映画と音楽そして旅

主に懐かしい映画や音楽について…
時には新しい映画も…

(映画音楽) 「想い出のスクリーン・ミュージック」(4)

2006-02-18 00:04:56 | 映画音楽
 ①「タラのテーマ」
       (「風と共に去りぬ」マックス・スタイナー・オーケストラ)
上映時間約4時間と言う大作を私は映画で一回、テレビで二回,DVDで一回、合計四回観ました。VTRがあるのでこれからもまだ何回か見るかも判りません。それでも十分理解できたかどうかよく判らないのがこの映画です。
 この映画が公開された1952年はちょうど私が、映画に少しづつ関心を示し始めた頃でした。
 私がこの映画を観たのはもう一年ぐらい後だと思いますが、戦後七~八年目ぐらいで現在に比べるとまだまだ貧しい時代でした。それでもこの映画のスターレット・オハラの生き方と云うものが、戦後の社会に生きた人々にどれほど感動を与えたことでしょうか‥あのタラの大地で彼女が誓った言葉‥それは当時の日本社会にそのまま当てはまる言葉だったのです。
 戦後しばらくの日本はアメリカという大国の支えなくしては、生きていけない哀れな敗戦国でした。自分で戦争を仕掛けて置いて、負けたから助けてくれー‥とはムシのいい話ですが、とにかくアメリカの援助で生きながらえた私達世代には、アメリカと言う国に何か借りがあるような気がしてなりませんでした。
 戦後にどっと入ってきたアメリカ文化の洪水を、殆ど無批判に受け入れていたのも、どうやらこのあたりにも訳がありそうです。
 でも戦後の一時期日本人社会全体が、物質的には比較にならない程貧しかった時代が、今頃になって懐かしく甦ってくるのは何故なんでしょうね。
 ②「恋は美しきもの」(「慕情」フオー・エィセス)
 この歌を聴くともう一度‥ではなく三度でも四度でも行ってみたいです。
 東洋文化とヨーロッパ文化が混然と一体化した、不思議で魅力的な香港へ‥
 あのヴィクトリア・ピークは最高でしたね。昔は百万ドルの夜景と云われた夜景も今も変わらないのでしょうね。そにしてもあの映画が公開された頃の日本人は本来は日本であるはずの、沖縄ですらパスポートが必要だった時代でした。ましてやドル不足の当時は国外旅行なんて想像も出来ませんでした。
 それにしてもヒロインのジェニフアー・ジョーンズはあれから一度も観ていないのだったっけ‥モンティと共演した「終着駅」まだ観てないし‥‥
 ビルのてっぺんにつかえそうな感じでヒヤヒヤしながら、やっとの想いで着陸した狭い空港でしたが、今は新しい空港でそんな心配もないようですね。でも古いものが好きな私は先日に開港した神戸空港や関空よりも、着陸時の夜景が綺麗な古くからある伊丹の方が近いし好きなんですよ。
 東洋と西洋の接点と言えばトルコのイスタンブールですね。旧ローマ帝国とイスラム文化の接点として特異な魅力を持つ都市のようですが、最近は時差に弱くなったので遠慮しときましょう。

 先日からのこの一連の記事は手元にある音楽CDを聴きながら書いたので、以前からのブログの内容と多少重複するかも判りません。
 印象に残っている場面とかはいつまでたっても忘れないものなんですよ。
  

 
  
 
 

(映画音楽) 「想い出のスクリーン・ミュージック」(3)

