〈たまには本を)「アンデスの謎」

 ブログの宇治周辺…「鳳凰堂」の記事を作っていて、空中から見たらちょうど「鳳凰」の形に見えるみたい…などと書きました。
 でも…これ「ナスカの地上絵」と似てるな…などと思いながら、引っ張り出してきたのが「アンデスの謎」と云う本でした。
 表紙は勿論、「コンドル」…地上に大きく、長いくちばしと尾を延ばして…悠々と寝そべっている姿は、私の心を惹きつけました。
 空中から見た平等院の「鳳凰」はリアリティから云うと、コンドルには少し負けるかも判りませんが…でも満々と水を湛えた池の中心に、大きな羽を休める鳳凰の姿…我が国は勿論ですが、外国でもこんな遺跡を見ると昔の人たちの想像力や技術と云うものに凄い魅力を感じます。

 南米ペルーの首都リマから450km 離れた砂漠の地上絵…それは1000平方キロにわたり、巨大なコンドルをはじめクモ、サル、イヌなどの絵が、直線や曲線を使って描かれています。
 それは300mぐらいの高さでないと見えないそうで、飛行機などがなかった時代…どうしてこんなに正確に、また何のために絵を書いたのか不思議です。
 天文観測のため…宗教的行事のため……宇宙人が来て残していった…??など、いろいろ想定されていますが、決定的な答えはまだ出ていないようです

 それにしてもこの世の中…不思議なことが多すぎます。
 古代のインカ帝国、アステカ王朝 マヤ文化…それにイースター島など…これらの不思議な遺跡は、探ればさぐるほど奥深い謎に包まれてています。
 もう海外旅行は無理だと思いますが…自分の目で確かめてみたいものですね。


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(たまには本も)芥川龍之介「河童」

 図書館へ行ったら「デカ文学文庫」と云うコーナーが新設されていた。
 文庫と云っても普通の文庫判の倍ぐらいはあって、文字が目茶に大きいのが特徴だ。要するに視力減退者向けに活字がとても「デカイ」のが特徴らしい。
 その中に芥川龍之介の「河童」があったので手にとって見た。
 この小説は当時は訪れる人も疎らだった「上高地」の名を、一躍世間に高めた作品として知られている。
 私も自分のブログで少しばかり触れてみたものの、「名作」と云われる名に怖気づいて読んでいなかったのだが、活字が大きいということで何故か近づき易い雰囲気なので借りて帰った。
 穂高へ登るつもりで梓川の渓流に沿って歩いていた主人公の「私」は、突然河童の世界に入り込んで仕舞う。意識不明になっていた彼は医者の河童「チャック」の治療を受けて回復すると、「特別保護住民」として河童社会に住むことを許される。
 河童の世界では人間の世界と価値観が全く違うので、それに慣れるのに苦労するのだが、とにかく人間社会の常識が全く通用しないのだ。
 例えば河童社会では衣服と云うものを、全く身につけない風習がある。ポケットがないと不便なのでは…と思うが、河童にはカンガルーみたいな袋があるから別に不便を感じないらしい。
 河童社会の最大の特徴は子供が生まれる時に、医者が母親の体内にいる子供に対して、この世に生まれ出るか否かを子供に尋ねるそうだ。つまり子供自身の自己責任で生まれて来るという、合理的な仕組みになっているそうな。
 可笑しいことに河童の国にも戦争があるらしい。「仮想敵国」は「カワウソ」社会で前の戦争では、三十六万九千五百匹の河童が「戦死」したそうだ。「日本カワウソ」はすでに絶滅したと云われるが、それはこの戦争のせいかな…
 まぁいろいろと人間社会との違いが描かれるが、「私」もそろそろとイヤケがさして人間社会へ帰って来るのだが…

