映画と音楽そして旅

主に懐かしい映画や音楽について…
時には新しい映画も…

ブログ「映画音楽」始末記

2005-12-31 22:37:44 | 雑記帖
 余すところ1時間足らずになった2005年ですが、今年は私のブログにお付き合い戴いて有難うございました。
 私の青春時代を豊かに彩ってくれた、シネマやスクリーン・バック・ミュージックの数々について、記憶のある間に書き残しておこう…と始めたブログでした。
 それも三ケ月もするとネタ切れ症状に悩まされて、打開策としてジャンルを広げすぎてあちこちと手をつける羽目となり、ただいま宇宙空間を彷徨っている状況であります。
 でも「映画音楽」自体は私好みのものは、映画も観てないのに無理矢理にでもブログ化して仕舞いましたので、大きな心残りはない…と思っていたのですが…。
 でもイタリア映画で「高校三年」より…「デリカード」ラルフ・フラナガンのとても明るい軽快な曲のCDがあるのですよ。
 それとやはりイタリア映画でデ・シーカの「終着駅」より…ペギー・リーの「ローマの秋」この二本はなじみのレンタル屋にもないし、そうなれば余計に観たくなりました。
でもいずれは他店を探してでも観るぞーっ!
 若い頃イタリア映画を敬遠していたツケが、今になって廻って来た感じですね。
 またデータ的、資料的には舌足らずの私のブログに、コメントやトラック・バックなどで補足して戴いて、付加価値をつけて下さった先輩や、お友達の皆様のご好意に心からお礼申し上げます。
 そして来年も懲りずに観て下さいますようにお願い致します。
 では皆様、良いお年を…

(雑記帳) 「ディスク・ジョッキーの日」

2005-12-31 00:31:33 | 雑記帖
 年内余すところ今日一日となって仕舞いました。
 先日たまたま気がついたのですが、12月28日は「ディスク・ジョッキー」の日だったそうですね。
 1960年-70年代といえばラジオの深夜放送が,大変盛んな頃だったように思います。
 私は…というよりも日本人全体がそうだったと思うのですが、ちょうどその頃は大阪万博を頂点とした我が国の高度成長期でもあり、仕事一辺倒でして深夜勤務などもしばしばありました。
 といっても計器類の監視とか簡単な操作とかで、実質的な仕事は殆どしなかったので、タイミングを見計らって上手に眠り交代要員が出勤してくると、シャンとして知らん顔で業務を引き渡すという変な「技術」を身につけました。
 それで起きている間はもっぱら深夜放送がお相手でした。遠方の放送局は受信状態が不安定で、時々しか耳にしませんでしたが、ニッポン放送の深夜の番組を担当された方で糸居五郎と云う方がいられました。
 この方が今から21年前、つまり1984年(昭和59年)の12月28日になくなられたそうで、それからこの日が「ディスク・ジョッキーの日」と決まったそうです。何故そうなるの?考えてみました。
 ディスク・ジョッキー(D ・J)といえばこの道の大先輩、1950年から60年代に活躍していた、「S盤アワー」の帆足まり子さんですが、彼女はその後ラテン歌手に転進して、2年ほど前の年の暮れが命日のはず…レモンちゃんこと落合恵子さんは健在…という訳でそうなったのかな…と自ら納得しました。

 その日たまたまカー・ラジオでK放送局の番組を、を聞いていてそれを知ったのですが、その中で彼はニッポン放送に移る前に、同じK放送局に在籍していたというのです。彼が健在な頃に来局したことがあり、当時は駆け出しアナのYさんに、「頑張れよ」と励ましの言葉をかけてくれたこともある…と、噛みしめるように話していました。
 「太陽の代わりに音楽を…青空の代わりに夢を…」と云うのが、その番組のフレーズだったそうですが、選曲も局まかせでなく自分で選び、自分でレコードを「かけて」(「駆けて」…このあたりがD・Jの語源かも?)ひとりよがりのトークは極力減らして、音楽そのものを心ゆくまで聴かせる…という彼のスタイルは当時の若い世代や中年層のフアンの支持を集めたようです。
 そんな放送を流していたK放送局は今は名称は変わったけれど、私の青春時代を支えてくれた思い出の多い関西の放送局です。
 ひょっとしたら来年の私のブログに出てくるかも…

