楽しきかな第二の人生

黒衣おじさん&看板おばさんと愛犬福太郎の物語。

大連・旅順・金州・瀋陽の旅ーその5 旧住宅・病院を訪ねて

2012年07月10日 | 旅行(大連・旅順・金州・瀋陽)


大連市地図
今回のツアーの最大の目的は、私たちが住んでいた住宅地・3人が生まれた病院を訪ねることだった。そのためには、大連で自由行動がとれる時間が組み込まれていなければならない。それに、できたら瀋陽(奉天)に行けたらなお良いんだけどといろいろ検討していたら、条件にピッタシのツアーがあった。
それが今回のツアーでした。

最終日、帰国のため大連空港に行くバスが10時50分にホテルを出るのでそれまでが自由時間。

前日、ガイドブックの案内地図よりも詳細な地図を買い、6人で夕食を食べながらいろいろ検討を行った。



帰国する準備を済ませ、朝、7時にホテルを出れて駅前のタクシー乗り場へ。

拡大コピーして目的地付近のホテルにしっかり印をつけた地図と、指差し会話帳を見て「00ホテルまで行きたいのですが?」と中国語で大きく書いた紙を運転手に見せて「OK?」と聞くと、うなずいたので乗り込む。
6人なので2台に分乗。





ここが、私たちが住んでいた「光風台」です。大連市地図で中央部に旧日本人街と注記されているところです。日本人街はここだけでなく各地にあります。





8年前に来た時の写真
昭和初期に作成した陸地測量部の地形図(黒一色の地図)から私たちが住んでいた「光風台」は特定できていたので、通訳に現地に案内してもらい、更に近くの派出所に行って警察の持っている詳細地図(オレンジ色の地図)と照らし合わせて確認した。





8年前に来た時の写真
更に、この辺の人にもいろいろ話を聞いた。
今までも、ここに住んでいたという日本人が訪ねて来たことがあるということでした。






8年前に来た時の写真
私たちが住んでいた「大連市光風台31の4」はこの辺に間違いがないが、「この家」と特定することは不可能だった。





大連駅から乗ったタクシーは2台とも目的地に着いた。
タクシーの料金、1台は12元(初乗り3kmまで8元、1kmごとに1.8元増し 料金から住宅地までは約5kmということになる)、もう一台は14元だった。
タクシーを降りて、私たちが住んでいただろうと思われる場所を案内、8年前の記憶が蘇ってきた。






皆、言葉にならないくらい大感激!!
同行した姪に、5人で記念写真を撮ってもらった。





姉は、仲の良い00ちゃんと大きな道路を渡って幼稚園に通っていたことや路面電車に乗って海水浴に連れて行ってもらったことなど覚えていた。
今は路面電車走っていないが、当時の地形図には、ちゃんと鉄道の記号が描かれています。
姉は、母に見送られてこの道路を渡って幼稚園に行っていことは間違いないですね。

この道路を渡って、周辺をうろうろしてみたが幼稚園らしきものは見当たらなかった。姉によると、幼稚園は小学校に併設されていたようだということなので、地形図を詳細に調べれば分かるかも知れない。実は、私が持っていたこの地形図、残念ながら引っ越しで紛失してしまった。(多分、国会図書館には保存されていると思う。あれば閲覧・コピーは可能)

次は、姉、兄、私が生まれた病院へ
市内に向かうタクシーは、すべて乗車していて空車が来ない。10分位道路に立って待ったが来ないので仕方なく道路を渡って反対方向で待つことにした。

やっと捕まえて、今度も地図とメモを示しOKをもらって乗り込みUターンして市内方面に。
今度、タクシーの運転者さんに示した目的地は、誰でも知っている「大連京劇団」です。





病院周辺の地図。
病院は市内中心部に近いところにあります。





大連のタクシーは、青が国営、白が民間、黄色は個人と色分けされています。
しっかりメーター倒されていました。たまにメーター倒さないで料金を吹っ掛けてくるタクシーもあるようです。





