五十数年前から私が気になっていた映画の「鑑賞」と、「原作小説読み」を同時進行でやっと終了しました。 これもすべて写真でもお判りのように、著作権切れで安価DVDが出廻ってきたお蔭でございます。
イメージが壊れることが多いのと読むのに時間がかかるので、原作と映画の両方を見ることはあんまりしないのですが、ヘミングウェイの作品「キリマンジャロの雪」は幸いにして短編小説でしたから読む気になりました。
この小説も映画も最初はお決まりの「高さ19,710フィート…アフリカ第一の高峰の頂きに、ひからびて凍りついてた一頭の豹の屍が横たわっている。そんな寒い高所に豹が何故…これは誰にも説明出来ない…と云う意味の文で始まります。
小説でも映画でも最初から「ハゲタカ」や「ハイエナ」が「死」の象徴として登場します。
狩猟の傷が悪化して生死の間を彷徨いながら、朦朧とした意識の中で作家で狩猟好きのハリー(グレゴリー・ペック)は、今までの出来事を回想します。
彼の脳裏を駆け巡るのは彼に冒険を勧めた親父のこと、今まで従軍した戦闘のこと、そして狩猟のことなど…多分ヘミングウェイ自身の体験などで、過去の女性についても軽く触れられているものの、中身はラブラブ場面もなければ」大きな劇的な展開もないし退屈そのものです。
それは小説の意図するところが「死」に向かい合っている彼の、心理状態を主眼に置いた描写のようなので当然そうなることと思われます。
映画でも彼の世話をする女性ヘレン(スーザン・ヘイワード)は彼の云いたい放題の言葉を、上手にあしらいながら献身的に尽くします。
でも、映画のハリーが思い出すのは…全く別の女性…シンシヤ(エヴァ・ガードナー)や、もう一人の彫刻家の女性などのことばかり…と云う風に、ハリウッド映画特有のメロドラマが展開して行きます。
この映画で私はヘレン役のスーザン・ヘイワードが、原作での立場のように主役だと勝手に思いこんでいましたが、ハリーの女性遍歴の描写は原作には全く登場しない女性…シンシァ…エヴァ・ガードナーとのことが、大半でS・ヘイワードは脇役になっていたのがどうも気になりました。
ヘミングウェイ原作の映画化と云いながら、映画のストリーの大半は原作にない女性とのラブ・ロマンスに費やされいる訳で、なにか当時のハリウッドの商業主義やご都合主義が、露骨に表れているような気がしました。
この映画が作られた1952年はヘミングウェイも、「老人と海」を発表するなど健在でしたから、原作者の了解の下に行われた改変と思われます。
と、すれば映画「愚かなり我が心」が作者の意図に反して、単なるメロドラマかしているとして、代表作の「ライ麦畑…」の映画化を断ったというサリンジャーに比べてヘミングウェイは少し意識が違うのかな?と思いました。
ヘミングウェイ自身も私生活で戦争に従軍したり、自動車や飛行機事故に遭ったりしていることはよく知られています。
スペイン内戦に特派員として従軍した経験は「誰が為に鐘は鳴る」に、描かれていますが戦争や狩猟そして再三の事故などで、絶えず生死の境界を彷徨ってきた彼の作品には、なにか暗い影がさしているようです。
作品の良否は別として「キリマンジャロの雪」ほど、原作と映画の違いを感じた作品は少なかったようです。
世界的文豪の原作を豪華キャストで製作しながら、Bクラスの評価しか与えられなかったのも珍しいことですが、これも原作と映画との大きな落差にあったのかも判らないし、当然ではなかったのだろうかと思います。
しかし原作に書かれていないキリマンジャロの頂きの「豹が何故そこにいるのか…」と云う疑問にも答えて?いるし、原作を離れて単なる作品として見れば、それなりのお値打ち品だったような気もします。
イメージが壊れることが多いのと読むのに時間がかかるので、原作と映画の両方を見ることはあんまりしないのですが、ヘミングウェイの作品「キリマンジャロの雪」は幸いにして短編小説でしたから読む気になりました。
この小説も映画も最初はお決まりの「高さ19,710フィート…アフリカ第一の高峰の頂きに、ひからびて凍りついてた一頭の豹の屍が横たわっている。そんな寒い高所に豹が何故…これは誰にも説明出来ない…と云う意味の文で始まります。
小説でも映画でも最初から「ハゲタカ」や「ハイエナ」が「死」の象徴として登場します。
狩猟の傷が悪化して生死の間を彷徨いながら、朦朧とした意識の中で作家で狩猟好きのハリー(グレゴリー・ペック)は、今までの出来事を回想します。
彼の脳裏を駆け巡るのは彼に冒険を勧めた親父のこと、今まで従軍した戦闘のこと、そして狩猟のことなど…多分ヘミングウェイ自身の体験などで、過去の女性についても軽く触れられているものの、中身はラブラブ場面もなければ」大きな劇的な展開もないし退屈そのものです。
それは小説の意図するところが「死」に向かい合っている彼の、心理状態を主眼に置いた描写のようなので当然そうなることと思われます。
映画でも彼の世話をする女性ヘレン(スーザン・ヘイワード)は彼の云いたい放題の言葉を、上手にあしらいながら献身的に尽くします。
でも、映画のハリーが思い出すのは…全く別の女性…シンシヤ(エヴァ・ガードナー)や、もう一人の彫刻家の女性などのことばかり…と云う風に、ハリウッド映画特有のメロドラマが展開して行きます。
この映画で私はヘレン役のスーザン・ヘイワードが、原作での立場のように主役だと勝手に思いこんでいましたが、ハリーの女性遍歴の描写は原作には全く登場しない女性…シンシァ…エヴァ・ガードナーとのことが、大半でS・ヘイワードは脇役になっていたのがどうも気になりました。
ヘミングウェイ原作の映画化と云いながら、映画のストリーの大半は原作にない女性とのラブ・ロマンスに費やされいる訳で、なにか当時のハリウッドの商業主義やご都合主義が、露骨に表れているような気がしました。
この映画が作られた1952年はヘミングウェイも、「老人と海」を発表するなど健在でしたから、原作者の了解の下に行われた改変と思われます。
と、すれば映画「愚かなり我が心」が作者の意図に反して、単なるメロドラマかしているとして、代表作の「ライ麦畑…」の映画化を断ったというサリンジャーに比べてヘミングウェイは少し意識が違うのかな?と思いました。
ヘミングウェイ自身も私生活で戦争に従軍したり、自動車や飛行機事故に遭ったりしていることはよく知られています。
スペイン内戦に特派員として従軍した経験は「誰が為に鐘は鳴る」に、描かれていますが戦争や狩猟そして再三の事故などで、絶えず生死の境界を彷徨ってきた彼の作品には、なにか暗い影がさしているようです。
作品の良否は別として「キリマンジャロの雪」ほど、原作と映画の違いを感じた作品は少なかったようです。
世界的文豪の原作を豪華キャストで製作しながら、Bクラスの評価しか与えられなかったのも珍しいことですが、これも原作と映画との大きな落差にあったのかも判らないし、当然ではなかったのだろうかと思います。
しかし原作に書かれていないキリマンジャロの頂きの「豹が何故そこにいるのか…」と云う疑問にも答えて?いるし、原作を離れて単なる作品として見れば、それなりのお値打ち品だったような気もします。