 14時20分16秒 | 日常徒然
今日は節分なので、立木観音に早めにお参りした。
節分にはお寺さんや、檀家さんが行者さんの姿になって、山中の要所要所を行列を作って拝んで回って後、渡り廊下から豆まきをされるのが慣わしとなっている。
その一回目が10時半から行われたのだけれど、早朝にもかかわらず、もうかなりの人が集まっていた。

背も低いし、体の動きも鈍い私たち夫婦は、あまり多くは期待できないのだけれど、それでも毎年節分になると立木さんの豆まきを楽しみにして来ている。
今年は例年より沢山の下がり物が、私のところに飛んできて、近年になく沢山の拾い物であった。

立木さんで柚子湯を頂き、豆まきにも参加させてもらって、ゆっくり帰ってきたのだけれど、午前中はお天気は崩れなかった。
午後はだいぶ降っているようだけれど、でも雨であると言うことは、それなりに暖かいということなのだろう。

明日はもう立春である。

人生の目的は自分のドラマを生きる事

2009年01月16日 13時20分26秒 | 日常徒然
チャップリンが語る愛の世界
私の人生観宗教観に書いたのだけれど、
人間がこの世に生まれてきたのは、あらかじめ自分で想定した人物として、人生ドラマを演じるのが目的だったのではないかと思うようになったのは、
私の淡い初恋の相手、彼とのかかわり方に元を発している。
二人共老齢に達し、若い方々の参考の為ここにそのあらましを書いても良い時期に来ているのかもしれないと思い、恥さらしだけど書かせてもらうことにした。

私が初めて彼の名前を知ったのは、私が2年生で転入学した福岡の高校で、
新しい高校にやっと慣れかけてきた5月のことであった。
この高校の毎年春に行われる文化祭で、クラスメートに勧められて文芸部の文集を買った。
その文芸部発行の文集に彼の創作「遺言」という短編小説が載せられていた。
創作「遺言」を読んだ後、何故か私の目には、
作者の名前に後光がさしているように見え始めた。
後光というと神がかりのようであるが、
名前の周りに燐光のようなものが、見えるようになったのだった。
2年生の3学期、初めて彼と出会う頃まで、
その燐光の様なものはずっと感じられていたのだった。
友人にページを開いて、名前の部分が光って見えないか尋ねたら、
その友人に「変な事を言う」というような目で見られたものだったが・・・・・

「遺言」の舞台は戦国時代の宗像大宮司家。
かの有名な下克上の人陶氏におびやかされる戦国大名の家の物語。
主君を殺害した陶氏の血を引く亡君の落とし胤に後を継がせて、
主家の存続を図ることにした家老の悲劇の物語。

小説の主人公で宗像家家老の久秀は主君を陶氏に暗殺され、跡目を誰にすべきか迷いに迷っていた。
今は亡き主君の未亡人菊姫に婿をとるべきだと言う意見が大勢を占めていたからだった。
それでは主家は陶氏に滅ぼされてしまうだろうと思うと久秀は其れにも賛成できないが、
菊姫の父は久秀にとって恩人であった。
迷いに迷った挙句に久秀は主家存続の為遂に決心して、恩人の娘・まだうら若く美しい女性菊姫を、自分の手にかけたのだった。
菊姫が生きている限りお家騒動が続くと見たからだった。
久秀はその後すぐ、主君の未亡人を殺した責任を取って切腹する。
死を前に久秀は自分の息子に遺言を残した。
その遺言には「武士をやめて僧侶となって静かに暮らせ」とあったという。

作者の名前に燐光を見ることとなったのは、その戦国の世の悲劇が私をうっとりとさせたからなのだろうか?