旧東本願寺、現在は大連京劇団として使われています。
ここには、ほぼ2台のタクシー同時に着きました。
タクシーを利用される場合、目的地にしっかり印をつけた地図(できれば拡大コピーが良い)と中国語で目的地を書いたメモを見せるやり方これお勧めです。





大連外国語学院、西本願寺が有ったところです。
今回撮った写真は大学名がはっきりしないの前回のを利用。
この学院(日本の大学)は、父が亡くなった時お世話になった神主さんが語学留学していた大学です。神主さんは女性で40歳前半、私の高校の後輩とのこと。





8年前に訪れた時の写真。
ここが、私たちが生まれた病院。
大連外国語学院国際芸術設計学院(大連外国語大学国際芸術設計学部)になっていました。
芸術学部らしく入り口にミロのビーナス像が置かれている。





8年前に訪れた時の写真。
この病院も、当時の番地入の地図を見て確認しておいたので通訳に案内してもらった。そして、中に入り職員に事情を説明して話をきいたところ、やはり、元は病院で、戦後一時軍が使っていたが現在は学校になっている、建物は当時のままということだった。





8年前に訪れた時の写真。
学校の構内を見せてもらった。病室が教室として使われていた。





タクシーを降りて、京劇団、外語学院を案内をしていよいよ病院です。
病院は、大学から中山公園に向かう大きな通りの右側にあった記憶をもとに、大通りを歩いて行ったが見当たらない。思い違いで別の通りだったのかも知れないと行ってみたが雰囲気が違う。

もう一度大通りを歩いてみようと、もとに戻って見ると、それらしき建物を発見。一階部分は店舗になっていて入り口の看板も「大連 金色少年文化芸術培訓学校」となっている。  





皆に「建物に入った正面にらせん状の階段が有ったら間違いない、入ってみよう」と言って入ってみると、有った!!
間違いなかった。

学校の看板を目印に探していたので見付からなかった。




 
8年前と現在、外装がずいぶん変わってしまいました。お店の看板があったり建物の色も変わってます。でも、私たちがお世話になった病院に変わりはありません。
国際芸術設計学部、多分どこかに移転したのでしょうね。





ここで生まれた3人で記念写真、こうして今一緒に病院の前で写真を撮れることに感動です。





新たな出会いと感動のツアー、あっという間に過ぎて帰国です。
もう一度来てみたいと思いつつ機上の人に。

今年は、父の新盆と一周忌、良い土産話ができました。



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大連・旅順・金州・瀋陽の旅ーその4 金州

2012年07月08日 | 旅行(大連・旅順・金州・瀋陽)
出逢い(前回の続き)

バスが瀋陽駅に着くと、ご婦人が地図を持って現地添乗員にいろいろ聞いていた。どうもこの付近に住んでいたような内容の話をされていた。
後に、それを聞いていた姉が、そのご婦人に「ここでお生まれになられたのですか?」と声を掛けてみると「昭和9年に奉天で生まれ駅のすぐ近くに住み、弥生小学校に2年まで通っていた」ということだった。姉も「私は昭和14年に大連で生まれ、幼稚園に通っていた」と自己紹介し、それから会話を交わすようになった。

今回のバスツアーに参加するとき、多分、私たちのように満州で生まれたか、あるいは、両親もしくは親族が満州に住んでいたなど関係があった人が参加されているのではないかと想像をめぐらしていました。

現実にツアーの中に同じ境遇の方がおられて、場所は違えど、同じ満州の地で幼少時を過ごしたという事実が分かると、非常に近親感が湧いてきます。
ご婦人は娘さんと参加されていました。




弥生小学校の地図:奉天会(日本瀋陽会:奉天に在住していた人たちの会)HPより



昨日、現地添乗員に、この辺(瀋陽駅周辺)は夜歩いても大丈夫か?と尋ねていたので、昨夜はお住まいになっていたところに訪ねて行かれたのですか?と尋ねてみたら「住んでいたであろうと思われるところに行ってみた、途中、親切な中国人がいて案内してくれた(?)」ということだった。
良かったですね!来たかいがあったですね!と思わず自分のことのように嬉しくなってしまった。