(シネマ雑記帳) (51/52)1973年の映画「激突 / ラスト・タンゴ・イン・パリ」

2005-12-30 06:13:46 | 映画
 この映画が公開された頃といえばわが国の経済成長も、中東情勢の悪化でオイルショックにによる、極端なもの不足と物価上昇に見舞われた年だった。
 私はちょうどローンや子育ての真最中で、日夜仕事に追われる毎日と不安な経済情勢の中で生活防衛がせい一杯で、当然のことながら映画どころではなかった。
 にも拘わらず不思議なことに、この二本の映画のタイトルだけは覚えていた。

 「激突」は後年になってテレビで二度ほど観たが、不気味な恐怖感に溢れたような映画だった。何気なくタンク・ローリーを追い越した乗用車が、このタンク・ローリーにとことん付きまとわれて、イヤがらせを受けるというストリーだ。
 その犯人が誰で何のためにそんなことをやるのか、さっぱり判らないところや、犯人も足元が写るだけで、顔が全く写らない点でもなにか言い知れぬスリルを感じた映画だった。。
 
「ラスト。タンゴ・イン・パリ」の主演男優のマーロン・ブランドは、私が最も気に入らないスターの一人だった。これは彼の舞台でのヒット作を、ヴィヴィアン・リーと共演した映画「欲望と云う名の電車」での、彼の粗暴で野性的な行動が私のイメージをひどく傷つけたからのようだ。
 その後に彼がアカデミー賞を得た「波止場」が公開されたときも、同じ頃に封切られた「ローマの休日」や「帰らざる河」などを観るのが忙しくあまり関心はなかった。
 それが突然にも彼の存在を思い出したのは、二年ほど前にナンシー・梅木という1950年代に活躍したジャズ・シンガーが渡米して、彼が主演した「サヨナラ」という映画でアカデミー助演女優賞を獲得した…という記事を読んでからだった。
 「広い世界でただ一人…」とかいう「愛のテーマ」など主題歌だけは、私も知っていた「ゴッド・フアザー」でオスカーを得ながら受け取りを拒否するなど、社会的にも反体制的姿勢を貫いた彼も、2004年7月に80歳で他界した。
 キャサリン・ヘップバーン グレゴリー・ペックなど、私の若い頃に活躍したスターが天国に旅立つ度に、寂しくなり鎮魂のために遺作を必ず観ることにしていたが、彼の作品はまだ何も観ていなかったのに気がついた。そこで彼の実質的なラスト作品とも云える、表題の映画をDVDで観ることにした。
 冬のパリ…パリ住まいのアメリカ人ポール(マーロン・ブランド)とパリ娘のジャンヌ(マリア・シュナイダー)は、お互いに名前も住所も明かさずに交際を始める。妻に先立たれたばかりのポール、恋人はいても何か不満があるジャンヌ…
 彼が架空の世界から現実の世界に立ち返り、彼女に結婚願望を告白したことから…という物語だが…
 いつも憂鬱な挙動だった彼が現実世界に戻ってからは、気楽になったのか急に明るく陽気になって、終末近くの「ラスト・タンゴ」を踊る場面で、思わず笑ってしまったのは私だけ…?
 バーチャルの世界が突然リアリティの世界に戻ったとき…?少し考えさせられる作品だった。

 




(映画音楽番外編) 再び「魅惑の宵」(映画「南太平洋」)