2006-02-17 00:07:58 | 映画音楽
 「遥かなる山の呼び声」「(「シェーン」ヴィクター・ヤング・オーケストラ)
 この歌も映画も私のブログの初期に取り上げたので、文章が重なるかも判りませんがとにかく印象に残る映画でした。
 西部劇でありながらアクション部分を出来るだけ抑え、友情 家族愛 同志愛など心理描写に重点を置いたところが注目されました。この種の傾向は「真昼の決闘」でも、迫り来るタイム・リミットとの闘いなど心理的なサスペンス効果がありましたが、騎兵隊、先住民、幌馬車などに象徴される旧来型の西部劇が、変化していく過渡期の作品でもあったように思います。
 夕暮れのワイオミングの草原を去っていくシェーンの姿と、ジョーイ少年がラスト・シーンで叫んだ「シェーン カムバック!」の声を思い起こさせるような、この主題曲はV・ヤング最大の傑作だと思います。
 「第三の男」(アントン・カラス)
 あのオーソン・ウエルズの不気味な顔が暗闇から‥お馴染みのジターの響きと共に一瞬現れて‥効果を盛り上げていました。戦後間もないオーストリアの首都ウイーンを舞台に繰り広げられるサスペンス・ストリーです。
 この映画で一番記憶に残るのは‥めったに笑わないアリダ・ヴァリが一瞬笑みを浮かべるところ‥
それからもう云うに及ばないかも判らないけれど‥‥あの並木道のシーンです。あまりにも有名だから、詳しくは書きませんが‥あの並木道とそっくりの風景の場所ががあるのですよ。メタセコイヤの並木道なんですが、ほんとにあのシーンを彷彿とさせるいい風景です。同じ県内なので雪が降らなくなれば、いずれ行ってパチって来ようと思います。
 場所は‥‥そうですね。去年の十月ごろの私のブログ「第三の男」のコメント欄に書いてありますから、ぜひ行って見て下さい。
 主演のジョセフ・コットンはこの映画の外は、ジョーン・フオンティーンと共演した「旅愁」と、マリリン・モンローと共演した「ナイヤガラ」を観ました.いずれもブログで記事にしましたのでまた見て下さい。



 
 

(映画音楽)「想い出のスクリーン・バック・ミユージック」(2)

2006-02-16 06:14:59 | 映画音楽
 久しぶりに原点に戻って来ました。私の手持ちのCDから‥先ずは先日の京都宝塚劇場ラスト・イベントでの、上映作品の一つで永遠の名作より‥
  「太陽がいっぱい」(フイルム・シンフォニック・オーケストラ)
 この映画1960年に公開された映画ですが、凄く寿命の長い映作品ですね。
 さて、この映画のタイトルから何を連想しますか?私なら‥先ず表題から「照るつける太陽」「地中海」「白いヨット」「ハンサムな青年」「南国系の美人」‥と私の好きなラヴ・ストリー用の甘いイメージばかりです。
 でもマイナーな要素もないとサスペンス風の、物語そのものが成立しませんし‥で、心ならずも無理にこじつければ、「打算」「非情」「冷酷」とでもなりますか‥それにしてもあのラストは衝撃でしたね。
 ずい分前にテレビで観てあれからまた‥BSの放送を「留守録画」して‥結局はまだ観ていないんですが、ストリーは判ってるし永久保存版になりそうです。
 あの音楽を聴くと‥‥コトはすべてうまく運んだし、南国の太陽の光を身にいっぱい浴びながら、ゆったりと寛ぐいるところへ電話が‥ちょっぴりと気の毒になりました。私が苦手とするサスペンスでしたが、ストリー構成がシンプルだったので、私みたいなお馬鹿さんでも最後まで観ることが出来ました。
 
「八十日間世界一周」(ヴィクター・ヤング・オーケストラ)
 この映画ほどタイトルや音楽をよく耳にする割合に、内容を知らなかった映画は少ないようです。とにかく知っていることは、つまらないワン・カット撮るために、ハリウッド・スターが総動員?されたとかいう伝説が‥と云う程度でした。
 これも筋書きが単純で私にも理解できそうな映画でしたが、日本で公開された1957年と言えば私の映画熱は早くも下り坂で関心も薄かったようです。
 それで前記のようにそんなに大勢のスターが出ていたのか‥と云えば、シャルル・ボワイエ シャーリー・マックレーン マレーネ・デトーリッヒ フランク・シナトラ等々これやっぱりホントのハナシでした。
 信じられないのは「地上より永遠に」で華やかなミュージカル・スターから、シリアスな俳優に転進したはずのフランク・シナトラが、登場したもののセリフは一言もなし‥と云う有様だったそうで、やっぱり「錨を上げて」の時代が彼にとって最良の時代だったのでしょうか。1950年代後期のハリウッドにおけるミュージカルの、構造変化を象徴するような出来事でした。
 もう一つの驚き‥それはこの映画が1956年度のアカデミー音楽賞を受賞していますが、しかし音楽担当のヴィクター・ヤングは、受賞の四カ月前すでに他界していました。
 しかも‥しかもですよ!「シェーン」「ジャニー・ギター」「エデンの東」など不滅の名曲を生み出した、あのヴィクター・ヤングのオスカー受賞はこれが初めてだったって‥‥彼が手がけた映画音楽は約350本、アカデミー賞にノミネートされること22回‥‥遅すぎた没後のオスカー受賞‥‥そんな馬鹿な!私はこの記事を読んで何故、生前に贈ることが出来なかったのか‥残念に思いました。
 半世紀以上もたった今頃になって、私ごときが文句を言ってもしょうがありませんが‥