 この作品は当時の社会構造や風潮に対する、痛烈な皮肉だったのかも判らないし、ある意味では21世紀の現在でも通用する批判かも判らない。
 人間と河童社会との価値観の違い…それは私達も敗戦と云う歴史に残る大転換の中で、今までの常識が非常識で、世の中の善悪や白黒が見事に逆転した時代を体験したし、この作品の主人公が感じた気持はよく理解出来た。
 不思議なのは作者が小説の中で河童社会での「自殺行為」に触れていることである。小説の中で「死」に向き合いながら、自らの残された僅かな人生をなんと考えていたのだろうか。
 (注 写真は作者(芥川氏)自筆の「河童の図」)                
   芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ 1892~1927)  発行 舵社
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(タマには本も)「家永三郎/古田武彦 法隆寺論争」

 図書館で最近になって珍しい「論争」の本を見かけました。
 「学術論争」と云うものは聞いただけでも、頭が痛くなる私にとっては無縁のもの…のはずでしたが、著者名を見てとても興味をそそられました。
 家永三郎氏と云えばすでに4年前に他界されていますが、歴史学者として高名な方で教科書検定の是非についての裁判等でも知られた方です。
 また一方の古田武彦氏も「親鸞研究」や「邪馬台国」については、独自の論理を展開して古くから有名な方ですが、近年は一般の学者との論争は絶えていたように思われました。
 が、家永氏が在世中に書簡の形で古田氏の説に、疑問を投げかけていられたことが判り、俄然 私のごとき外野席の「野次馬」の興味を引くようになりました。
 
 家永氏が提起していられた裁判は「教科書検定」が、憲法に定める「検閲」にあたり違憲であるという趣旨でした。
 古田氏は1970代から現在に至るまで一貫して、古代日本を支配していたのは「大和朝廷」ではなく「九州王朝」だった…と云う理論を展開していられます。
 この二人の学者の思想の根幹は云うまでもなく「反体制」であり「反権力」であったように思われ、このあたりに共通の認識であったような思いが致します。
 この二人の学者の「法隆寺論争」の要点は
  かの有名な法隆寺金堂本尊の「釈迦三尊像」は、聖徳太子に拘わるものではなく、かっては存在したと古田氏が主張する「九州王朝」のものだ…と古田氏は述べていられます。
 この説に対し先輩の家永三郎氏が考古学的な見地から、反論を加えていられますが家永氏の逝去により、当然のことながら論争は中断しました。
 論争の中身は専門的なものですから勿論、私ごとき無学な者が簡単に理解出来るものではありません。
 しかし「まぼろしの九州王朝」説に代表される、ややロマン味を帯びたあの独特の文体と説得力で、一時期には「古田史学」の「隠れフアン」だった私にとって興味を引く論争のようで、結論が永久にお預けになったことは残念なことでした。                                                                 (発行 新泉社)

  
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(タマには本も)「関西発・登山マップ」

 この本が「読書」に入るのかどうか疑問ですが、一応そういうことにして昨日の記事の続きです。
 関西から北アルプス方面へのルートを 再録しますと…
 名神一ノ宮ICから東海北陸自動車道へ…ひるがの高原SA(休)-高山西
 高山西ーR158-平湯温泉…ここで車を駐車する。
 ここからはバスで上高地へ…大正池バス停で降りる…ここが起点…
  バスは20-30分間隔 所要時間30分 4月下旬ー11月上旬
  
 大体今までは「あずさ2号」はじめ新宿発の列車ばかり想定していたので、どうも現実感が乏しかったのですが、起点を関西に変更することでいくらか身近に感じるようになりました。
 ルートを探索していて気がついたのは、近年道路地図を殆ど見なくなっているため、道路事情に全く無知になっていることです。と云うのはカー・ナビゲーションのせいで、あらかじめルート調べしなくなったからで、図面もかなり古くなったものが車に載ってます。
 で、迂闊なことに「東海北陸自動車道」経由の奥飛騨ルートを、全然知らなかった私は中央高速経由に比べて距離と時間の大幅短縮で、信州をぐっと身近に感じるようになました。
 今まで何故か、名神小牧ー伊那ー岡谷ー松本ー上高地と云う中央高速ルートにばかり、こだわっていた自分がなにか可笑しくなってきました。
 新ルートの発見で今まで射程外だった「乗鞍」「新穂高」あたりが、視界に入り当分はこのマップで遊ばせて貰えそうです。
 でも…念のためカーナビでルート確認したら…家から296km…5時間9分…は少ししんどいのと違うか?との影の声あり…それも確かですね。
 東名高速で浜松ぐらいなら妹がいるので時々行くのですが、それよりもまだ遠い…それにR158などの一般国道もあるし…
 などと下調べしてたらだんだんと本気になって来ました。
 困ったことですね…
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(タマには本も)「京洛名水めぐり…醍醐の水」

