映画と音楽そして旅

主に懐かしい映画や音楽について…
時には新しい映画も…

(南山城古塔めぐり)「岩船寺本堂」

2006-10-11 00:11:35 | 旅 おでかけ
 戦火で焼失した本堂は江戸時代の寛永年間に再建されたそうですが、それも老朽化して現存の「本堂」は昭和63年(1988年)に落成したものです。
本堂に安置されている阿弥陀如来坐像は、高さ2.4メートルという大きなもので、一本の欅から彫り出されていて重要文化財に指定されています。
 胎内に天慶9年(946年)制作の銘が書かれていて、作者は行基と伝えられます。

 ここで私が不思議に思うことが出てきました。源平時代以降の戦乱により神社仏閣が戦火で焼失したと云う事実は理解できるのですが、こんな都から遠く離れてこんな僻地のお寺が、何故に戦火に遭ったのか?と云う疑問です。
 そもそも「承久の変」というと…鎌倉幕府にないがしろにされた京都朝廷が幕府を追討するつもりが逆に敗れて、後鳥羽上皇などが島流しされた…という事件だったと思います。
 



〈南山城古寺めぐり)「岩船寺三重塔」

2006-10-11 00:11:03 | 旅 おでかけ
 岩船寺三重塔は嘉吉2年(1442)につくられたもので、室町時代の特徴を示しています。
 三重の塔は834~847(承和年間)仁明天皇が智泉大徳を偲んで、建立されたものだそうです。
 鎌倉時代に再建され、現存する塔には 「嘉吉二年(1442)五月二十日」の銘文があり、室町時代の様式をよく伝えるものとして明治32年に、特別建造物とし保護され重要文化財の指定を受けています。
 昭和18年に解体修理が行われて以来風雪に耐え、近来に至っては屋根瓦の波打ち傷みが激しく、工期3年3ヶ月余りの歳月をかけ平成の大修理が行われて、朱塗りも鮮やかな塔の再建が出来ました。

私の年代は敗戦ショックで正規の歴史教育はパスした年代なので、「皇国史観」と「人民史観」?が混在していて、「皇室を遠地へ流した時の執権義時は逆臣」と云う考えと、時の朝廷の実力者の上皇は自信過剰で、幕府に逆らい状況判断を誤った…」と云う二つの考えが今でも同居しています。
 で、何故この辺地の仏閣が戦火にかかったのか?ですが…

 




 
 






〔南山城塔めぐり)「さらば浄瑠璃寺」

2006-10-10 00:03:47 | 旅 おでかけ
 三重塔から出てしばらく歩くと四国の女性が、後を振り返って「まぁ…綺麗…」と云いました。
 早くも薄日がさして来て緑の葉ッぱに水滴が美しく輝いて、こんもりとした樹木の間から三重塔の先端だけが僅かに覗いています。
 帰り道に無人売店がありましたが勿論、セルフ・サービスでお金は所定の容器に自分で入れる仕組みです。
 お寺参りをする人に悪人はいない…?私たちも少しばかりのセルフ・ショッピングをしましたが、勿論、ちゃんと入れましたよ…
 四国の女性はお金を投入しながら「人間性善説を前提にしないと出来ない商売ですね」としきりに感心していました。
 
 路線バスでJRの駅に戻ると云う女性と別れて、今日の最終目的地…岩船寺へ向かいました。

〔南山城塔めぐり)「岩船寺山門」

2006-10-10 00:01:25 | 旅 おでかけ
 浄瑠璃寺から山道を数キロ行くと岩船寺(がんせんじ)です。
 このお寺は729年(天平元年)に聖武天皇の勅願で行基が建立したのが始まりで、813年(弘仁四年)嵯峨天皇が皇子誕生を感謝して堂塔伽藍が整備されたそうです
 しかし1221年(承久三年)の承久の変により大半が焼失してしまい、それ以後は再興された堂塔も再度の兵火のため、次第に衰えて現在は本堂と三重塔が残るだけとなりました。
 



(南山城古塔めぐり)「浄瑠璃寺・三重塔」

2006-10-09 05:21:04 | 旅 おでかけ
  こんもりとした緑に包まれた木立の中に、国宝の三重塔はひっそりと佇んでいました.この塔は1178年治承2年(1178年)に、京都の一条大宮から移築されたものといわれますが、正確なことはよく判りません。
 この塔は少し低いのと周りの樹木が高いので、なかなか全景を写真に収めるところがありません。撮影にいい場所を探して周囲をうろついていたら、突然大雨が降ってきました。
 慌てて塔の下へ雨宿りに駆け込むと、すでに先客あり…それが美人の女性の方で、文字通りの「駆け込み寺ですね」と顔を見合わせて大笑い…夕立もなかなか止まないので、四方山話しでもしながら雨が上がるのを待ちました。
 女性の方は「仕事で徳島から大阪へ来たので、このお寺を目指して来ました」とのこと…それはまた何故…と聞くと「徳島は阿波浄瑠璃の本場ですから、このお寺の名前に惹かれました。それと堀先生も作品に書いていおられましたし…期待に違わず静かないい感じのお寺で、お参り出来て本当によかったです」と云っていられました。
 
 私も前に読んだ堀辰雄の小説の中で、このお寺のお守りをしている少女と、彼の奥さんとの対話を綴っていたのを思い出しました。
 少女は「この辺はしょうもないとこでっせ。筍やワラビなどばっかり食べて、お魚などは食べたことない…」とか云ってたように思います。
 この鄙びたお寺が遠来の参詣者を惹き付けるのは、この美しいお寺の名前とともにどことなく、文学的な香りが漂っているからでしょうか。
 




