映画と音楽そして旅

主に懐かしい映画や音楽について…
時には新しい映画も…

(CD雑記帳)シャンソン「ばら色の桜の木と白い林檎の木」

2006-10-09 05:22:21 | 音楽
 私の手元のシャンソン譜面集に「ばら色の桜と白い林檎の花」と云う、長ったrらしい題名の曲が掲載されています。(原題Cerisier Rose Et Pommier Blanc)
 このシャンソンが昨日にブログで触れたマンボ「セレソ・ローサ」の元歌であることはよく知られていて、私の手元のアルバムでは、イヴェット・ジローが歌っています。
 トランペットの響きも華やかなマンボに比べて、同じメロディでもジローの歌の方も軽やかで明るい感じの歌で、このあたりはやはり共通したものを感じます。
 譜面集にはフランス語の原歌詞が、ご親切にもルビつきで掲載されています。
 勿論、フランス語の意味は判りませんが、日本語の歌詞がとても綺麗な言葉で綴られていますので紹介したくなりました。
「セレサ・ローサ」のメロディをご記憶の方…一度歌って見ませんか…
  さくらんぼの花咲き 真白きりんごも 
  咲き匂うその下で 初めて 
  愛しの君を知りて 我が胸は燃えぬ 
  思い出も懐かしき 春の日

  優しい瞳は 我を見つめて
  そよ風甘く 私を誘う… (下略〕 作詞 大原良一
 「スミレのはーな…」みたいな宝塚ソングのような感じですが…私も久しぶりに一度歌ってみましたが、幸いにして歌詞もメロディもばっちり合いましたよ。
 
 マンボ・ブームがその後どうなったか…音楽の世界から遠ざかっていたので、よく知りませんが、昭和30年代初期にはシャンソンブームが起きたようです。
 昭和27年にダミアが来日、丸山〔現三輪)明宏が「銀巴里」専属シャンソン歌手としてデビューするなど…昭和20年代末期から下地はすでにありました。
 それが昭和30年にNHK-TV「シャンソン・アルバム」の放映が始まり、出演者の豪華さにブームが一挙に高まったようです。
 出演者は淡谷のり子、高英男、深緑夏代、芦野宏 大谷冽子、砂原美智子などシャンソンやオペラ界の一流アーティストでした。
 ニッポン放送も「巴里の街角」を放送開始するなど、この世界は空前の活況を見せていましたが、ロック世代とは層が少し違っていたのか、熱狂的なものではなく深く静かに…と云う感じだったように思います。
 またこの年にはイヴェット・ジローが初来日、その後イブ・モンタンやジャクリーヌ・フランソワなど有名歌手の来日が続きました。

 なだずい分先のことですが…12月29日は「シャンソンの日」です。
 三輪明宏、岸洋子、などがここから巣立ち、その後も多くのシャンソン歌手を世に送り出して、文化の発祥地でもあった銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」が平成2年のこの日に閉店しました。
 シャンソンに少しでも関心がある人にはよく知られ、シャンソンのの普及と日仏友好に尽くして40年…惜しまれながらのフィナーレだったそうです。
 私も元来はフランス映画やシャンソンは好きでしたが、この頃はすでに外野席…で見物していました。
 もうのめりこみませんでしたが、それでもシャンソンの「ばら色の桜の木と白い林檎の木」も、マンボの「セレサ・ローサ」両方ともに、いくら年を取っても、アタマの片隅に残って消えることはありません。
 同じ思いの人は大勢いられるのでは…と思います。
 

 
 




(CD雑記帳)「久しぶりです…ローズマリー・クルーニー」

2006-10-07 00:02:45 | 音楽
 ローズマリー・クルーニーはどちらか云えば目立たない存在でしたが、それでも彼女が歌う「虹を越えて」は私にとって、帰り来ぬ青春の想い出いっぱいの歌でした。
 そのワケは以前にブログで書いたことがありますので、また別ページを読んで戴くとして…長い間彼女のCDを聴いていないので、今夜は久しぶりに聴いて見ました。