 でも私は1956年11月‥‥この偉大なる「映画音楽」の巨匠が他界した年月を、永久に忘れることは出来ないと思います。

   
  
  

血液型バトン

2006-02-15 00:04:08 | 雑記帖
 友人から血液型バトンが回ってきました。
 生まれて今まで血液型は全く気にせずに来たので、スカタンな答えになるかも判りませんが‥よろしく
  1 自分の血液型は何ですか?
     O型でございます。
  2 血液型で合う合わないはあると思いますか?
     RHマイナスとか聞いたことはありますが‥深くは気にしたことがないのです。
  3 自分の血液型は周りからどのように評価されていますか?
     特に尋ねたことも指摘されたこともありません。
  4 自分の血液型で損や得をしたことありますか?
     今のところないようですが‥知らないところで損をしてるかも‥
  5 お友達で多い血液型は何ですか? 
     あまり話したことはありません 
  6 各血液型に持つイメージを教えて下さい?
     判りません
  7 もし生まれ変わったら何型がいいですか?
     今のままがいいです
  8 苦手な血液型は何ですか?
     あまりイメージとか知りません。教えて下さい。
  9 好きな人の血液型は何ですか?。
     家族ですが一応‥家内はA型 娘2人ともA型
 10 気になる人が自分と苦手の血液型だったらどうしますか
     気にしない‥だからって‥どうしょうもありませんしねぇ。 
 11 旅行に4人で行くことになりました。理想の組み合わせと理由について
     どんな組み合わせが良いのか、教えて欲しいくらいです。 
 12 次に廻す5人の方
     興味のある方‥どなたでも結構ですので、よろしければ‥つないで下さい。よろしく‥
 
 

(シネマ雑記帳) (68)「イン・アメリカ ‥三つの小さな願いごと」

2006-02-14 00:15:34 | 映画
 しばらく道草を食っていて久々に「映画」に戻って来ました。
 どちらか云えばラブ・ストリーを観ることが多かった私は、どう云う訳か最近になってヒューマン・ドラマ‥特に子供達を扱った作品を時々見る様になりました。「名もなきアフリカの地で」「ミュージック・イン・ハート」「永遠のアフリカ」などの一連の作品に共通するものは、子供達の無邪気さ 純粋さ、素直さ、順応性 無限の可能性‥これは自分の子供が小さかった頃には、日々の暮らしや仕事に追われていたせいか、全く気付かなかった新鮮な発見でした。
 アイルランドからニューヨークへ来た四人家族、不慮の事故で亡くした長男のことが頭から離れません。両親は生活のために四苦八苦‥クリスティとアリエルの二人の姉妹たちは、「三つの願いごと」を死んだ弟から教えて貰っていましたが、そのうち二つは家族のピンチを助けるために使って仕舞いました。あと残るのは一つだけ‥子供達が最後に祈った願いごととは‥
 新しい生命の誕生‥など、この家族達に「奇跡」と「再生」をプレゼントして、「ETみたいに月の世界へ帰って行った」マテイオに、姉妹達が別れを告げる場面ではジーンとなりました。
 正体の知れない不気味な男‥でも子供達は外見でなく、人間としての本質を見抜く本能的な力を持っているのかな‥と思いました。
 それにあどけない中にもしつかりした気性を秘めた、二人の姉妹の自然な演技が作品を引き立て心温まる作品に仕上げていました。
 知り合いが誰もいない異国の土地で、移民として必死に生きる両親を一生懸命に支え、応援する姉妹達に胸を熱いものが横切りました。
 今は母親業にいそしむ私の二人の娘たちの父親として、この映画に出て来る女の子や親の姿と重ね合わせてみて、子供達の小さい頃に一体何をしてやったのだろうな‥などと今頃になって反省しきりのこの頃なのであります。 
 
 
 

積雪・凍結あり!比叡山止めとこ!