(南山城古塔めぐり)「雨の浄瑠璃寺・宝池」

2006-10-09 05:19:56 | 旅 おでかけ
 雨もなかなか止まないし外へも出られないし、四国の女性と家内が話しを始めたので、私は家内の「日傘」をさしてその辺を散策ことにしました。
 三重塔から本堂に戻る道筋に大きな池があります。この池の近辺はは浄土式庭園と云われ国の史跡、特別名勝に指定されています。
 これは宇治の平等院にも見られるように平安貴族の間に、広がった末法思想により現実世界に極楽浄土を表現したものだそうです。
 浄瑠璃寺では池の西岸に阿弥陀如来を祀る本堂と、池の東岸に薬師如来を祀る三重塔が残り、平安王朝寺院の雰囲気を伝える貴重なものです。
 薬師如来は東方浄瑠璃世界に住み、現世の苦しみを除く仏であり、 阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主であることから、このような形でに祀られているそうです。
 
 そぼ降る雨の浄瑠璃寺の庵や樹木や宝池に、落ち着いた風情が感じられていい雰囲気でした。
 その内雨も止んだ様子で四国の女性や家内が、三重塔の下から出て来たので帰途につくことにしました。




(南山城古塔めぐり)「浄瑠璃寺本堂」

2006-10-07 23:38:16 | 旅 おでかけ
 このお寺は前に奈良からの帰途に立ち寄ったのですが、時間が遅くてすでに山門が閉っていて文字通りの「門前払い」になりました。
 山門をくぐって本堂に向かいますがこのお寺は、天平時代に聖武天皇が僧行基に命じて建立させたと伝えられます。一時は荒れていたようで平安時代の永承二年(1047)に再興されたそうです。
 浄瑠璃寺は創建当初の本尊が現在の「三重塔」に安置されている「薬師如来像」で
でしたので、薬師如来の浄土・東方浄瑠璃世界に因んで付けられた寺名です。
 本尊がその後に薬師如来から現在の阿弥陀如来に変わりましたので寺名も当然変るものですが、浄瑠璃寺という言葉の響きがあまりにも良いので、寺名はそのままにされているのでは…とも云われます。




(南山城古塔めぐり)「浄瑠璃寺…さるすべり」

2006-10-07 00:01:39 | 旅 おでかけ
 このお寺は奈良市内から近かったせいか、有名な作家もしばしば訪れていて前にも書きましたが、堀辰雄は奈良に遊んだ時に奈良坂を越えて、歩いてこのお寺まで辿りついたようで結構歩き疲れたように思います。
 彼の作品で印象に残っているのは「浄瑠璃寺の春」で、「大和路」の中の小品ですが山門のあたりに咲いていた、「アセビ」の花に触れていたのが印象的でした。
 目立たない感じの門をもう少しで通り越すところだった…と云う意味のことを書いていましたが、今でも標識とかバス停や駐車場など目印がなければ取り越しているかも判りません。

 私たちががお参りしたのは八月末でしたが、「サルスベリ」の花が満開でした。この木は 「百日紅」とも書きますが、白と赤があるそうで私が見たのは赤色でした。「さるすべり」について調べてみました。
禊萩(みそはぎ)科。
・学名 Lagerstroemia indica
開花時期は7月ー10月 中国原産。
・「約100日間、ピンクの花を咲かせる。」のが名前の由来。約3ヶ月間、秋まで咲き続けるとかですが、 実際には、一度咲いた枝先から再度芽が出てきて 花をつけるため、咲き続けているように見えるそうです。
花はしわしわの形。白い花もあります。
・「猿滑」とも書きますが幹がスベスベで「猿も登れない」ところからこの名がついたそうです。秋になると早めに落葉するようです。

 私が少しかかわっているお寺にも「さるすべり」の木があります。お盆の念仏や行事などでお参りすると、赤く咲いた花がお参りする人を迎えてくれます。
 気象条件によっては咲くのが遅れたりして、まだ咲いていない事もあったりで、その年の陽気の具合を占う目安にもされているように思います。


(南山城古塔めぐり)「恭仁大橋・木津川」

2006-10-06 00:01:49 | 旅 おでかけ
 海住山寺の参詣を終えて国道163号線を右折すれば、30分程で我が家に帰れるのですが、まだ時間はあるし今日はあと二個寺お参りの予定です。
 加茂の街並みを抜けて恭仁(くに)大橋を渡りました。
 川の流れは木津川ですが伊賀盆地を源流とする木津川は、昔から「いずみがわ」とも呼ばれ百人一首にも詠まれています。
 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ
                              中納言兼輔
 この歌の解釈は現在風に云うと、まだ会った事のない女性に「貴方が恋しいです…いつかどこかでお会いしたのような気がしますが…」などと云いながら、愛の告白をする歌だそうですが、天平美人はどんな風に感じたのでしょうか。

 このあたり一帯は瓶原(みかのはら)と呼ばれ、通ってきた道筋に「恭仁京跡」(くにのみやこ)があります。
 聖武天皇はこの地に離宮を造営して、しばしば通われたようです。
 以前にも記しましたが飛鳥ー平城京-恭仁京ー紫香楽宮と、大和から近江にかけてほぼ直線に離宮などが造営された遺跡が残っています。
 


 

(南山城古塔めぐり)「浄瑠璃寺へ…」

2006-10-06 00:01:04 | 旅 おでかけ
 関西本線の加茂駅は私の幼少期から少年期にかけて、大阪へ行く起点でしたのでおなじみの場所です。今は京阪奈学園都市にも近くて宅地開発が進んで、高層マンションなども建ってすっかり都会化して往年の鄙びた面影はありません。
 それでも街中を外れて山道へ入るとひっそりとした、涼しい空気が流れて来てほっとします。山道を登って行くとようやく浄瑠璃寺の標識が見えて来ました。