 私の手持ちのCDは彼女の曲は3曲だけ…勿論、私の若い頃の歌で一応は私のPCにも記憶させてあります。
 「家へおいでよ」「ハーフ・アズ・マッチ」「マンボ・イタリアーノ」の3曲ですが、この中で「Come On A My House」は江利チエミの歌で、日本でも大ヒットしましたので、よく知られている楽しい歌でした。
 「Half As Much」はおとなしいバラード風でしたので、彼女の歌ではこの歌が私の一番のお好みだったようです。
 「Manbo Italiano」は最初の部分…[A girl went back to Napoli…」のところは凄くいい感じなんだけど…次の「Ey Mambo!Mambo Italiano Ey Mambo!」と少し元気が良すぎて私には少し馴染めないようです。でも、この歌は「家へおいでよ」と同じくらいヒットしたので、耳にすると懐かしい感じがします。
 
 彼女の歌では私にとってのラスト・ソングは…確か「ブレーブ・マン」と云うのがあったはずなんですが、それが不思議なことに全然見付からないのです。
 「勇ましい人」「勇者」とでも言うのでしょうか、メロディも覚えているのに不思議なことです。日本語盤は覚えがないので多分出ていないのかも…いずれにしても私の頭の中では生きているのに現実では夢幻と消えたメイ曲(?)でした。
 西部を舞台とした歌でしたが映画はあったのかな…少し記憶がありません。
 ドリス・ディの「シークレット・ラヴ」みたいな、しっとりとしたラブソングだったと思いますが、影も形も形跡すら見付かりませんでした。五十数年と云う歳月はこのメイ曲を春の淡雪のように消し去って仕舞ったのですね。残念っ!
 もし、半世紀前の忘れ物!この曲が見付かったらお知らせ下さい!

 彼女についてはこんな風に謎の部分も多くて探索して見ました。
 「Deep in my hart]…不思議なことに、タイトルだけは今でも覚えている映画で、「我が心に君深く」と云う映画がありました。その映画にも彼女は出ていて主題曲の「朝日のごとくさわやかに」と云う歌を歌っていて、その曲は調べて見ると今でもCDが発売されていました。この曲も一度聴いてみたいです。
 
 あれれ…と云う記事もありました。それは1954年の映画で「ホワイト・クリスマス」に彼女が出ていてビング・クロスビーとデュエットした…と書いた記事があったのです。
 この映画はパラマウント社が20世紀FOX社の「シネマスコープ」に対抗して新開発した「ヴィスタヴィジョン」と云う大型スクリーンによる、新方式だったと思うのですがこの作品はリアルで見ているのです。
 が、出た人で覚えているのは、ビング・クロスビー、ダニー・ケィ、ヴェラ・エレン!それにうーんともう思い出せません。
 果たして彼女がこの映画に出てたのか、どうか…思い出せない…どなたかご存知の方ご教示下さい。

 もう一つ…私が知らなかった記事がありました。
 先の書いた「我が心に君深く」で共演したホセ・ファラーと、54年に結婚していたそうでした。67年に離婚するまで大勢の子供に恵まれたそうです。
 ホセ・ファラーと云えば私が初期にブログで書いた、あのムーラン・ルージュをこよなく愛したと云う画家ロートレックを描いたイギリス映画「赤い風車」に出ていたスターでした。
 一時引退を決意した途端に気の緩みか凄く……になって仕舞い、あとでB・クロスビーの説得で再びカム・バックするまで、苦労もあったようですが見事に復帰して晩年まで頑張っていられたようです。
 彼女は我が輝ける50年代の頃のスターでしたが、2002年に他界されたことは残念なことだと思います。