2005-12-29 05:29:03 | 映画音楽
 この映画の主題曲「魅惑の宵」がわが国でヒットした頃は、私の青春真只中…忘れようにも忘れられない曲です。当時はグレン・ミラー・オーケストラを筆頭にムード・ミュージックの全盛時代でした。
 中でもでも人気が高かったマントヴァーニ・オーケストラが演奏する、あの甘く流麗なメロディに耳を傾けながら、私たちはどっぷりと南国情緒に浸りました。
 鬱蒼と繁るな熱帯樹の林、月の浜辺で恋を囁く黒い髪の乙女たち、青い海に生暖かい風…未だ見ぬ世界に、当時はまだ十代だった私は果てしない空想を描きました。勿論、この映画が出来る数年も前のこと…ひょっとしたらミユージカル「南太平洋」がブロードウェイで、まだロングランを続けていたかも判らない?ずーっと昔の頃のお話…です。
 
 現在は独立国となっている南太平洋の島々の一部は、第一次大戦後は当時の国際連盟から委任されて、ドイツから日本の統治下に入り実質的には日本領土として扱われていました。太平洋戦争では激しい戦闘が繰り広げられたことは歴史に残る事実でしたし私たちも知っていたはずでした。
 今から考えれば不謹慎なことですが、敗戦後数年ぐらいしかならないのに、私の頭の中はそんな先人たちの血と涙の歴史よりも、南国といえばそのようなロマンチックなイメージしか浮かびませんでした。ひょっとすればあの戦争の悪夢をこんなことで、意識して忘れようとしていたのかも判りません。
 この音楽と映画については私のブログでも初期に題材にしましたが、そこでも述べたようにこの主題曲がヒットしたのは、映画の製作(1958年)や日本での公開(1959年)よりもずっと早かったことから、実際にはこの映画は観ていませんでした。そして公開された頃には私のシネマ熱も下降気味で結局はこの映画を観たのはつい先日のこと、すでに半世紀も経っていました。
 
 太平洋戦争の最中、従軍看護婦ネリー(ミッチー・ゲイナー)と、本国で何かヤバイ事をやらかしてこの島で暮らしているフランス人のエミール(ロッサノ・ブラッツイ)とが、丘の上で乾杯するシーンは南国らしい明るいオレンジ・カラーで、彼が彼女に愛を告白する夜の場面では、幻想的なブルーを基調としたカラーで表現されていたのが印象的でした。
 ここで私は前回のブログで大きな勘違いをしているのに気がつきました。つまりミッチー・ゲイナーがデビー・レイノルズよりも早く現れていたら…云々と書いたのですが、どうもミッチーを以前に一度は観ているらしい…と云うことでした。
 その映画は「ショウより素敵な商売はない」で、有名なミュージカル映画でしたが、どうも内容とか詳しいキャストがを思い出せなでいました。この映画にもミッチーが出ていたのですが全く気がつかなかった…ということは多分大スターマリリン・モンローが目立ちすぎて、外のスターを圧倒していたからでしょうか。
 もっとも彼女は1960年代にはナイト・クラブの歌手に転身して、スクリーンを去ったたそうなので、今頃になって追っかけもここまでで、映画スターとしての活躍期間は短かかったのかも知れません。
 こんなケースは良くあるのですが、例えば今頃気になってきたスターにヴェラ・エレンという可愛いミュージカル・スターがいました。ところがこのスターは「ホワイト・クリスマス」でダニイ・ケイやビング・クロスビーと出ているので一度は、観ているはずなのですがそれを忘れていました。
 あの頃はミュージカルの場合は、映画を観ても内容とか共演者などを覚えていないのが多く、特にストリーが途中で判らなくなっても特に支障のない、ミュージカル映画はその傾向が強かったようです。
 
「南太平洋」は南方洋上に作られた夢の別世界、ハワイとタヒチの風景を特殊合成して創られた神秘的な架空の島を舞台にしたものなので戦時中と云う設定にも拘わらず、戦闘場面も見られず歌と踊りを中心とした、純然たる娯楽作品としてヒットしたものと思われます。
 映画主題曲「魅惑の宵」は映画が作られる前から、FEN放送など当時のアメリカ駐留軍放送のヒット・パレードなどから広く知られていたという珍しいケースとして、私にはいつまでも心に残る音楽でもあり、映画であったともいえましょう。

 ☆この映画については今年6月頃の私のブログならびに、先輩の方がつけて下さったトラック・バックを参考にしてご覧下さい。 
 
 
 