その後の見学の途中、またご婦人とお話しする機会があって、どんな話の流れで言ったのかは忘れたが「私が生まれたのは1月14日で、ちょうどその時、大連神社でドンドン焼きが行われていて病室から明かりが良く見えたと母が話していた」というと、ご婦人「え! 私も1月14日生まれ」とびっくりされていた。更に、近くに、奉天神社があったという。
ちょうど10歳違いで誕生日が同じ、奇遇です。

その後、ご婦人から一人の男性を紹介された。「こちらは、撫順で生まれた方、誕生日は19年1月30日、このツアーで知り合いました」と。
撫順?知らなかったので男性に聞くと、奉天に近く石炭の露天掘りで有名なところです。と言われた。満州の露天掘りは有名で、教科書に写真が載っていたので記憶していたが、その場所が撫順で奉天に近いところだということまでは知らなかった。

男性は、終戦後の昭和21年までいたそうです。お姉さんにおんぶされて帰国されたそうで、姉には感謝しているということでした。このツアーには、奥さんと参加されていました。

さっそく、満州生まれの3人で記念写真。
(すみません、写真をアップする承諾を得ていなかったのでモザイクを掛けさせていただきました。承諾頂けるのでしたら、モザイクを外させていただきます)

ツアーを終えて空港に着いた時、もっといろいろ話をしたかったので帰国の便を聞いてみると別の航空会社だった。このまま「さよなら」も心残りなので電話番号を聞こうと思ったが失礼になるかなと思いやめた。そこで、ご婦人の娘さんに「インターネットを見る環境はありますか?」と尋ねると、あるということだったので「旅行記をブログにアップするので見てください。『楽しきかな第二の人生』で検索すれば見られます」と告げると楽しみにしているということだった。




さて、話を戻して、4日目(7月3日)は、瀋陽からいったん大連に戻り昼食を食べてから金州観光です。

今回のツアーは天候に恵まれていました。昨日瀋陽に来る時、瀋陽は曇り一時雨の天気予報だったが、着いた時は晴れていましたし、今日は、バスに乗ってしばらくすると大雨の土砂降り。それがしばらく走ると止んだが、瀋陽はそのまま降り続き道路が冠水するほど降ったようです。





金州で最初に訪れたのが金州博物館。金州の歴史などを紹介している。




金州提督府:唐代に建てられた道教の寺で、かつての金州市役所



金州提督府の敷地内に正岡子規の句碑がある。子規は日清戦争の従軍記者として金州、旅順回っている。
その時読まれた句
 「行く春の酒をたまはる陣屋哉」




日露戦争の激戦地:南山
ロシア軍の守る南山要塞を攻撃した奥保鞏の第二軍は困難を極め、要塞を占領するには4387名も戦死者をだした。乃木将軍の長男乃木勝典もここで戦死している。


明日は、いよいよ自由行動の時間を利用して、私たちが住んでいたところと生まれた病院を訪ねます。


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大連・旅順・金州・瀋陽の旅ーその3 瀋陽

2012年07月07日 | 旅行(大連・旅順・金州・瀋陽)
3日目(7月2日)は、大連から瀋陽(旧奉天)へ


今日は瀋陽へ、距離があるので朝食を早めにとりホテルを7時に出発
大連インターに入るまでは渋滞に巻き込まれなかなか進まなかったが、高速に入ると4車線の道路は空いていて快適なドライブに。

この瀋大(瀋陽~大連)高速道路は全長は375kmで、当初2車線で開通したが拡張工事が行われ、現在は4車線になっている。




  
果樹畑                トウモロコシ畑           水田       

車窓からの眺めを良く観察すると、大連周辺での土地利用は果樹畑が卓越していたが、それがトウモロコシ畑に変わり、瀋陽近くになると水田へと変化していた。それも規模が大きく延々と続いていている。





ホテルから大連インターまで交通渋滞に巻き込まれたこともあり、瀋陽市内のレストランにバスが着いたのは、ホテルを出てから約5時間も掛っていた。





今日の昼食は、海鮮餃子が美味しいレストランで「餃子料理」を頂きました。
いろいろな水餃子が食べきれないほど出てきてた。
具はどんなものが入っていたか覚えていないが、とにかく美味しかった。