(CD雑記帳)「大歌手ジョー・スタッフォード」

2006-09-28 00:04:06 | 音楽
 昨夜はジョー・スタッフォードに関する記事を探しまくったら、中には「子供」の頃からS盤アワーやL盤アワーなど音楽番組を聴いていた方の記事がありました。
 「ジョー・スタッフォードの『On London Bridge…霧のロンドン・ブリッジ』が特にお気に入りで、ハリのある洗練された彼女の歌声に、子供心がなぜかときめいて彼女とこのの歌は「他の曲とは違った魅力とインパクト」があって、今でも忘れられない一曲だった…と記されていました。
 その後は彼女の歌を耳にするたびに「懐かしさと愛おしさを感じて」CD時代になってからは、39年~44年の初期の曲を買いまくったそうです。
 私がパティ・ペィジの歌声に出会った時みたいで、なにかもう一人の私の分身を発見したような、不思議な気分になりました。
 
「霧のロンドン・ブリッジ」…これなら私も知っているよ…メロディも少しは覚えてるし、CDもあるし私のPCも覚えているはず…と早速と検索…勿論、ちゃんとありました。
 これは確か日本語盤もあったはず…誰が歌っていたかは思い出せませんが…ひょっとしたらチエミちゃんかもかも判らない…
 新しく発見したジョーの曲は「霧の…」の外に「今夜教えて…Teach Me Tonight」という曲でしたが、これもしっとりしたバラード風の歌でした。
 こりゃー…彼女は私が思ったより大物かな?と、そんな思いが頭を掠めました。
 
 ところで彼女のCDって今時売ってあるのかな…と調べて見たら…なんと数種類も出ていました。

 パティ・ペイジと並び称される40-50'sの歌姫、ジョーの決定盤!
 でも全20曲中、私の知っている曲と云えば…
1. You Belong To Me
2. Tennessee Waltz
7. Jambalaya
15. Stardust
17. Autumn Leaves
ぐらい…これじゃ買うのは少し勿体ないし… それにアーティストは違うけど全部CDはあるし…と云う訳です。
 
 彼女のプロフイルも紹介されていました。
 1920年カリフォルニア州生まれ、幼い頃から三姉妹コーラス、スタッフォード・シスターズで活躍。その後トミー・ドーシー楽団の専属となり、リード・シンガーを務めました。
 ジョーの人気は次第に高まりソロ歌手としてデビュー…戦中、戦後を通じて数々のヒット曲を放ち、ドリス・デイ、パティ・ペイジ、ダイナ・ショア等とともに40-50年代を代表する歌姫としてその名を高めた…そうです。
 五十数年間…知らぬは私だけ…と云う大物歌手でした。
 
 別の「ジャズ・ヴォーカルアルバム」には
「哀愁をたたえたジョーのヴォーカルはお洒落で心地よい。
 『YOU’D BE SO NICE TO COME HOME TO(帰ってくれたらうれしいわ)』
はジョーのベルベットヴォイスは聞く人をやさしく包み込み、慰めてくれます…」
と紹介されていました。
 この曲なら、ダイナ・ショアのCDがあるし私も時々聴いているよ…
でもダイナの持ち歌をジョーが歌ったら?どないなるか?聴いてみたいな…
 いや、待てよ…この歌は一体誰の持ち歌…ひよっとしたらダイナが、ジョーの持ち歌を…??ま、どっちでもいいじゃないか?…と、我が心は乱れるのでした。
 全く同年代の歌手と判ったら、不思議なことに急に親しみを感じるようになりました。
 
 それにしても彼女は凄い大物アーティストでしたが、今夜から我が家のファミリーに仲間入りして貰うことになりました。
 も一人気になるのが…ローズマリー・クルーニーで、若い頃はよく聴いたのに最近はお付き合いが少ないし、彼女はどうしてるのかな??いずれまた…と思います。
 こんな訳でどっちでもいい事に急に忙しくなりました。

   