2006-02-13 00:06:07 | 雑記帖
 往年のハイク・コースもドライブウエイが出来てからは、暴走族のメッカに変わり‥取締りの強化で減ったようですが、その頃の名残で今でもあまりスピードが出せないようにセンター・ラインには突起物が埋め込んであるので、ごつごつして凄く走り難いコースになっています。
 そのうちいよいよ「比叡山ドライブウェイ」入り口ゲート、さすがシーズン・オフに料金所に徴収のおっさん一人置いても通行車が少ないので、赤字になると見えて無人ゲートでございます。広場には除雪した雪が集積され、こりゃ大変だと道路標示を見ました。
 「積雪・凍結箇所あり」「スノー・タイヤ又はタイヤ・チェーン携行」とかの表示がありました。タイヤはスタッドレスだから良いとしても、タイヤ・チェーンなんて持ってないよ‥と云う訳で取り止めました。
 夏場は車だらけになるこの料金所あたりも何という寂しさ‥下り坂の途中の眺望台で琵琶湖方面を眺めると、木立の間から遠く鈴鹿連峰が白銀に光り、足元の琵琶湖の水面も今日は静か‥そろそろ寒くなって来たので、ゆっくりと坂を下りました。
 青龍寺はお参り出来ませんでしたが、今日はお許し戴いてまた改めて出直すことにしました。比叡山と云えば夏は山頂遊園地の、「お化け屋敷」が愉しかったですね。今でもあるのなら夏休み頃にでも、「孫サービス」で連れて行ってやろうかな?
 北大津あたりからはショッピングなどでこのあたりを熟知している家内と、運転を交代して琵琶湖畔や瀬田川沿いで早めに帰途につきました。
 
(写真)観光シーズンは「比叡山ドライブウエイ」への連絡道路として、賑わうこの「山中越え」も今は交通量がまばらです。遠くに見える比叡山頂上付近もうっすらと雪化粧のようです。

 


目標は比叡山?(寒そう‥凍りそう‥)

2006-02-12 00:09:44 | 雑記帖
 ‥と云う訳で再びスタート地点の誓願寺へ戻って来ました。実は私はスカラ座のラスト・ショーが観たかったのですが、お寺さんにそういつまでも車を預けておく訳にいかないし、こうなると車が却ってお荷物みたい‥お寺に預けてあった「朱印帳」や「掛軸」とかキーを返して貰い、丁重にお礼を申し上げて「お気をつけて‥またお参りください」との声に見送られてお寺を出ました。
 さて、次の行き先不明のまま、河原町三条→東大路→五条大橋‥と市内をひと廻りしている内に、やっと行き先が決定!家内から「青龍寺」とか云うお寺はんへお参りするとの「ご託宣」がありました。
 大体はこのお寺参りは家内が主導権を持っていて、私はその「指図通り」に道を探したり走ったりで‥まぁナビゲーター兼運転手みたいなものでして‥「青龍寺」とは何か恐ろしそうなネーミングですが、とにかく比叡山延暦寺の近所にあるそうな‥
 この冬のド最中に比叡山へ登る変人っているんかいな?と思いながらも、私の好きな山岳ドライブですので、北白川から山中越えのヘアピン・カーブへ入って行きました。市内から見た比叡山は頂上付近はよく見えるけど、薄い雪化粧みたい‥寒々した感じ‥登れるのかな‥大丈夫かな‥?
 それにしてもこのあたりは若い頃のハイキング・コース‥あの頃はドライブウエイもなかったし、登頂するには京都側はロープウエイ、琵琶湖側はケーブルだけだったし、排気ガスも騒音もなく今よりも空気も澄んで自然も豊かだったし‥
 遠い昔‥水ぬるむ春先の昭和某年某月某日、京都市内某所‥と云っても大抵は三条京阪や四条大宮など、電車のターミナルでしたが‥に集合した我が仲間達は、最初は余裕たっぷりで談笑しながらのウオーキングでした。が坂道が長引くにつれて呼吸は乱れ心臓は高鳴り‥と云う女性たちが続出します。
 こんな時我々男性どもは日頃は敬愛する女性仲間達の、フオローが神聖なる義務であります。女性方が用意してくれた弁当や飲み物は勿論、お脱ぎになった上着やお履き替えになったシューズ類など、すべてのものを運ぶ責任と義務があります。
 ですからおしゃべりしながら、ハイクを楽しんでいるのは女性方ばかり‥男性は云わばヒマラヤ「強力」みたいなものでして‥もの言う元気もなくヤセ我慢を張りながら黙々と荷物運びに懸命でした。でも首尾よく目的地に着いて、琵琶湖の眺望を楽しみつつ、食べる食事の味はそれはもう格別でしたよ。
 ‥などと往時を偲びながら‥ひたすら頂上を目指すのでした。
  