秋の文集にも彼の創作作品が載っていた。
宇治拾遺物語から題材をとった、のどかな話が数編描かれていた。
その時私は、どういう意味かはわからないが、「この中にあの人は居ない」という気がしたものだった。
そして秋の文集に載った彼の名前も、私の目には春の文集の時と同じように、燐光に包まれているように見えたのだった。

私は彼に会えるかもしれないという希望もあって、誘われるままに文芸部に入部していた。
2年生の3学期、大学の入試が済んだ頃始めて彼は私の前(文芸部の部室)に現れた。
彼が部室に入ってきたのは、
私が部室の入り口近くで、後輩の男子とはさみ将棋をしていた時だった。

「ここを行ったら良い」と笑いながら、彼は私の相方(後輩の男子)の駒を進めていた。
それが私にとって彼との始めての出会いであった。
その時私は思わず立ち上がっていた。

その時彼を前にして、私は幻影を見ていた。
最初は静かだったのが、だんだんと人が増えていく感じがした。
そして遂に大勢の人々の気配が感じられるようになってきた。
大勢の人々が、彼の事を讃えている様だった。
そのざわめきの中で私は、
「とうとうあの人は私の手の届かない所に行ってしまわれた」と寂しく感じていたのだった。

その幻影は、私にはずいぶん長い物語のような気がしていたけれど、
それは、もしかしたら、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。
はさみ将棋の相方の後輩の男子が、
「早く行って」とせかす声で、われに返ったとき、
将棋の駒を進めながら笑っていた彼の笑い声が、まだ続いていたような気がする。
後輩の男子との挟み将棋を、早々に終わらせたとき、
彼は部室を出て行くところであった。
彼が部室を出て行った後、興奮した私は文芸部員のだれかれかまわずに
「あの人が○○さん?」と聞いていたのだった。

その後大学が始まるまで、彼はしばしば文芸部の部室を訪れるようになっていた。
文芸部では「随筆日誌」というノートがあって、部員の誰でもそのノートに書きたい事を書き込めるようになっていた。
彼との出合いの後、私の書いた文に対して彼は感想とか返事とかと思えることを、いつも書いて下さるようになっていた。

高校を卒業して大学生になっても、彼は時々文芸部を訪れてくれていた。
しかし、二人の関係は文芸部員と、先輩の文芸部員の域を出ることはなかった。
その頃の私にとって彼は、自分と同等に考えることなどできない、雲の上の人のように崇拝する憧れの先輩だったのだから・・・・・

ある日学校から帰ろうとしている私を、彼が追いかけてきてくれて、校門の近くで一緒になったことがあった。
高校の前の大通りを始めて並んで歩いた時、
これから彼とこの大通りを何時までも歩いていけるのかと思うと、
その大通りが光輝いて見え、私の心は希望に満ちる思いであった。

それなのにいつもの曲がり角に来た時私は、
「私はこちらですから」と言って、彼に別れを告げていた。
私は彼に引き止められるのを期待していたのに,引き止めて貰えなかった事にがっかりしていたのだが・・・・・
その曲がり角を行ったすぐの所にあった、おうどん屋さんの屋号がそのときの私の胸には堪えた。
いつもは気にしたことのなかったその屋号
黒田節の歌詞から取った、その屋号は「想夫恋」であった。

その小路を過ぎると、国鉄の線路沿いの道に出る。
線路を右に見ると道の左手には、高く長い塀が続いていて中ほどに通用口があった。
そこに小さく社名が書いてあったが、その会社名は「大日本窒素」、今思うと此れも私の運命を暗示していたものだったのだろう。
何となく暗い雰囲気の塀であったが・・・・・

翌年私は高校を卒業して信託銀行に就職していた。
仕事にも幾らか慣れてきたある夏の夕方、仕事帰りの私は市電を降りて家への道、大日本窒素と鉄道にはさまれた高校時の通学路と交差している道を通って、踏み切りを渡ろうとしている時、
反対方向からやはり踏み切りを渡ろうとしていた彼と偶然出会った事がある。
二人は只会釈するのみで、お互いに踏み切りを反対方向に進み、言葉を交わす事もなかったのだった。

それから間もなくの10月、私の家は大阪に転居した。
幸いにして信託銀行が大阪支店への転勤をさせてくれたので、私は引き続き銀行勤務を続ける事が出来た。
その年の暮れ、住まいが遠くなったという気楽さもあって、私は思い切って彼に手紙を出したのだった。
すぐに返事が来て、二人の間に文通が始まった。
しかし話題が政治の話になると、二人の意見はどうしても真反対のものになってしまい、
私は短気にも、彼に絶交を申し入れてしまったのだった。