 「追悼 高木東六氏」

2006-09-24 00:06:30 | 音楽
 こんな歌聴いたことありますか…
     藍より蒼き大空に 大空に 忽ち開く百千の
     真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
     見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く
             作詞 梅木三郎  作曲 高木東六 
 私たちが国民学校…今の小学校へ入った頃の歌です。
 戦争は始まったばかりでしたがその頃に、国民の戦意高揚のために作られた「戦時歌謡」の「空の神兵」です。
 昭和17年1月 セレベス島へ落下傘部隊降下
       2月 スマトラ島パレンバン飛行場に降下     
       3月 オランダ軍全面降伏、
           油田と製油場の確保に成功
 今では「空挺部隊」と云うらしいですが、こんなに景気の良い大戦果を称えた歌でしたが、歌の目的や内容はともかくとして、メロディは戦時中の歌らしからぬとても綺麗な曲でした。
 戦後は二葉あき子の歌で「水色のワルツ」をヒットさせるなど、昭和の歌謡史に大きい足跡を残した人です、
 この高木東六さんが亡くなられたのは8月25日のこと…享年102歳でした。
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 高木さんに限らず私たちが幼少期に聞いた歌には、その歌の正邪善悪は別としてなにか忘れられない愛着があります。
 今でも国旗掲揚の是非がどうのとか、いろいろ意見があるようですが私は「戦時歌謡」なら、「日の丸行進曲」と云う歌に深い思い入れを感じます。
    母の背中で小さいで  振ったあの日の日の丸の
    遠いほのかな思い出が  胸に燃え立つ愛国の
    血潮の中にまだ残る
 戦場へ赴く兵隊さんを送るために振った旗…「シンガポール陥落」「マニラ占領」などの祝賀行列…その度に無心な気持で打ち振った日の丸の旗…今から考えると馬鹿みたい…なことも、私たち世代には胸にキュンと来るものがあるのです。

 この歌に出てくる「愛国」と云う言葉から受けるイメージが年代によって、こうも違うのだな…と云うことを感じたことがあります。
 それは私が中年の頃に今まで全く知られていなかった、北海道の国鉄ローカル線の切符が1,300万枚も売れたのです。それは大赤字で廃線寸前と云う当時の国鉄「広尾線」の「愛国駅」から「幸福駅」までの切符でした。
 当時の中高年には軍国主義的なイメージしか浮かんで来なかった「愛国」と云う言葉も、若い世代には「愛国」は「愛の国」であり、この駅から「幸福」駅にへ…ほんとに「倖せいっぱい…愛の終着駅」と云う風に感じられたようです。
 勿論、実在した駅ですが丁度その頃に北海道へ行った私は、その頃はまだ子供だった娘の将来の為にこの区間の切符で作られたキーホルダーを買って帰った筈でしたが、どこへ仕舞い忘れたか…長年のうちに行方不明になって、肝心の娘の結婚には全然間に合いませんでした。
 そして国鉄「広尾線」も健闘空しくブームが去ってから、廃線になったそうで中年時代の思い出が一つ減りました。
 
 「愛国」と云う言葉から変な方向に脱線してしまいましたが、古い「歌」や「言葉」からいろいろの思いが去来するものなんですね。


 
 



(今日のCD) 「秋桜(こすもす)&ケ・セラ・セラ」

2006-09-22 00:02:36 | 音楽
 陽射しも真夏に比べるとやや柔らかくなって、高い青空と赤いコスモスの花が目に沁みます。
   こんな小春日和の穏やかな日は
   もう少しあなたの
   子供でいさせてください
 明日…嫁ぎ行く女の子の心情をしみじみと歌いあげた、さだまさしの懐かしい歌の一節が脳裏を掠めました。
 、そういえば我が家の娘たちが結婚して早くも十年の歳月が流れましたが、二人の娘たちはどんな気持で嫁いで行ったのかな…などと、今まで全然考えたこともなかったことが俄かに気になって来ました。

 人生すべて「ケ・セラ・セラ」と我が尊敬するドリス・デイ大先輩の教えに従って、今まで過ごしてきた我が人生…大きな悔いもないしそれなりに納得しているのですが、少しばかり暇が出来ると…つまらないことばかり考えるものなんですね。
 