(写真)昨秋はぶらぶらと歩いて渡った、五条大橋もこの日はスイスイでした。
昨年11月26日頃のブログ「古都ぶらぶら散歩」合わせてお読み下さい。
 

(三条通から新京極)「激写!500円DVD]

2006-02-11 07:27:56 | 雑記帖
十字屋の店頭にDVDが並んでいました。お値段は‥500円!「安いっ」と思ったのは私だけではないようで、数人のお客が品定めに余念がありません。
 現在は1週間に2本の割合でDVDかVTRをレンタルていますが、いい映画はやっぱり自前のが欲しいなと思うことがあります。なにか出物があればいいがなと思いながら覗いてみました。☆の印は私がすでにVTRかDVDで持っているものですが、ブログの写真では判り難いのでアップしてみたら‥あるわ、あるわ‥
 ☆「第三の男」「西部戦線異状なし』「疑惑の影」「嵐が丘」「グラウンド・ホテル」「アフリカの女王」☆「陽のあたる場所」「地上最大のショウ」☆『哀愁」☆「カサブランカ」「花嫁の父」☆「真昼の決闘」「キング・コング」☆「汚名」
 外にも多数あり写真には全部写せませんでしたが、私のお気に入りDVDでこの写真に写っていた分だけです。これ、すべて一枚500円ですよ!オールド・フアンなら全部でも買い占めたいと思うほどの名作ぞろいです。

 さっき見ていて一度は立ち去った年配のお二人さんが又戻って来ました。私に「これ安いけど大丈夫ですか?」と尋ねて来られましたので、『十字屋さんの品物やから大丈夫やろ‥と思いますが‥」と云いました。
 私は三枚程のDVDを眺めながら思案してましたが、そのお方は『風と共に去りぬ」が欲しいようです。『ま、捨てても500円ですがな‥」といいながらレジへ向かうと、その方も現物を持って支払いに来られました。
 支払う前にまた私に尋ねられました。『これ私のパソコンで見られますか?」「さぁー 機種によっては対応しないのもありますから‥も一度機種を確認された方が良いのでは‥」と云うと『そうですね‥孫に調べて貰ってからにしますわ‥」と名残惜しそうに商品をラックへ返しに行かれました。『これ、親切?不親切?どちら‥」と、自らに問いかける私でした。
 そうそう‥この日買った3枚のDVDは‥レンタル屋でも、まだ借りずにいた作品です。1枚目は大昔に一度は観た作品ですが、ミュージカル史上に残る永遠の名作なので残しておきたい‥2枚目は1枚目の兄貴分で「ザッツ・エンターテイメント』で観て、やっぱり欲しい‥3枚目はアフリカを舞台にしたヘミングウエイの名作で、気になる女優が二人も出ている‥と云えば、勿論、アレでございます。
このDVDは「いやー まったく映画っていいものですねー」のセリフでお馴染みの、「水野晴郎のDVDで観る世界名作映画」シリーズですから、多分全国各地で発売されていることでしょう。
 さて、久々のロングラン(?)「新京極 河原町界隈散歩」そろそろと車を預けてある「誓願寺」が近づいて来ましたよ。
 それにしても「SY京映」とか「松竹座」はどこへ行った?‥のでしょうかね‥
 ほんまに「昭和は遠くなりにけり‥」でございます。
 
 