その後何年かして彼は、弁護士として今水俣病訴訟に取り組んでいる
「勝訴の日まで頑張るつもりです」と、
私に葉書を寄越してくださった。
「私も水俣に行ってお手伝いしたい」と書きたかったのだけれど、
私にはどうしても決心がつかなかった。
水俣病にかかった人が訴訟などしたら,
闘争的な精神から心が更に乱れて、
病状は更に悪化するのではないかという、
精神絶対主義的な思想に当時の私は、かなり偏っていたからだった。

今の私は、肉体は精神の影響を多分に受けるけれど、
肉体の材料が物質である以上、自然の状態と著しく違う環境におかれたら、
精神だけでは補いきれない場合もあるという考え方になっているのだが・・・・・

水俣病訴訟の裁判が、枚方地方裁判所で出張裁判をした事があった。
当時大阪府下に住んでいたので、何年か前からその日を楽しみに待っていたので、私はその裁判を傍聴に出かけた。
裁判所の小部屋で、私は彼と何年ぶりかで再会したのだった。
言葉は余り交わす事は出来なかったのだけれど、
又しても夢か現か分からない様な、不思議な気分になる出会いであった。

午後からの裁判に備えて、昼食を外で取って裁判所に向かっている時、
「怨」という字を書いた幟旗を掲げた一団が、私を追い越して裁判所の方に向かっていた。
私はその「怨」の字を見たとき、心が暗くなっていた。
その私を偶々道の向こうから見ておられた彼の目と、私の翳った目が会った。
彼は何も言わずに裁判所の方に行ってしまわれた。
心なしか、彼の目も暗く沈んでいるように思われた。

法廷は地方裁判所で小さな部屋なのに、
傍聴人が大勢でとても傍聴は出来ないかとガッカリしていたら、
奇跡的なと言いたいような事が起きた。
裁判所の職員が大勢の傍聴希望者に向かって、
「後2人・・・・」と言って、ある女性と私を指名してくれたのだった。

後で知ったのだけれど、その女性は水俣病を追いかけている有名な写真家であった。
その写真家を傍聴させてあげるために、
偶々傍にいた私はカムフラージュとして利用されたのではないかと思う。
そういう事情で、私は最後の2人の中のもう一人に選んでもらって、
物凄い競争率を突破して裁判の傍聴を許されたのだった。

法廷の中はほぼ満員で、皆が私達を振り返っていた。
最後の一人として私が法廷に入った時、心配そうに振り返っていたる彼と目が合って、私もほっとして笑みが出て、図らずも二人は微笑み交わしているという構図が出来ていた。
その時法廷内にざわめきの様なものが起きたような気がした。
裁判長もほんの一瞬、目をぱちくりさせられたのが印象に残っている。
流石にほんの一瞬であったが・・・・・

枚方の出張裁判は2日掛りで、翌日は朝からの法廷であった。
朝から行くには自分の家(豊中)からはちょっと遠いので、
私は高槻にある兄の家に一泊させてもらった。
その時兄嫁に「お隣の奥さんのお兄さんが、今隣に来ておられるのだけれど、会って見ない?」と、
私はお見合いを勧められた。

私はそれ処ではない気持ちだったので、
あっさりと断ってしまったが、
後で聞くとそのお隣の奥さんのお兄さんも、同じように断られたという話であった。

翌日出張裁判が終わってから、弁護団の人たちが帰えられるとき、
傍聴者達も一緒に、長い行列を作って帰途に着いていた。
暫く一緒に進んでいたら、踏み切りに差し掛かった。

私の帰り道はその踏切を渡らずに、横に行かねばならなかったので、
そこで彼とは碌に別れの言葉も交わせないまま、私は一行と別れた。
又踏み切りで分かれる事になったな~と、私は不思議な感じがしたのだったが・・・・・