 合わせて三人の孫たちは年長児でもまだ小学生…年少児はまだやっと今年から保育園…男の子ばかりですが、順調に成長して逞しくなって行くのは心強いことであります。
 外孫とは云え将来は誰かを我が家の「世継ぎ」に…と云うのは、我が家を出て他家へ嫁いだ娘達との暗黙の了解でした。
 
 でも、こればかりは神様かコウノトリ任せでしたが、幸運にも…だから安心してればいいようなものですが、大人だけの身勝手な約束を何も知らずに、無心に遊んでいる孫たちを見ているとやっぱり少しは心配になります。
 
 「お世継ぎ有力候補?」の第三の男の子…いや「第三の孫」は私が孫達を我が家へ、誘引するために用意した「目玉」の「模型機関車&電車」が大変なお気に入りで、来るたびに部屋一杯に線路や列車をぶっちゃけまくってて帰ります。
 作戦は見事に大当たり…ですから後始末は勿論、私のお役目ですが…なんと云っても「孫に嫌われちゃーお終いよ」ですので…と云って「大甘」もどうかな?…まぁいいか…のびのびと育ってくれればそれでええやないか…などと悩み多きこの頃であります。
 無責任な言い草ですが…
 「ケ・セラセラ なるようになるさ 先のことなど判らない…♪」
と云う数十年も昔のドリスお姉さんの教えをよく守って、これから先もなるべくお気楽ムードで生きて行くしかしょうがないようです。


 
  
 

 (今日はなつメロ) 「恋の曼珠紗華」(ニ葉あき子)

2006-09-20 00:08:58 | 音楽
彼岸が近づいて来ると云いあわせたように、あちこちで彼岸花の真っ赤な花が見られるようになりました。
 彼岸花…またの名は「曼珠紗華」(まんじゅしゃげ)で知られていますが、この花を見ると敗戦後しばらく流行ったこんな歌を思い出します。
  思いかなわぬ夢ならば 
  何故に咲いたぞ 乙女の胸に
  あの日から人知れず咲いた花 
  ああ切なきは 女の恋の曼珠紗華
 戦時中は学徒動員で「挺身隊」で勤めていた二人の姉は、敗戦に伴い飛行機製造の全面禁止で…と云っても、会社は空襲で全焼して仕事は全くなかったようですが、とにかく改めて「お役御免」となって敗戦の混乱の巷に放り出されました。
 元の学校へ戻ろうにも学校も戦災に遭い勉強どころでなくなり、結局は二人共ろくに勉強しないまま卒業証書だけはなんとか貰ったそうです。
 年長の姉は今で云うOLで普通の会社へ勤め始めましたが、次の姉は何を思ったか…洋服仕立て屋に弟子入りしました。
 戦時中は軍服や国民服にもんぺ姿が定番でしたが、戦後は何を着ようと自由なり…と、云っても衣料品も切符制の時代でしたから、お客がなくて大困り…と思いきや、親方の腕が良かったのか進駐軍の制服の仕立てが舞いこんで来ました。米軍では将校クラスは自前で制服を作るみたいでした。布地は米軍持ち込みでしたが大抵は余ったりしてそれが余得で、結構利益になったようです
 焼け野原の大阪で頑張っていた姉達が、息抜きにたまに田舎へ帰ることがありました。帰って来ると必ずその時に流行っている歌謡曲を、紙片に書き付けて帰りましたので私はそれを見ながら懸命に覚えました。
 私が今でも覚えているのは冒頭に書いた一番の歌詞だけですが、二番以下も頑張って覚えたような気もしますが、どの程度意味が判っていたのか…これは疑問です。
  (二)君を見る日の苦しさは 
     燃える心の砂漠の果てに 
     誰を待つ いじらしの紅の花
     ああ、切なきは女の恋の曼珠紗華
  (三〉思い諦め いく度か
     摘んで捨てても また咲く花よ
     君故に 狂おしく泣きぬれて
     ああ、切なきは女の恋の曼珠紗華
       (西条八十 作詞  古賀政男 作曲)
 私は長い間二番以下の歌詞を見てませんでしたので、一番の歌詞ではなにか純愛的なイメージを持ってきましたが、二番から三番に移るに従って歌詞の内容が凄く強烈で、情熱的になって行くのに今頃気付きました。
 古典的な表現でいて何かじっとしていられないような…秘められた情念が伝わって来るようなでした。