((雑記帳)  「Win95 日本上陸その後」

2005-12-28 00:18:56 | 雑記帖
 ウインドウズ3.1に続きWin95がわが国でも発売された。これから起こるPC大戦争を私は外野席から冷めた目つきで観戦していた。この世界がこんなに急速に流動的になっては、手のつけようがなかったと云うのが実情だった。
 1994年頃に私の勤務先でも、業務の一部がPC処理されることになり、担当OLたちが特訓を受けていたが、相変わらず「書院カルク」などで処理をしていた私も、データ保存という点で難儀していた。
 しかし少し古いPCにWin95をインストールしたのが、私のところに配備されることになった。データの互換性がないのでまた新しい機械のプログラムに作り変えたり、データの移動などに追われるようになった。その機械は私が心情的に応援していたNECではなく、IBMであることが少し気に入らなかったが、業務自体には支障なくは十分に処理できた。
 問題のデータ保存は相変わらず3.5インチFDを使用していたので、あまり変わらなかったがそれでもハード・ディスクが、ワープロに比べると容量に余裕があったので処理能力はいくらか向上したように思う。
 大して気が進まず他人事みたいな感覚だった、私の「パソコン大作戦」も好む、好まざるに拘わらず、会社のOA機器システム整備に呑み込まれた形になった。
 その後やっとしてからこのWin95に「オフイス2000]をインストールしたので、通常の業務処理は特に支障なく今でも現役で使用中である。
 問題はCD-RWが使えないので1,44MB以上になるプログラムは、作っても保存できないのでこの点が泣き所といえる。そこで容量の大きいデータは別の人の管理する機械で、CDーRWなどにコピーして保存するなどの方法が必要だ。
 このあたりが煩わしいがしかし最近の新機種はF・Dドライブがついていないのが多いので、このあたり今後の買い替えには対応が必要に思われる。
 いずれにしてもウインドウズ95の日本上陸は、私の仕事面に大きい変化を及ぼすことになった。
  (写真は以前に一度掲載したものを再使用しました)

((雑記帳)  「Win95 日本上陸前夜」

2005-12-27 00:25:22 | 雑記帖
 1993年から1994年といえばわが国のPC業界も、国内、海外系メーカー入り乱れての混戦状態であった。特にウィンドウズ3.1の発売などが各メーカーに影響を与え、新機種や機能の開発などで、激しい競争を展開していた。私もこんな状況下ではうかうかと手が出せず、外野席から眺めるばかりだった。
 このごろのパソコン雑誌には、毎週ショッキングな見出しが躍っていた。
  ☆日本IBM 新シリーズ発表 NECより4割安い!
  ☆NECの製品が値崩れ中! ☆富士通からDOS/V対応のワープロ発売!
  ☆一太郎 Ver5出荷延期 更にVer UP?(ASAHIパソコン No98 1993 3.1)
☆98新製品発表 NEC秋の大攻勢! (同誌 No138 1994.11.15)
 しかし1994年9月のハードのランキングでは、  
  1位 マックLC85(アップル)  2位 マック Performa575 (同)
  3位 PC-9801 NS/A (NEC) 4位 PC-9801 BX2/U2 (NEC)
  5位 ThinkPad220 (IBM)  (ASAHIパソコン No138  1994.11.15)
 という順位でNECが、外国系に押されつつあることは確かのようだった。
またNEC エプソン 東芝(ダイナブック)IBMの各社のノートを比較して「徹底検証と云う記事もあった。
 いずれも優劣つけがたいが、端的な評価として
  ☆大きさと美しさはIBM ☆ソフトと安心のNEC ☆拡張性のエプソン
  ☆器用貧乏の東芝…ということだった。
 ちなみにスペックはクロック周波数が、各社20-25MHz HDは120MB前後
価格は98 498,000-598,000  IBM 782,000   東芝 878,000
と性能面では今とは比較にならないが、当時としてはかなり高嶺(高値)の花だ ったようで、私は手も足も出なかった。
国産メーカーの名門NECも時代の波には逆らえず、ウインドウズの仕様に近いPCー9821を開発するなど、海外メーカーの圧力が高まる中で頑張っているのは、頼もしくもあり悲壮な感じすら受けた。
 性能面や価格面はともかくとして、心情的にはわが国でのパイオニア的存在のNECを、私は応援してやりたい…という気持ちに傾いていった。
 