それから数年後、急に思い立って水俣の事務所を尋ねたとき、
彼はちょうど熊本に行くところだった言われて、
熊本まで車で送ってあげようと申し出て下さった。

彼の車で私は最初で最後のデイトをした事になる。
熊本に行く途中立ち寄った海岸で車を降りて海を見せてもらった。
水俣病の事を色々と教えてもらった。
彼は海の向こうに見える島をさして、「恋路島」と島の名も教えてくれた。

「難波より はるばる来ぬる恋路島 水俣の海は厳しかりけり」

熊本までのドライブは楽しかったけれど、
山肌を切り開いた崖の道を走っている時
「ここでハンドルを切ったら崖から、落ちて一緒に死ねるかもしれない」と心に悪魔が囁いていたのを覚えている。

私は悪魔の言う事を無視する事が出来て、無事熊本についた。
レストランで夕食をご馳走になったり、夜の熊本城に案内してもらっているうちに夜はふけて、
熊本駅に着いたときにはもう10時近くになっていた。
切符売り場の窓口で彼が尋ねてくれたとき売り子さんが、
大阪行きの切符は最後の一枚になっていると言われた。
「このまま帰りますか?」との彼の問いに、
帰るのが当然のことと思っていた私は、
ちょっといぶかりながら、大阪行きの切符を買ったのだった。

一旦は大阪の家に帰ってきたのだけれど、
「このまま帰りますか?」と彼に聞かれた事が気にかかり、
私は家に帰り着いたその日、再び水俣を指して汽車に乗ってしまっていたのだった。

水俣の彼の事務所には、灯りがともっていなかったので、留守である事はすぐ分かった。
その上私にはそこがもう、もぬけの殻になっているような気がした。
それでも私はそのまま、そこを立ち去りがたく、
事務所の前にある公園のベンチで一人夜を明かす事にした。

3月の末だったと思うが、その夜はちっとも寒くはなかった。
満開の桜が美しく咲き乱れており、空には朧月がかかる美しい夜であった。
太田垣蓮月尼の「宿貸さぬ 人の辛さを情けにて 朧月夜の 花の下臥し」そのままの夜であった。

翌朝駅のそばを通った時、水俣病訴訟勝訴記念式典がその日熊本の会館であるというポスターに始めて気がついた。
彼が「このまま帰りますか?」と聞かれたのは、私がこの式典に出るために、遠路はるばる熊本県までやって来たと思っておられたからなのだという事が、やっと分かった。

私は熊本の会場に行って、途中からではあったが式典に参加する事ができた。
式典が終わって彼に近づく機会があった時、そっと彼の背広の裾に触れた私の手を、
彼は反射的に振り払っていた。
がっかりしなかったわけではないけれど、来るべきものが来たという気もしていた。

その時私は久秀に殺された菊姫になって、”「遺言」の巻き”が成就したような気がしていた。
でも表の心はつれれない彼のしぐさに、打ちひしがれていたのだったが・・・・・

その3年後の8月、偶々読んだ芥川龍之介の短編集の、「芋粥」と「六の宮の姫君」に、
私は人生を感じた様である。
「芋粥」からは、長年私が憧れていたものは、
芋粥の中の主人公にとっての、芋粥と同じようなものなのかも知れないという思いであった。
「六の宮の姫君」では、「こんな事をしていたら私もこの六の宮の姫君のようになってしまう」という思いであった。

その年の9月になって私は、出雲大社にお参りに行きたくなった。
両親には「出雲大社に行きたい」というのが気恥ずかしくて、
秋吉台に行きたいと言って旅行に出た。

往路瀬戸内海の島に住む伯母の家に一泊させてもらった。
伯母の家の二階6畳の部屋には、
従兄の奥さんがやっているブランド店で売るために買い集めたものだったのだが、
ウエディングドレスが部屋一杯にハンガーにかけてあった。

山口県では東萩駅前で宿をとる事にした。
東萩駅前で「駅に近い民宿に泊まりたい」と言う私の希望を受けて、
案内所の人が「どうせ駄目だと思うけれど・・・・」と言いながら、
その民宿に電話をしてくれた時、
「え!あるんですか?」と、吃驚したように、その案内係の人が言っておられた事が印象に残っている。