 彼岸花の特徴…それは花と葉が同時に存在することは、絶対にあり得ない…と云う点です。
 早春の訪れと共に葉が伸びてきますが、その鮮やかな緑も初夏が訪れる頃にはいつの間にか姿を消します。
 初秋の訪れと共に咲き乱れていた彼岸花も、中秋になるといつの間にかひっそりと消えていきます。
 花盛りの頃のその姿があまりにも華やかなだっただけに、なにか一抹の寂しさを感じます。
 この花の花言葉はいくつかあるようですが、
  「悲しい思い出」もう一つは「わがままは程ほどに…」
 なにか思い当たるようなことがあるような…気もしないではありませんね…


 





(永遠のチャイナ・メロディ) 「夜来香幻想曲」

2006-07-16 05:23:12 | 音楽
 今年は戦前から戦後にかけて数々の不朽の名曲を生み出した、作曲家 服部良一さんの生誕九十九年に当たるそうです。それを記念してすでに紹介したようにテレビ放送「題名のない音楽会」で、彼がこよなく愛した中国を扱った音楽が特集されました。
 彼は若い頃に上海でオーケストラ奏者を務めていたこともあり、日中戦争では軍の慰問のために中国に渡り、その時に「蘇州夜曲」の曲想を得たと云われます。
 今回は中国の伝統楽器とシンフオニーの融合と云う、人の意表をついた斬新な企画だったため、プログラムが始まると期待に胸がわくわくして来ました。
 冒頭からあの名曲「蘇州夜曲」が演奏されましたが、二胡や古筝そして中国笛などの中国古来の楽器と西欧風のオーケストラ演奏が、たくみに調和して独特のサウンドが響き渡りました。
 服部家は親子三代の音楽一家として知られていますが、この日の指揮はお孫さんの服部隆之さんで、演奏はバーリー・コンサート・ソサエティの皆さん、中国楽器の演奏は二胡のジャー・バンファンさんなど三人の奏者の方です。
 
 私が好きな曲で有名なのに「夜来香」があります。
   あわれ春風に 嘆くうぐいすよ 
   月に切なくも 匂うイエライシャン
   この香りよ     
              作曲 黎錦光 作詞 佐伯孝夫
 
 愛する人への想いを「夜来香」の花に託して、切々と歌い上げる中国娘の心情が伝わってくるような素晴らしい曲ですが、この曲は戦時中から戦後にかけて、李香蘭…戦後は本名の山口淑子により歌われ大ヒットしました。
 「夜来香幻想曲」は戦時中に服部氏がこの曲にヒントを得て作り、戦後になって発表され私も今回初めて耳にしたです。
 「夜来香」のあの美しい旋律が随所にちりばめられて、ブギの陽気なリズムも取り入れられた、とにかく斬新なスタイルと感覚を持ったサウンドでした。
 特に四人の「クラシック娘」のヴォーカルと、オーケストラの金管楽器の掛け合いみたいな感じの箇所はとても楽しかったです。
 
 私が少年時代に愛読した「三国志」の世界…数千年の悠久の歴史 世界に誇る偉大なる文化と英知 そして雄大な大自然…
 果てしなく広がる中国大陸はこれからの私にとって、未知数の魅力を秘めた憧れの異境の地…になりそうですね。


  中国音楽の二胡の奏者ジャー・バンファンさんについて
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(永遠のチャイナ・メロディ)「蘇州夜曲」