瀋陽の観光は、移動に半日とられたため世界遺産の瀋陽故宮、旧瀋陽ヤマトホテル、旧奉天駅のみ。

瀋陽故宮
1625年、後金(17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人)の国家で、清の前身)が、遼陽から瀋陽に遷都した際に建設された王宮。初代のヌルハチと、二代目のホンタイジが使用、それ以降は北京の紫禁城に。





瀋陽故宮大政殿
清朝初期の皇帝が重大な式典を執り行った場所、
大政殿前には10の小殿が並んでいる「十王亭」があり、ここは大臣達の執務室であり軍隊の詰め所となっていた。





東京駅に似ている旧奉天駅(瀋陽駅)
黒衣(くろこ)おじさんたちが両親と大連から列車に乗り込み奉天まで来て、ここで列車を乗り換えプサンまで南下したその時の奉天駅です。
前回の大連旅行では、ここに来ていないので初めて奉天駅を目にしました。
感激で胸がいっぱい!!
両親から「奉天・ほうてん」と聞かされていたので、瀋陽というより奉天の方が実感が湧いてきます。






駅前は、工事のため塀で囲まれていて全貌を見ることができなかったので、観光記念写真の台紙に掲載されていた写真を利用させていただいた。

今回のツアーの予定表では、大連から瀋陽への移動は「列車またはバス」となっていた。黒衣おじさんとしては、両親たちと乗った鉄道で奉天に来たかったが、多分、人数が多かったことからバスになったものと思われる。
唯一、今回のツアーで心残りは列車に乗れなかったこと、ですね。
でも、一方で思いがけない出逢いもありました。





にぎわいを見せる瀋陽駅前通り
今回のツアーの中に、この旧奉天駅の近くに住み、やよい(弥生か?)小学校に2年まで通っていたというご婦人がおられることが分かり、少しですがお話をさせていただくことができました。
詳しくは次回、お楽しみに!


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大連・旅順・金州・瀋陽の旅ーその2 大連・旅順

2012年07月06日 | 旅行(大連・旅順・金州・瀋陽)

今回のツアー4泊のうち、3泊したのがボハイ パール ホテル大連(大連渤海明珠大酒店)
大連駅のすぐ隣で、勝利広場の地下街大ショッピングセンターやマイカル大連商場(デパート)が近くにあり、買い物や食事をするのに非常に便利。





朝食は最上階(30階)の展望レストランでバイキング。
料理の品数が多く展望を楽しみながら頂きました。

写真は、展望レストランから見た大連駅です。





外観が上野駅に似ていると言われている大連駅。

私たちは終戦直前に日本に戻ってきましたが、大変な思いで帰国したようです。

小さな子ども3人を連れて両親と父の姪(黒衣(くろこ)おじさんこと私が生まれた時、日本から大連に来てもらっていた)の6人は、大連港から船で日本に帰国するため乗船したが、船の安全を守るため偵察機が飛び立ち海上を確認したところ、黄海にアメリカの潜水艦がうろついているという情報があり、船は出港できなくなってしまった。

そこで、両親は陸路を選び大連駅から列車で奉天(現在の瀋陽)まで遼東半島を北上、列車を乗り換え、今度は朝鮮半島を南下しプサンに出て、そこから船で日本に戻ってきました。

この大連駅は、私たちが奉天に向かうため列車に乗り込んだ駅です。




2日目(7月1日)は、ホテルに近いロシア人街を見てから、旅順に向かい203高地等を観光し、大連市に戻って市内観光です。
 
ロシア人街

当初、大連は小さな漁港だったのを租借権を得たロシアが開発したところで、その当時ロシア人達がこの辺りに住んでいたようです。
今ではすっかり観光地化され、通りの両側にお土産屋が建ち並んでいます。
ロシアのこけしマトリョーシカがたくさん売られている。(写真右は前回に撮ったもの)