台風7号襲来予報がなかったら、とても予約なしで泊まれる宿ではなかったらしい人気の民宿「雀のお宿」に、
幸運にも私は泊まる事が出来たのだった。
私の泊めて貰った部屋は増築したばかりの部屋で、電灯も私が部屋に入ってから取り付けに来られた位で、
新築ほやほやの部屋であった。

この旅行で秋吉台や秋芳洞、萩の松下村塾後、高杉晋作の実家後等を見て、
私は予定通り出雲大社にお参りした。
出雲大社で拝殿に立ち参拝しようと手を合わせたとき、
宮の奥から突然太鼓の音が響いてきたのには、ちょっと驚いた。
そして、驚くと共にこれは何かの啓示なのかも知れないという期待感を持たせられたのだった。

予定ではその日のうちに帰り着くはずであったが、
台風7号の為に電車は徐行運転になり、岡山駅に着いたときには終電もなくなる時間になっていたらしく、
私達乗客は臨時の新幹線で大阪まで運んでもらった。

大阪駅から阪急電車の梅田駅に着いたとき、
最終電車を告げる「蛍の光」の曲が流れていた。
私が家に帰りついたときには、もう日付が変わっていた。

翌朝と言っても日付としたら、私が出雲大社から帰りついたその日に、
高槻市に住む兄の所からお見合いを勧める電話が掛かって来た。

何から何まで私の縁談を寿いでいるような事続きの後、
私は9月半ば過ぎに現在の夫と見合いをしたのだった。
それは枚方の水俣病訴訟出張裁判の時に、
兄嫁から会って見ないかと言われていた、
お隣の奥さんのお兄さんである。

今度は何故か二人共、素直に見合いに応じて、高槻の駅前で見合いをした。
見合いをして2ヵ月半後には、二人は結婚式を挙げていた。
枚方の出張裁判の時に、二人が共に見合いを断っていなかったら、
この縁は成立しなかっただろうと思うと、不思議な気がする。

結婚後最初の住まいは滋賀県甲賀郡水口町(現在の甲賀市)であった。
水俣に嫁けなかったから、水口の住人となら結婚しようと思って、結婚を承知したというわけではなかった。
見合いのときには滋賀県の人とは聞いていても、詳しい住所を知ったのは婚約が成立してからであった。

結婚して間もない頃の話に、夫がまだ二十代の頃、何かの占いをしたら「40過ぎるまで結婚できないだろう」という卦た事が出た事があったのだそうである。
嫌な卦だと思ったが、結局40を過ぎるまで結婚出来ないで来たという。

その話を聞いたとき、私たち夫婦は初めから結婚する運命にあったのかもしれないと思った。
夫は私の人生ドラマに付き合った分けではなかろうが、
丁度私のドラマが完結するのと期を一にして、
夫のドラマも次のステージにシフトしていたのだろう。
だから二人揃って最初の見合いを断っていたのだろう。

件の高校の先輩の彼と結婚する予定は、私の人生ドラマの中には全然なかったから、
二人の仲が近づきそうになると、
私は自分から変な事をして、
彼から離れて行ってしまっていたのだろうと思われる。
今思うと、彼にとって私は理解に苦しむ様な事をしばしばやらかしている、
変な女だった事だろう。
色々と分けの分からない思いで、彼の心を悩ませたりしたのかもしれない。
彼を苦しめる意図など全然無かったとは言え、申し訳ないことであった。

私たち夫婦は三十代半近くと四十代半近くになって結婚したのだけれど、
何とか子供にも恵まれ、遅ればせながら、私も世間並みの幸せな人生を送る事ができてきた。
そして夫の定年を期に、私達は大津市内に転居することになった。

この家に移ってきて後、私は図らずも自分が宇治周囲物語の世界に入っている事を知った。
今の私の家のあるところは大津市とは言っても、京都府との県境に位置する辺鄙極まりない土地である。
しかし私はここが宇治市と接する土地であるという事は、移り住んでしばらくするまで、全然気がつかないでいたのだった。
私達がここに新しい住まいを決めたのは偶々であって、
宇治の周囲に位置するところを選んで移り住んだわけではなかった。