2006-07-15 23:44:37 | 音楽
 時は昭和二十年冬…戦争の激化で殆どの若い男性の先生たちが戦争に赴く中で、まだ教壇に立っていたK先生も召集を受けて、戦場に向かうことになりました。
 「教錬」の時間には本物の日本刀で叱咤する怖ーい反面、体罰公認だったこの時代でも余程でない限り、ピンタを飛ばすことはなかったので、私たちは先生を限りなく慕っていました。
 やがて別れの日がやって来ましたが、勿論 国家存亡の危機に勇躍して死地に赴くのですから、女々しいことは云っていられません。私たちは勇ましい「軍歌」などを大声で歌いながら先生を激励しました。
 雰囲気が盛り上がった頃…先生は急にしんみりとした表情になって「頼みがあるから聞いてくれ…実は流行歌が聞きたいんや」と言い出しました。
 先生の意外な言葉に一瞬黙り込んだみんなの瞳は、云い合わせたように…ある一点…Mさんと云う女の子の座席に集中しました。
 心を決めたMさんは立ち上がると「先生…どんな歌がええですか」先生は笑いながら「何でもええわ…」やがてMさんは静かに歌い始めました。
   
   君がみ胸に 抱かれてきくは 夢の船歌 恋の歌
   水の蘇州の 花散る春を   惜しむか柳が すすり泣く
 
 Mさんはクラスでも指折りのオマセちゃんでした。長谷川一夫 上原謙など男性スターのブロマイドをいっぱい持っていました。やんちゃ坊主達は彼女から女優さんの写真を貰って喜んでいましたが、私も「李香蘭」の写真を貰いました。
 家で得意げに見せびらかしたら、姉に取り上げられて仕舞いましたが、私はあの少しエキゾチックな容貌から彼女が、「中国人」だと信じて疑いませんでした。
 敗戦時に彼女は祖国を裏切った重大犯として、あわや銃殺…になる手前で実は「日本人」だった…と云うことが証明されて助命される…などと云う大変な苦労を経験することなどは知るはずもなかったのです。
 
 静かに耳を傾けていた先生は歌が終わると、なにか吹っ切れたような爽やかな表情で立ち上がると、みんなに向かって挙手の礼をしました。私たちも同じように先生のしぐさの真似をしてから、いつまでもいつまでも万歳を叫びました。
 Mさんが歌ったのは多分先生の、お気に入りの歌だったのでしょう。目を閉じて聞き入る先生の胸に去来するものは、一体何だったのでしょうか。
 やがて大阪にも爆撃の嵐を受けるようになり、私たちが「学童疎開」で各自それぞれ縁故を頼って田舎へ、あるいは集団で安全地帯へ引っ越したのは間もなくでしたが、これが先生や級友との永遠の別れとなりました。

 この「蘇州夜曲」は今でも愛唱される名曲ですが、時々耳にすると必ずあの」幼い時の情景と、女優「李香蘭」を思い出します。「蘇州夜曲」は作詞は西条八十で作曲は服部良一で渡辺はま子が歌ってヒットした曲ですから、純粋な「チャイナ・メロディ」とは云えません。
 しかし蘇州の美しい風光が思い浮かぶような、情緒に溢れたな歌詞とメロディは数十年立った今でも、我が心の歌としていつまでも生き続けることと思います。

 昨年11月に中国琵琶奏者の葉衡陽氏の、演奏を聴く機会がありました。その席で演奏されたのもやはり「蘇州夜曲」で、この曲が単に日本人のみに止まらず中国の方にも、愛され親しまれていることを知って、尚一層好きに歌になりました。
 2005.11.9 私のブログ 「中国琵琶を聴く」を読んで戴ければ幸いです。