 私の住む県は「母なる湖」に近いので水質などについては結構うるさいところです。
 特に排水規制などは企業などは勿論、一般家庭でもお隣の府県に比べて条例により厳しく規制されています。
 ところで京都の近辺を徘徊していて時々「名水」なるものにぶつかります。
 中でも有名なのが先日触れたばかりの「音羽の滝」ですが、私が味わった「名水」で有名な水の一つに「醍醐の水」があります。
 この水は西国三十三箇所第十一番札所「上醍醐寺」に湧き出る霊泉で、かってこのお寺を開いた弘法大師の孫弟子の理源大師が、この水を一口飲んでその美味さに「ああ、醍醐味なるかな…」と嘆賞したといわれる名水です。
 このお寺は標高450mの高い場所にあり、この名水を味わうには九十九折の山道を登らねばなりません。が、首尾よくお寺まで上がってから戴く水の美味しさは一口に表現出来ないほどの味です。
 「醍醐味」と云う言葉の発祥の地とされるだけに、多少は辛くとも一度は味わうだけの価値がある名水かな…と思います。

 駒敏郎著「京洛名水めぐり」には「太閤井戸」「弁慶水」などなにか曰くありげな名水の数々が、五十数箇所にわたって紹介されています。
 中には見落としましたが行ったばかりの鞍馬寺奥の院に、「牛若丸息つぎの水」があるそうな。牛若丸が天狗のお相手のために鞍馬寺から出かけた時に、ここで一服して水を飲み息を継いだと云う伝説の水があるそうです。
 こんな風にいつもは見過ごしているかも判らない、京都の名水を紹介していますが直接味わうことは出来ずとも、読むだけでも楽しい本でした。  
  
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(雑記帳)「追悼…作家吉村昭さん」

 作家吉村昭さんが7月31日に病気のため」逝去されました。
 享年79歳…これからまだまだ活躍して戴けることと、思っていただけに残念なことでした。
 私が吉村さんの作品に初めて接したのは…そう、「空白の戦記」と云う短編集でした。特別にベストセラーになった訳でもでなく目立たない作品でしたが史実を基にして徹底した取材や緻密な考証に、思わず引き込まれていきました。
 これは日露戦争以降…歴史の裏側で、人に知られないないままに空しく埋もれていった、隠された事実に光を当てて描いています。
 
 ベストセラーになった「破獄」…聞いただけでもビビッて仕舞いそうな「網走刑務所」はじめ四箇所の刑務所から四回も脱獄を重ねた受刑者と、看守たちの戦いを描いた作品で当時の刑務所の実情などがよく調べられてありました。
 明治時代に北海道の開拓や道路建設などに、大量の受刑者が従事した事実を描いた「赤い人」と云う作品を読んだことがあります。逃亡を防ぐために又逃げても雪原でもよく目立つように、「赤」の囚人服を着せていたことから名付けられた題名ですが、この方面に大きな関心を持っていられたことがよく判ります。
 外には世界最速の名機の誕生を描いた「零式戦闘機」がよかったです。