  



   

(雑記帳) 「PC-9801」

2005-12-26 19:17:08 | 雑記帖
 私がパソコン研究(?)を始めたのはワープロという機械に限界を感じたからだった。私の目的は表計算とデータ管理が主体で、性能自体には大きな不満は感じていなかったが、問題は大量のデータ保存が難しいという点だった。ワープロのデータ保存はフロピー・ディスクだが、1.44MBという容量はフロッピーが増えてくるにつれて、管理の煩雑さが気になってきた。
 再びパソコンに舞い戻り、NECの主力機種「PC-9801活用総整理」と云う参考書を買って来て、同機種の今までの発展経過や、現況を勉強することになった。
私が道草を食っている間に、パソコンは大きな進化を遂げていたようだ。
 発売   型式 クロック周波数 メモリー  FD   HD 価格(円)
1982.10 PC-9801    5MHz  128KB    8インチ  なし 298,000
1983.11 PC-9801 E    同じ     同じ   同じ   同じ 215,000
1984.11 PC-9801M3   同じ   同じ      同じ  20MB 838,000
1985.10 PC-9801VM4 8-10MHz 384KB    1MBFD 20MB 830,000
1986.10 PC-9801VX4    8MHz 640KB 同じ     20MB 693,000   
1986.10 PC98RL model5 16MHz 1.5 MB 1MB×2   40MB 970,000
 2000年代のパソコンの水準から見ると比較にならない数値だが、このスペックで見ると98シリーズがたった4年間に、内容がかなり進歩している事が判る.勿論、性能の向上に伴い価格面でも上昇しているが、同一性能の場合は量産効果で価格が下がっていることも判る。
 それに見逃せないのが98シリーズが、優秀なソフトとか周辺機器類により完璧にガードされていたことが、当時は圧倒的なシェアを占めていたように思われる。
 しかし国内的には独創のNECだが、国際的には互換性と云う点で有利なIBMなどが、いずれわが国にも上陸してくることが予想された。
 NECが今まで開発されたノウハウや、ソフトとか周辺機器など有形無形の財産をを強力な武器にして、いつまで独自路線を続けられるか、これは私たち素人には予測のつかない問題だった。
 閣内のメーカーの性能面や価格面での競争激化、海外メーカーの動向とか、パソコン界はまさに戦国時代だった。全く先が読めない時代の中で、当分の間私は高みの見物をすることになった。
 そのうち3.5インチFDは待ったなしで、どんどん増えていき管理にくたびれつつあった私は対策を迫られつつあった。
 
 
  

 

(雑記帳) WD-550/WD-600

2005-12-25 00:12:45 | 雑記帖
 私が仕事に使うことにしたWD-550と云う機種は、演算とか分類や抽出などの機能があったので、データ処理などに、抜群の威力を発揮した。平成3年頃には更に軽量化、性能アップしたWD-600を購入するなど、ワープロはやっとを黄金時代を迎えるようになった。古い機械は現役は引退してデスクから降りて、会社の和室の畳の上でひっそりと余生を送っている。しかし能力は今でも健在でいざとなればキチンと仕事をこなすようだ。
 さて、私はワープロに関心を集中していたので、長い間忘れていたパソコンの存在を突然思い出した。あの頃からすでに10年ぐらいの月日が経過していた。パソコンはあれからどんな風に進化しているのだろうか、大いに興味があった。
 1990年代初期のPC界は、先発のNECがPC-9801シリーズで、圧倒的な優位を誇っていた。
 98シリーズ第1号機は1982年に、298,000円という価格で発売された。
この頃のパソコンは「ソフトなければタダの箱」と言われていた時代で、目的もなく思いつきで買っても粗大ゴミになる恐れがあった。
 ここで私はまたまたパソコン研究に、没頭することになった。
 



((雑記帳)  ワープロ入門(?)