 去る7月9日(日)9.00AM テレビの「題名のない音楽会」で「蘇州夜曲」の作曲者 服部良一の曲が放送されることを友達が知らせてくれました。
 この番組で彼の音楽に対する情熱は親子三代にわたり脈々と受け継がれ、更に新たなる感銘を受けました。
 この番組に関する記事は次回に掲載しますので是非見て下さいね。
  

 

[音楽バトン」

2006-05-29 00:01:49 | 音楽
 音楽が好きな友人からバトンが廻って来ました。久しぶりに音楽の世界に戻って見ましょうか。この数十年…思い出の多い曲ならいっぱいありますね。しかし…さて…となると迷って仕舞いますが…
 1 目覚ましソングは…
 基本的には目覚まし時計は使っていません。と云うのは…セットしても私の方が先に起きて仕舞うので、あまり意味がないからです。(笑)
 でも「ツアー」などの時には万一遅れると困るので、フツーの「目覚まし時計」をかけてますよ。
 2 やる気が起きる曲
 若い頃には…「ユアー・マイ・サン・シャイン」でした。今は…?
 3 泣ける曲
 若い頃には(こればかりです…)やはり映画音楽で「旅愁」より「セプテンバー・ソング」でした。
 秋風がやさしく頬を撫ぜる頃、あの夏の日の想い出が、脳裏に甦って来て…柄にもなく、もの哀しくセンチな気分に…こんな純情多感なりし年頃の時もあったんですよ…(私のブログ「旅愁」見て下さい)
 4 ストレス解消の曲
 古ーい曲ですが景気よくストレス吹き飛ばすなら…マンボの王様ペレス・プラードの「セレソ・ローサ」か「チェリー・ピンク・マンボ」に限りますね。
 原曲はシャンソンの「ばら色の桜と白いりんごの花」です。でもこれは陽気なマンボとは対照的に、コラ・ヴォーケールが囁くように優しく歌ってます。
 5 移動中の曲は
 私の車はカー・ラジオしかありませんので、朝の通勤時はいつも某局の放送を聞いてます。(但しアホみたいな内容なので、聴くのはワケがワカル関西人限定?です)
 6 寝る前に聴く曲
 ラルフ・フラナガンの「シンギング・ウインドウ」若い頃のラジオ人気番組「S盤アワー」のエンディング・テーマでした。
 7 結婚式で流す曲
 ええ? も一度ですか?…私らが挙式した頃は謡曲「高砂やー」でございましたが…もう、いいですよ
 8 一番印象の強い曲は…
 やはり「映画音楽」で「ムーン・リヴァー」ですね。私の手元にはCDやVTRで4バージョンありますが、中ではA・ヘップバーンが歌うサントラ盤が一番いいです。これも詳しくは私のブログを見て下さいね。
 9 カラオケ定番ソング
 あんまり歌いませんがどーしても…と云う時場合は普通の演歌です。都はるみの「大阪しぐれ」や松尾和子の「再会」などがいいです。
 10 通常着信音
 ケータイは地形の関係で通話圏外のためIP電話(光フアイバー)だけです。で、着メロとかはありません。  
11 メール着信音
 同上です。
 12  バトンを廻す10人の方
 ご覧になった方で興味を持たれた方…よろしくお願いしまーす!いつもは忘れている音楽、心の奥底に眠っている音楽…思い出すのも面白いですよ…
      
 画像は勿論、今は亡き「あの大スター」が「あの映画」で「あの歌」を歌う「あの懐かしいシーン」です。思い出して下さい…

    

     

〔南国の風 伊勢志摩へ!)「金剛証寺」②

2006-05-08 00:11:42 | 音楽
 山門をくぐると鐘楼や庭園があります。今はもえぎ色の若葉に包まれたばかりですが、6月下旬から7月上旬にかけては3500株のアジサイが咲き乱れ、池の睡蓮と共に見事な彩りを添えます。その頃には例年「アジサイ祭り」も開かれて賑わいます。
 満々と水を湛えて小魚が戯れる池には、鮮やかな色彩の太鼓橋が影を落として、なんとも云えぬ風情を感じます。