(三条通から新京極へ)「十字屋楽器店」

2006-02-10 00:08:59 | 雑記帖
  三条河原町近辺を通ると必ず立ち寄る店「十字屋楽器店」があります。結局見るだけ見て何も買わずに出ることがありますが、ここも若い頃からの想い出の場所なんですよ。
 ここで初めてレコードを買ったのは‥いいえ‥私がでなく、ビンボー少年の私は金満(?)少年の友人をケシかけて買わせたのですよ。雪村いずみ「遥かなる山の呼び声」云うまでもなく、映画「シェーン」の主題歌です。
 それにしても高かったですねぇー350円ですよ‥といってもピンと来ませんが、当時の私達の主食‥「きつねうどん」50円ぐらいの頃の350円ですから、割合と高かったようです。何故か仲間内では食事は「きつね」で‥始末して余った分は映画や音楽喫茶に消えました。
 昔は消費税の前身「物品税」があり、当時は私に限らず日本人全体が貧しい時代でしたから、衣食住の生活必需品は税率が割安で、別になくても生活出来るもの‥レコードやプレイヤー、カメラとかフイルムの類は、税率が高かったので価格も当然高くなります。
 あの頃私は趣味で写真もやっていましたが、フイルムは20枚撮りで250円、プリントは一枚50円、勿論、モノクロです。今なら現像やプリントに出せばカラー・フイルムを、ロハで入れてくれるみたいで昔と大違いです‥
 十字屋は昔からレコードや楽器や楽譜等々、とにかく音楽に関するものなら何でも‥という店でした。あの頃買った本で今でも残っているのが、「シャンソン・タンゴ・アルバム』と云う譜面兼歌詞集です。『原語でも歌える‥」ようにフランス語やスペイン語のカタカナのルビつきと云う親切な本です。
 昭和30年前後の出版で190ページの中には、シャンソンが77曲、アルゼンチン・タンゴが15曲、コンチネンタル・タンゴが13曲、合計105曲が収載されてます・
 それで定価120円『きつね』2杯分ですよ!でも私はそれほど高いと思いませんでしたね。外にはポピュラー・ソングの譜面もあったのですが、人に貸したりして無くなり奇跡的にこれだけが私の手元に残ってます。
 以前にブログで取り上げたコンチネンタル・タンゴ『碧空』‥原題は「Blauer Himmel」も、「ブラウェル・ヒムメル」とドイツ語読みのルビもついていて、それに日本語の歌詞と通常の譜面‥それにギター・コードやハーモニカ用の音符もついています。
 「ラ・メール」「枯葉」「エル・チョクロ」 「さらば草原よ」 「エストレリータ」(小さな星)「ジェラシー」ETC‥シャンソン・アルゼンチン・コンチネンタル・タンゴの名曲がぎっしり‥ 
 こんな譜面を眺めていると(勿論読めませんが‥)シャルル・トレネやアルフレッド・ハウゼなどの、手元のCDを聴いているのとはまた別の感覚で、どんなにボロけようと、シワだらけになろうと、私の大事な宝物として、後生大事に手元の残っている訳です。
 これらの不滅の名曲については、また想い出も多くありますが、いずれまた触れる機会がもあるかも‥と思います。  

 私は店外に展示された商品群を見て、思わず立ち止りました。さて、何を発見したのでしょうか‥ 明日も見て下さい。              

(河原町界隈)「京都朝日会館近辺」

2006-02-09 06:00:53 | 雑記帖
 河原町通もとうとう三条通にまで来ましたが、「朝日会館」はどーなってるんねん‥と少し見に行きました。どーも映画館ってな風でもないみたい‥何かのショップらしい。この映画館で観た映画って‥あまり覚えていないのです。エリザベス・テイラー(だった?)の「花嫁の父」「可愛いい配当」とかポスター(だけ)を観たような気がしますが‥
 反対側になるので通りませんでしたが、河原町通の東側にジャズ喫茶「ベラミ」があったんだけど‥紫煙たなびく薄暗い照明‥けたたましいトランペットの響き‥身体が浮き上がってくるような感じの、アップ・ピートが効いたピアノ演奏‥なにか刺激が欲しくって高ーいコーヒー代を払って生演奏を聴きました。
 しかし体質的にデキシー・ジャズは合わなかったようで、ミラー・スタイルが流行って来るとこれに鞍替えしました。ただし生演奏を聴かせてくれる店はなかった‥と云うよりも知らなかった?‥ので、ティ・ルームでレコード聴くのが関の山でした。
 お茶とミュージックなら‥四条通にあった「トレッカ」でした。コーヒーと軽食で半日ほど「籠って」いましたが、ここは前にも触れた某ラジオ局のリクエスト・マニアの常連のたまり場でもありました。また二階にはホールもありマニアの会の定例会の会場にもなりました。
 ポケットの寂しいときは河原町東側に「志津屋」がありました。「39」と書いた照明看板があってコーヒーが一杯39円でした。これは「サンキュー」に通じ「安くてうまい」と評判でした。
 とにかく、音楽リクエスト用のハガキが5円で、京都市電が片道13円 往復25円、タバコはいくらだったっけ‥とにかく、そんな遠ーい遠ーい昔のお話です。