 それに私が最も印象的だったのは…あえて申しますと…「海軍乙事件」です。
 太平洋戦争の前後に当時の陸軍大臣(戦後A級戦犯で処刑)名で公布された文書に、戦時下の軍人の心得を示した「戦陣訓」があります。
 この中に「生きて虜囚の辱めを受ける勿れ」と云う語句がありますが、この一句によりどれほどの若い生命が無駄に失われたことでしょうか。
 勿論、海軍軍人は指揮系統が違いますから理論上は、陸軍大臣の布告に拘束されませんが、私たちの解釈はこれは軍人として陸海共通のもの…という認識でした。
 ところで当時の連合艦隊参謀長H中将が、実は南方で敵性ゲリラの「捕虜」になり、機密文書が敵の手に渡ると云う事件がありました。
この時に連合艦隊司令長官の戦死は公表されましたが、この参謀長の捕虜事件を日本軍は体面上必死で隠していたようです。しかし米軍が公表したため結局はバレて世間の冷笑と批判を受ける結果になりました。
 多数の部下を死地に追いやいながら、我が身は戦後も生き延びた訳ですが、この事件の真相を追及した「海軍乙事件」…これは、昭和時代の指導者達の程度を立証する資料として私のオススメです。
 吉村さんの著作がなければこの事件は、おそらく私の目に触れることはなかったのでは…と思いますし、私がノン・フィクション作家としての、吉村昭さんを限りなく尊敬し惜しむ理由でもあります。
 
 謹んでご冥福をお祈り致しますと共に、夫人の津村節子さんも吉村さんの分まで益々頑張って、これからも力作を残して戴くことを期待致します。

   海軍乙事件については ↓
      連合艦隊参謀長  福留繁中将については↓
 
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(たまには本を…)「太平洋物語」

 私が少年時代に愛読した本の中に「太平洋物語」と云うのがありました。表紙は大航海時代に活躍した大型帆船が航行する絵が描かれていました。
 その本にはコロンブス マジェラン コルテス ピサロなど新大陸や新航路の発見者、あるいは古代アステカ王国やインカ帝国の征服者などの冒険が記述されていました。
 「事実は小説よりも奇なり」と云う言葉を聞きますが、その中に描かれていた一つの事実に私は凄く惹きつけられました。
 
 世界でも有数の強大な海軍を持つイギリスで実際に起きた事件
 舞台は花咲き果実溢れる常夏の島 黒髪と小麦色の島娘…タヒチ島 
 訪れる人も船もない地図にもない絶海の孤島…さい果ての島…ビトケアン島
 
 この事件を元にした原作もあったのですが、この本で要約を読んでイギリス海軍を揺るがしたこの大事件に、私はすっかりハマリこんだのです。それは単なる事件や冒険と云うよりも、そこに秘められたロマン性を発見したからでした。
 何度も何度も繰り返して読んだので、筋書きも登場人物もがすっかり身に染み付いて仕舞いました。その本もおそらくオンボロになっていつの間にか、廃棄物として処分されたのか手元にはありません。
 ふとしたきっかけでストリーをどの程度まで覚えているか…少ししんき臭いですが記憶力テストのつもりで、覚えている分だけ書いてみようかな…と思い立ちちましたので我慢してご協力下さいね。
 
 時は18世紀頃のイギリス…一隻の戦艦が本国を後に長期の航海に向かいます。目的は南太平洋の島に植生する「パンの木」の採取のためでした。
 指揮官のブライ艦長は航海技術者としては、優秀な腕を持っていましたが部下に対して規律に厳しく、少しのミスでも非常に過酷な制裁を加えていました。
 本国を離れて数万キロの航海が終わり到着したタヒチ島で、乗員達は島民達の熱烈な歓迎を受けて、今までの苦しい航海の苦労も忘れそうになります。
 ミュージカル映画「南太平洋」はタヒチとハワイを、取り混ぜたような架空の島を舞台にしたそうですので、イメージとしてはあの映画で描かれた南海の楽園の情景を想起して見ましょう。
 やがてタヒチ島での任務を済ませて帰国する日が来ましたが、乗員達はこの島から去ることに気が進まず憂鬱な表情と、後ろ髪を引かれる思いで島を出港します。
 再びブライ艦長の猛烈なしごきが始まり、遂に犠牲者が出るに及んで次席のクリスチャン副長は艦長を拘束して指揮権を手中にします。
 そして停船するとボートに艦長と彼に従がう部下を乗せて、太平洋の真ッ只中へ放逐します。漂流する艦長たちのボートの位置は、一番近いティモール島でも数千キロはあると思われます。
 ブライ艦長たちを乗せて茫洋たる太平洋の真ん中に、取り残され漂流するボートは、果たして陸地に辿り着くのでしょうか…
 