ロシア人街には日本橋(現勝利橋)を渡って行きます。
私たちはバスで通ったので、是非この足で橋を渡ってみたいと思いロシア人街を見学した後、日本橋を途中まで渡って記念写真を撮ってきました。





次に目指したのは旅順の203高地。「坂の上の雲」が放映されてから更にい観光客が増えたそうです。
ここは、旅順総攻撃をするために日本にとってどうしても必要な場所で、日本軍がロシア軍と壮絶な戦いを繰り広げた場所で多くの死傷者を出したところです。乃木将軍の息子もここで戦死。
山の標高が203mだったことから203高地と呼ばれた。
山頂の「爾霊山(にれいさん)と記された銃弾の形をした記念碑は、乃木将軍が周辺に散乱していた砲弾などを集め鋳直し、犠牲となった将兵の霊を慰めるために建てたものです。

ここからは、旅順の市街が見渡せるのですが、残念ながら霞がかかっていて今回は見ることができなかった。




 
203高地からバスに乗って旅順市内に入り、川島芳子旧居・旧旅順ヤマトホテルの外観見学。
川島芳子旧居は「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子が5歳から8歳ごろまで暮らした家。
旧旅順ヤマトホテルは川島芳子が結婚式を挙げたホテル。





旅順駅と白玉山
旅順駅はロシアが建てたエキゾチックな駅舎、100年前の姿がほぼそのままで残っている。
白玉山には日露戦争が終結した後、日本海軍大将東郷平八郎と陸軍大将乃木希典によって「表忠塔」が建てられている。(駅舎右上の塔)




その後、旅順博物館や海星公園を見学後大連市内へ

日本統治時代の日本人街
大連には、まだ各地に日本人街が残されています。ここは大連の中心部中山広場に近い中山区の高級日本人街。当時のままの住宅が残っていて現在も使われています。
黒衣(くろこ)おじさんの住んでいた住宅地は光風台にあり最終日に訪ねたので後ほど紹介します。





水深が深く、冬でも凍らない天然の良港として栄えた大連港。
現在は観光フェリーの発着所となっています。





黒衣おじさん達が船に乗って日本に戻ろうとした大連港。
停泊しているフェリーを眺めながら、もし船で戻っていたら潜水艦に撃沈され海のもくずとなり、こうして兄弟姉妹5人がそろってこの港に来ることはなかったのだと思うと、幼子を連れて列車を乗り継ぎ何日も掛ってプサンまで来て日本海を渡り無事に日本に帰国させてくれた両親に感謝の気持ちで一杯になった。




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大連・旅順・金州・瀋陽の旅ーその1 大連

2012年07月05日 | 旅行(大連・旅順・金州・瀋陽)

イタリア旅行記をアップしてから大連のブログを書こうと思っていましたが、今回のツアーで思いがけない出逢いや数々の感動に早く書きたい思いに駆られ大連ツアーを先にしました。
イタリア旅行記を楽しみにされていた皆様(影の声:楽しみにしていた人なんかいないょ~)には、申し訳ございません。


今回、大連・旅順・金州・瀋陽のツアー(6月30日~7月4日の5日間)に、黒衣(くろこ)おじさんこと私と兄姉妹5人と長男の娘の計6人で参加しました。


去年の10月に103歳で父が亡くなった時に、兄弟姉妹5人で大連に行ってみようという話になり今回実現した旅行です。

以前にも、ブログで紹介したように5人の兄弟姉妹のうち、長女、長男と黒衣おじさんは大連で生まれました。
長女は幼稚園に通っていたので若干記憶があるようですが、長男はほとんど記憶なし、黒衣おじさんは全く記憶はありません。

黒衣おじさんは、以前倅が還暦祝いにと言って大連に連れてきてくれたので今度は2回目になりますが、皆は初めて。
それと5人そろっての旅行も初めてなので楽しみです。
成田で落ち合い搭乗手続き済ませ機内に乗り込むと飛行機は一路生まれ故郷・大連へ


