今回のツアー4泊のうち、3泊したのがボハイ パール ホテル大連(大連渤海明珠大酒店)
大連駅のすぐ隣で、勝利広場の地下街大ショッピングセンターやマイカル大連商場(デパート)が近くにあり、買い物や食事をするのに非常に便利。
朝食は最上階(30階)の展望レストランでバイキング。
料理の品数が多く展望を楽しみながら頂きました。
写真は、展望レストランから見た大連駅です。
外観が上野駅に似ていると言われている大連駅。
私たちは終戦直前に日本に戻ってきましたが、大変な思いで帰国したようです。
小さな子ども3人を連れて両親と父の姪(黒衣(くろこ)おじさんこと私が生まれた時、日本から大連に来てもらっていた)の6人は、大連港から船で日本に帰国するため乗船したが、船の安全を守るため偵察機が飛び立ち海上を確認したところ、黄海にアメリカの潜水艦がうろついているという情報があり、船は出港できなくなってしまった。
そこで、両親は陸路を選び大連駅から列車で奉天(現在の瀋陽)まで遼東半島を北上、列車を乗り換え、今度は朝鮮半島を南下しプサンに出て、そこから船で日本に戻ってきました。
この大連駅は、私たちが奉天に向かうため列車に乗り込んだ駅です。
2日目(7月1日)は、ホテルに近いロシア人街を見てから、旅順に向かい203高地等を観光し、大連市に戻って市内観光です。
ロシア人街
当初、大連は小さな漁港だったのを租借権を得たロシアが開発したところで、その当時ロシア人達がこの辺りに住んでいたようです。
今ではすっかり観光地化され、通りの両側にお土産屋が建ち並んでいます。
ロシアのこけしマトリョーシカがたくさん売られている。(写真右は前回に撮ったもの)
ロシア人街には日本橋(現勝利橋)を渡って行きます。
私たちはバスで通ったので、是非この足で橋を渡ってみたいと思いロシア人街を見学した後、日本橋を途中まで渡って記念写真を撮ってきました。
次に目指したのは旅順の203高地。「坂の上の雲」が放映されてから更にい観光客が増えたそうです。
ここは、旅順総攻撃をするために日本にとってどうしても必要な場所で、日本軍がロシア軍と壮絶な戦いを繰り広げた場所で多くの死傷者を出したところです。乃木将軍の息子もここで戦死。
山の標高が203mだったことから203高地と呼ばれた。
山頂の「爾霊山(にれいさん)と記された銃弾の形をした記念碑は、乃木将軍が周辺に散乱していた砲弾などを集め鋳直し、犠牲となった将兵の霊を慰めるために建てたものです。
ここからは、旅順の市街が見渡せるのですが、残念ながら霞がかかっていて今回は見ることができなかった。
203高地からバスに乗って旅順市内に入り、川島芳子旧居・旧旅順ヤマトホテルの外観見学。
川島芳子旧居は「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子が5歳から8歳ごろまで暮らした家。
旧旅順ヤマトホテルは川島芳子が結婚式を挙げたホテル。
旅順駅と白玉山
旅順駅はロシアが建てたエキゾチックな駅舎、100年前の姿がほぼそのままで残っている。
白玉山には日露戦争が終結した後、日本海軍大将東郷平八郎と陸軍大将乃木希典によって「表忠塔」が建てられている。(駅舎右上の塔)
その後、旅順博物館や海星公園を見学後大連市内へ
日本統治時代の日本人街
大連には、まだ各地に日本人街が残されています。ここは大連の中心部中山広場に近い中山区の高級日本人街。当時のままの住宅が残っていて現在も使われています。
黒衣(くろこ)おじさんの住んでいた住宅地は光風台にあり最終日に訪ねたので後ほど紹介します。
水深が深く、冬でも凍らない天然の良港として栄えた大連港。
現在は観光フェリーの発着所となっています。
黒衣おじさん達が船に乗って日本に戻ろうとした大連港。
停泊しているフェリーを眺めながら、もし船で戻っていたら潜水艦に撃沈され海のもくずとなり、こうして兄弟姉妹5人がそろってこの港に来ることはなかったのだと思うと、幼子を連れて列車を乗り継ぎ何日も掛ってプサンまで来て日本海を渡り無事に日本に帰国させてくれた両親に感謝の気持ちで一杯になった。
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