今の家に移り住んで数年後、水俣病訴訟が勝訴20年を迎えたというマスコミの報道があった。
昔、文通をしていた頃、彼の手紙に或俳句が書いてあった。
大学の俳句部で選ばれたのだそうであった。
その時私は名前だけで住所は書かないまま、
彼にその俳句を主題にした葉書を書いた。
何故住所を伏せたのか?
やっぱり夫に対して疚しい思いがあったからかもしれないが・・・・・

その葉書は私にしては全然滞りなくすらすらと書けた。
文字数や文字の大きさも過不足なく、文面がぴったりと葉書に嵌った。
まるで前世からこの文面を書くことが決まっていたかのように・・・・・

その葉書の文面は今でも諳んずる事が出来る。
夏草の波やわらかに碑文字読む(貴句拝借)
新聞で水俣病訴訟が勝訴から20年になると知りました。
長い間ご苦労様でございました。
私は今宇治周囲物語の世界にいます。
文字が違いますって?
私は今滋賀県で、山ひとつ向こうは宇治というところに、
定年後の夫とまだ中学生の娘と三人 長閑に暮らしています。
あの二つの作品は私にとって青春の記念碑となっています。

此の葉書を書く事を私(私の魂)はドラマの完結と、当初から計画していたのではないかという気がしている。

これで私の人生ドラマの前半は終わったが、
宇治周囲物語の中で幸せに暮らす私のドラマの、残りの部分は現在進行中である。
この幸せな現在を作ってくださった夫に、私は深く感謝している。
そして、私の人生ドラマのもう一方の役を担ってくださった彼にも、
とても感謝している。

これらは総て、私の人生ドラマであって、
夫にも彼にも、それぞれの人生ドラマがあったことだろう。
それらの中では私も、その素材の一部であっただけであったことだろうが・・・・・

私の人生ドラマは、多分生まれ出る時の私が
”恋の至極は忍ぶ恋に御座候”という葉隠れの恋物語をやってみたかったからのものではないかと思う。
その相手役にと心積もりしていた彼であったから、
彼の名前を知った時、私の目に彼の名前が輝いて見えていたのではないかと思われる。
それにしても、私はなんと見映えのする相手役を、得ることが出来たことだろう!
彼の人生は「遺言」の久秀のように、悲惨な人生ではなかったけれど、
弱い者の味方として彼は一生初志を貫徹しておられる。

あらゆる意味で彼には只感謝あるのみである。

人生は行き詰ったからと言って、捨てては勿体ないというのが、私がこの記事を書いた理由であり、言いたかった事である。。
行き詰った時、次のステップは始まりかけているのかもしれないではないか。
総ての人が所謂「幸せな人生」になるとは限らないと思う。
人生の目的は人それぞれだから、その人なりの目的を遂げたとき、最悪の場合例え苦しみながら死ぬ事になったとしても、その人は生き抜いたという達成感に満たされるのではないだろうか?
死ぬべきときが来たら必ず死はやってくる。
慌てて自分から死を選ばないほうがよい。
苦しいからと言ってこの世から逃げ出したりしたら、もう少しで達成できたかもしれない人生の目的を果たせない事になってしまうかもしれない。
失恋した寂しさから自殺などしていたら、迷いは晴れないままで、心の平安を得る事はできなかったと思う。
自殺したら輪廻転生を繰り返す事になると教えられているが、
それは途中止めになったドラマのやり直しを、自分自身がもう一度次の世で遣りたくなるからではないだろうか?

それぞれの好みによって、人生ドラマに悲劇を選んだり喜劇を選んだりと色々だろう。
そのドラマは現在の自分の想像を超えた展開になっているはずである。
そして、その展開をこなす能力は自分に備わっているはずである。
自信喪失になったり絶望しそうになる事もあるかもしれないが、
過ぎてみたら、それらはそのドラマに彩を添えるものとなるだろう。

神仏の分身同士である兄弟姉妹(人類)への愛を忘れず、誠実に生きてさえいたら、
人生ドラマはきっと最良の展開をしてくれるだろうと、私は信じている。
神仏を信じる事と自分を信じることは同じ事である。
それが私の信仰であると言えるのかもしれない。