成田を飛び立った飛行機は、小松付近から日本海に出て、韓国上空を通過し大連に向かいます。

成田から大連周水子国際空港までの飛行時間約3時間。





機内食を食べたり、ニュースを見てるうちに大連空港に到着





今回のツアーは日本からの添乗員さんはいなくて現地のガイドさんが空港で待っていました。
成田空港の受付で今回のツアーは何名ですか?と聞いたら「14名です」と言われた。
イタリアに行ったときは40名の大人数で大変だったので、今回は「少なくて良かった!」と思っていたら、現地で別便で来たツアー客と合流し結局は42名の大所帯。

さっそくバスに乗り込み大連市内へ。
市内中心部までは、飛行場から約20分位の距離です。





午後は、市内の観光です。
最初に行ったのは緑山展望台。
労働公園の南部に位置し、都心部が一望きる場所ということですが樹木が大きくなって今一の眺望でした。






この写真は、黒衣おじさんが2004.5.29に緑山山頂から撮ったものです。
労働公園の巨大サッカーボール、大連駅周辺のビル群、その背後には大連港が見えます。

現在はもっと多くのビルが立ち並んでいます。大連に限らず今回観光したいずれの都市でも日本のバブル期のようにビルの建設ラッシュでした。





大連の中心部「中山公園」へ
この周辺には日本統治時代の古い建物が残されています。

写真は大連賓館
旧大連ヤマトホテルで南満州鉄道が経営した高級ホテル、現在もホテルとして使われ外国人の宿泊できるようです。





中国銀行(遼寧省分行)は旧横浜正金銀行大連支店




中央が旧大連市役所、現在は中国工商銀行大連市分行として利用されている。
両親が、長女、長男、次男の黒衣(くろこ)おじさんこと私、それぞれの出生届をこの市役所に出しに来たのかと思うと感無量で胸がいっぱいに。





旧大連満鉄本社、現在は大連鉄道責任有限公司として利用されている。




 
中心部を見学後は老虎灘へ
ここは大連周辺のリゾート地と言われているが、こちら側は埋め立て工事が行われていて景観はあまり良くなかった。(写真左)

姉によると「家から電車に乗って海水浴に連れて行ってもらったことを覚えている」という。
当時の地図を見てみると市内から老虎灘方面に路面電車が走っていた。(私たちが住んでいた住宅地は路面電車の走っている道路の近くにあり、海水浴場まで約4km位)
多分、姉はこの海水浴場に連れて行ってもらったものと思われます。
現在この道路は解放路と呼ばれ路面電車は走っていない。

現在の老虎灘は、道路や各種設備の整備が進み国内外から多くの観光客が訪れているようです。
ここは虎の彫刻が有名で全長35.5メートル、高さ6.5メートル、500個以上の花崗岩を用いて造られています。(写真右)






最後は、茶芸店へ。
いろいろなお茶を試飲
一葉茶も気に入ったが、看板おばさんがいつも飲んでいる黒烏龍茶をお土産に。





初日の夕食は付いていないので6人でガイドブックで紹介されている「火日子酒楼」へ
「海鮮と野菜を組み合わせた料理がおいしいと人気で予約をしてから行くように」とガイドブックに書いてあったが、予約しないで行ってみた。
地図を見ながら行ったが、なかなかお店が見つからないので地元の人に地図を示して聞いてみると親切に教えてくれた。
お店は、まだ早い時間だったのか空いていた。良かった!!

注文しようとしたが英語は全然通じない。どうやら、店の一角に料理の見本や写真があって値段も書かれていて、それを見ながら注文するらしい。
そこで黒衣おじさ、倅が買ってくれた「旅の指先会話帳」を取り出し「お勧めの料理は何ですか?」を指差すと、これあれと教えてくれた。だんだん値段の高い料理を紹介するので会話帳の「高い」を指差すと笑っていた。
当然ビールも注文、せっかくなので違う種類のものを飲んでみた。

料理が運ばれてくるが皆お皿山盛りいっぱい、5種類頼んだが食べきれないくらいの量。
注文の時、ご飯はどうかと勧められたが断って正解。

食べ終えて会話帳で「おあいそ」
レシート見てびっくり「安い~」全部で207元 日本円で「一人約520円也」
味も値段も大満足!!!


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