2005-12-24 06:01:07 | 雑記帖
 BASICという機械言語を覚えるのに怖気づいた私は、勤め先で和文タイプのメンテナンスに来たセールス・エンジニアのお兄さんに良い方法がないか聞いてみた。そこで「ワード・プロセッサー」通称「ワープロ」なる機械があることを初めて知った。ひらがなで打ち込むと自動的に漢字で出て来る…と云う驚異的なマシーンだそうだ
。価格を聞くとムニャムニャ云うだけで、具体的な数字が出てこない。多分あんまり売れないのだな…と思いながら、本屋を覗いて入門書を買った。ページをめくるとトップに機械のカラー写真と、価格が記してあったがそれを見て私は驚いた。
   WD-3500 2,980,000 全文字配列方式 和文タイプから即移行可能
WD-2400 1,650,000 JIS規格文字配列 文章 演算 グラフ等可能
WD-1000 1,198,000 ワン・ライン・ディスプレィ 文章入力に重点
WD- 800 498,000 和文タイプ風文字配列 ファミリー向けタイプ
 いずれもSHARP[書院」シリーズで、私のような和文タイプからの転向派を、なんとか取り込むことに努力していたようだが、それにしても値段が高過ぎたので、それからもしばらく模様眺めの日が続いたのである。
 その後この種の機器類は価格競争が激しくなって、10万円台までま下がった頃に高校生だった娘が、夏休みのバイトで貯めた小遣いでWD-250という機種を買った。まだ十代だし朝から晩までワープロばかりで、当然の事ながら割合と短期間で覚えたようだ。上記のWD-1000に近いタイプの機種だったが、娘の指導(?)でまだ怪しいものだが、まぁなんとか使えるようになった。
 その頃には公文書にもワープロ印字が、認知されていたようで文章作成にそれなりの機能を認めていたけれども、活字印刷の方が文面が綺麗という点で、私は仕事の面では依然として和文タイプにこだわっていた。
 しかしワープロも性能がだんだんと高くなり、計算やグラフ 分類などの機能などが搭載された機種も割安になってきたので、やっと和文タイプからワープロへの転向を決めた。
 そして私がSHARP WD-550を仕事に導入したのは、昭和63年のことだった。
 
 




(CD雑記帳) 「悲しくてやりきれない」

2005-12-23 20:59:38 | 音楽
      フオーク&ニュー・ミュージック・アルバム
        「私の青春譜」より 歌 ザ・フオーク・クルセダーズ
   作詞 サトー・ハチロー 作曲 加藤和彦 編曲 ありた あきら
       <胸にしみる空のかがやき 
        今日も遠くながめ涙を流す
        悲しくて悲しくて 
        とてもやりきれない
        このやるせないモヤモヤを
        だれかに告げようか>
     例によってあとは私のイメージです…
     前出記事の「海岸通」「冬が来る前に」を思い出して下さい…
      
      あれから幾月たったのか さよなら…云ったあの日から
      ただあてもなく彷徨って たどり着いたのはあの人の
      ぬくもりのこるこの山へ 紅の葉も今はなく
      枯葉が一片 寂しげに 初冬の風にはこばれて
      僕の頬に降りかかる 冬化粧が近い山々に
      沈む夕陽も寂しくて あの日のように今日も赤く

      「結婚しょうね…」と云えなくて 心の奥とうらはらに
      格好いい言葉を囁いた「兄妹のままでいようね」と
      黙って頷いたあの人の 瞳に宿ってた寂しい影
      自分に素直になりたいと 思っていながら何故かまた
      素直になれない僕だった 素直に生きよう これからは…

      冬の日暮れは短くて 夜の気配はすぐそこに
      幼い頃にふと返り 使い古した言葉だけど
      「星に願いを」かけようか 逢いたい逢いたい逢いたいと
      山のあなたに幸せを 求めて明日は旅立とう
      ブッセの言葉そのままに 涙の旅に終わろうと
      このやるせない悲しみが 消えるものなら悔いはしない