 再びタヒチ島へ戻った副長クリスチャンはじめ、乗員たちも決して安泰ではありません。もし事件が本国に判ると反乱罪で直ちに逮捕そして処刑が待っています。
 部下の中にはすでに島の女性と恋仲になっていた者もいますが、この島に住むのも地獄…島を去るのも地獄…乗員たちは辛い選択を迫られます。
 島に残って恋人の女性と暮らす決意を固めた乗員たち…
 楽園を捨てて漂泊の旅に出たクリスチャン副長とその部下たち…
 いずれの道を選んでも祖国を捨てた反乱者たちに違いないのです。
 果たして彼らに安住の地はあるのでしょうか…

 この本に書かれたコロンブスやキャプテン・クックなどの冒険者の物語とは、一味違った感触で私は彼らの運命に心を痛めながら、ページを追っていたことを昨日のことのように思い浮かべます。       
                      (以下次号)

 どーゆう訳か…ページの下の余白が多く空いてしまいました。
 写真を入れなかったからかな?


 
 引き続いていつもの「清水・鞍馬紀行」の続きを読んで下さい。
 下のページです。


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〔読書室)「日本車なつかし物語」②

 3 トヨペット・クラウン(トヨタ自動車)
 昭和30年代は車の数も自動車教習所も少なかったし、運転を覚えるには路上で無免許練習するのが「当たり前」でした。そこで運転は出来ても免許がないので、近所廻りばかりで遠くへ行けない…勿論、高速道路走る…などは論外でした。
 こんな哀れな中途半端な世代を相手に、自動車教習所があちこちで出来ました。そこで私も教習所へ行こう…と思い立ったのは昭和40年代の初めでした。
 ここで教習に使ったのが「トヨペット・クラウン」で、教習車はこの外に「ニッサン・セドリック」がありましたが、私は「クラウン」と云うネームが好きだったので、ためらうことなくこのクルマを選びました。
 教習第一日…「無免許」経験者ばかりが集められて、とりあえずコースを指導員の指示の通り走ることを命ぜられました。ドアの開閉や乗車姿勢から始まり一回りするまで、指導員はコースの指示以外は黙ったまま、運転動作をじっと見ているだけです。コースを一周のあとから指導員から、多くの問題点を指摘されました。
 それは「安全確認不十分」「信号無視…特に黄信号」「スピード不適当」など「安全にかかわる重大なミス」と云う評価を頂戴することになりました。
 こうして私は「我流運転」を徹底的にしごかれて、結局は全然の未経験者の初心者と比べても、教習速度は殆ど変らず免許取得日も全く同じ…と云う結果になりました。
 尚、私が入所した頃から従来はなかった「路上教習」を、2時間受けることが義務付けられました。と云っても交通の頻繁でない道路を走ってみるだけで、実地試験はすべて教習所内のコースでした。
 ですから当時は免許を貰っても実際に知らない道を走って、コースでは判らなかったいろいろの場面に遭遇して、恐い思いをしたことが多々あったようです。
 
 ちなみに昭和30年代当時のトヨペット・クラウンは、最高速度はたったの100km/時だったそうですが、なんとものんびりした時代だったのですね。勿論、今と違って100km/時で走れる道路などは、高速道路が出来るまでは幹線国道の外は、あまり多くはなかったからでしょうか。 
 
 4 スズキ・ジムニー・360(スズキ自動車 写真)
 このクルマは私のでなく近所の人の持ち物です.このクルマ登場したのは昭和40年代中期ごろのことですが、それは高度成長の途中で我が国にも、空前のモーター・リゼーションが訪れて、私もローンなどで無理をしてなんとかマイ・カー族になった時期にあたります。
 その頃では珍しい四輪駆動車でしたが、ジープ・タイプの車種としては360ccの軽自動車では最初のタイプだそうです。この40年ほども昔の車がまだちゃんと、現役で働いていますが、運転しているのがなんと…七十数歳のおばちゃん…それがまた美人で…なんですから尚更驚きです。
 軽自動車も初期の360CCクラスは殆ど姿を消した現在、希少価値のある珍しいタイプの車になりつつあるようですが、近所に停めてあるのをパチリました。
 走行距離は?何故か「丸秘」だそうでした。


 
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(読書室)「日本車なつかし物語」 ①

 久しぶりに図書館へ行ったので、表記の本を借りてきました。
 別にカー・キチではありませんが、戦後の復興期や高度成長期に活躍した懐かしい車の姿が収録されていて、楽しい内容だったので読んで見ました。
 その中で今までの人生に多少なりともかかわりのあった、車種のいくつかについて記してみたく思います。
 
 1 オート三輪(ダイハツ工業)
 私達の青春時代に最も身近な存在だったのがオート三輪車です。初期のオート三輪は云わばオートバイとリヤカーを足したようなもので、運転手は銀杏の葉っぱみたいなサドルに跨って運転しました。
 私が始めて運転したのもオート三輪でしたが、オートバイと同じ形のハンドルでその頃の道路は砂利道も多かったので、凸凹のひどい道では難儀しました。
 勿論、その頃の私は無免許…本職の運転手の目を盗んでは、こっそりと…こうして覚えた自己流運転のお蔭で、後で教習所で苦労することになるのですが…。
 昭和20-30年代はオート三輪の黄金時代でした。当初のオモチャみたいな車体やエンジンが最終的には、水冷4気筒 2,000cc前後にまで成長したのですから凄いものでしたが、どうもこのあたりが限界だったようですね。
 当時は凄いロング・ボディの三輪トラックを見かけたものですが、この種のクルマには長さ制限がなかったから…と、この本で初めて知りました。
 三輪トラックこそ戦後の復興を支えた立役者だったのでは…と私は思います。

 2 トヨエース(トヨタ自動車)
 今は世界のトップ・メーカーのトヨタも、昭和30年代頃はまだトラックが主力でした。その中でもエンジン部分が短くて、その分余計に荷物が積載出来て、スリムな車体で価格もお手頃と云う「トヨエース」が人気車種になりました。
 相変わらず無免許でこっそりとクルマに乗っていた私が、初めて乗った四輪トラックもこの「トヨエース」でした。
 それは三輪トラック自体が、徐々に姿を消しつつあった時期ですが、それはこの「トヨエース」のバカ売れと関係があるようだ…とこの本は述べています。
 四輪と三輪の違い…それは安定性が良かったのが長所ですが、それでもハンドルの切れが良くて狭い場所でも簡単に方向転換出来る、オート三輪の方が私には運転し易かったようです。
 昭和30年代末期から40年代にかけて、我が国の高速道路網が整備され始めて来ました。こうなると一度あの「名神高速道路」を走って見たい…でも私は依然として無免許でした。 
 勿論、バイク免許は持っていましたが、これではムリ…普通免許が要る…これが二十代末期の私の大きい宿題になりました。
 二十代中期に一度だけ自動車試験場の実技コースで、オート三輪の「下見」したことがありましたが、なんとか脱輪せずに走れても法規通りに…と云うとまぁ100%ムリだろう…と云うことで、相変わらず無免許で三十代を迎えることになって仕舞いました。
 そして世はまさにモーター・リゼーションの時代を迎えつつありました。マイ・カー時代の夜明けです。そしてこの頃は必要に迫られての、中高年者の免許挑戦がブームになりつつありました。
 また高速道路、新幹線、東京オリンピック…などに象徴される高度成長期への入り口がそこにありました。時代の変化の慌しさに戸惑いながらも必死になって、ついて行こうとしていた時代が懐かしく思い出されます。                  (続く)
 

 

 
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(読書室)「風立ちぬ」 「信濃路 大和路」「宵待草」

 長旅はやっと終わりましたが、このブログを作りながらふと、古い昔に読んだ本を思い出すことが多くありました。
 今まで再三触れた宇野浩二の「山恋ひ」を始め、久米正雄「月よりの使者」そして井上靖「氷壁」は最も印象に残った作品でした。
 二十二、三歳の頃…何を思ったか、今まであれほど熱を上げていた、映画や音楽のことを全く忘れて仕舞ったように急に本を読み始めました。それは多分、その頃つきあっていた友達の影響をモロに受けたからでしょう。

 その頃に読んだ本の中に堀辰雄の小説「風立ちぬ」がありました。この作品では八ヶ岳山麓が舞台になっていましたが、実際のモデルになったのはこのブログでも触れた富士見高原であったことが、作者の年譜を見れば容易に推察されます。
 堀辰雄は夏の軽井沢で知り合った少女と婚約しますが、彼女は病のために彼は富士見高原で、彼女といっしょに暮らす日々を送ります。
 名作「風立ちぬ」はこの時の体験を綴った、彼の三十四歳の時の作品でした。と云う訳でこの作品を数十年ぶりに、読み返したくなって図書館で借りて来ました。
 
    風立ちぬ いざ生きめやも
 軽井沢の夏の日…薄(すすき)の生い茂った草原で、熱心に絵筆を動かす少女…それを白樺の木陰に身を横たえながら見守る「私」…
 信州の夏は短くて…あたりにはもう初秋の気配が漂っているようでした。
 この風景はあの頃の私を「堀辰雄の世界」へ惹きこむには十分でした。
 
 <私達はあたかも蜜月の旅へでも出かけるように>高原に向かう汽車に乗り込みます。
 <汽車が何度となく山を攀じのぼったり、深い渓谷に沿って走ったり、またそれから急に打ち展けて葡萄畑の多い台地を長いことかかって横切ったり…>しながら<物置小屋>みたいな小さい駅に止まります。(注)< >の部分は引用です。
 これが当時の富士見駅だったのでしょうか…勿論、小説ですから多少の違いはあると思いますが、甲州から信州への旅を彼はこんな風に記していました。
 富士見での単調な生活…ともすれば滅入りそうな二人の気持ち…
 でも二人で一緒に「生きる」ことに、今まで気付かなかった小さな喜び…ささやかな幸せそしてかすかな希望を感じます。
 
 夏から初秋へ…そして冬へ…と日毎にうつろっていく、信州の美しい自然が優しく鮮やかに描写されていました。
 薄暗い影を落として暮れていくはるか遠くの山々を眺めながら、<後になってこの高原の美しい夕暮れを、きっと思い出すだろうね>と彼は云います。
 そんな思いはやがて儚く消えていくのですが…
 こんなに「純粋」で「無償」の「愛」のかたちもあったんだね…当時二十代前期…しかもまだ夢ばかり追っていた…独身だった私にとって、理想的な愛の表現として深い感動を味わったように思います。

    待てど暮らせどこぬ人を
    宵待ち草のやるせなさ
 「宵待草」で知られる画家の竹久夢二も、ここで晩年を送りましたが、文学者や芸術家などとかかわりの多かった、富士見高原は信州と云えば決して忘れてはならない土地です。

 山本茂実「野麦峠」…これはかなり後年になって読んだ本ですが、実は娘が借りて来た本を読んで見た…と云う程度で、当時は深く気に留めていませんでした。
 しかし諏訪と云えば深いかかわりのあるこの「野麦峠」について、原作にもう一度接する時間がなかったので概略に止めました。
 説明不足の箇所ははコメントなどの形で貴重なご意見を頂いて、補足して下さった皆様に心より感謝申し上げます。
  
 余談になりますが同時に借りた堀辰雄の「美しい村」「大和路 信濃路」は信州や大和路の風物や自然が人々との交流などが描かれています。
 奈良西ノ京あたりはまだ田園風の落ち着きを残していて、私も好きな場所ですがこの作品にも触れられている、「唐招提寺」は先月にお参りしたばかりでした。
 「大和路…」の中の「浄瑠璃寺の春」…このお寺は正確には南山城なんですが…作者は奈良坂から歩いて2時間もかかった…そうですが、それにしてもなかなかの健脚…と改めて感服しました。
 このお寺は連休の「大和路」のブログに触れたように、夕暮れで「閉門」のためお参り出来なかったお寺です。
 我が家から車で30分程ですので、いずれ改めてもう一度…と思います。

 
 
 

 

 
 
 
 
 
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