映画と音楽そして旅

主に懐かしい映画や音楽について…
時には新しい映画も…

(シネマ雑記帳) 映画「キリマンジャロの雪」

2006-10-11 00:12:02 | 映画
 五十数年前から私が気になっていた映画の「鑑賞」と、「原作小説読み」を同時進行でやっと終了しました。 これもすべて写真でもお判りのように、著作権切れで安価DVDが出廻ってきたお蔭でございます。 
 イメージが壊れることが多いのと読むのに時間がかかるので、原作と映画の両方を見ることはあんまりしないのですが、ヘミングウェイの作品「キリマンジャロの雪」は幸いにして短編小説でしたから読む気になりました。
 この小説も映画も最初はお決まりの「高さ19,710フィート…アフリカ第一の高峰の頂きに、ひからびて凍りついてた一頭の豹の屍が横たわっている。そんな寒い高所に豹が何故…これは誰にも説明出来ない…と云う意味の文で始まります。
 小説でも映画でも最初から「ハゲタカ」や「ハイエナ」が「死」の象徴として登場します。
 狩猟の傷が悪化して生死の間を彷徨いながら、朦朧とした意識の中で作家で狩猟好きのハリー(グレゴリー・ペック)は、今までの出来事を回想します。
 彼の脳裏を駆け巡るのは彼に冒険を勧めた親父のこと、今まで従軍した戦闘のこと、そして狩猟のことなど…多分ヘミングウェイ自身の体験などで、過去の女性についても軽く触れられているものの、中身はラブラブ場面もなければ」大きな劇的な展開もないし退屈そのものです。
 それは小説の意図するところが「死」に向かい合っている彼の、心理状態を主眼に置いた描写のようなので当然そうなることと思われます。
 映画でも彼の世話をする女性ヘレン(スーザン・ヘイワード)は彼の云いたい放題の言葉を、上手にあしらいながら献身的に尽くします。
 でも、映画のハリーが思い出すのは…全く別の女性…シンシヤ(エヴァ・ガードナー)や、もう一人の彫刻家の女性などのことばかり…と云う風に、ハリウッド映画特有のメロドラマが展開して行きます。
 
 この映画で私はヘレン役のスーザン・ヘイワードが、原作での立場のように主役だと勝手に思いこんでいましたが、ハリーの女性遍歴の描写は原作には全く登場しない女性…シンシァ…エヴァ・ガードナーとのことが、大半でS・ヘイワードは脇役になっていたのがどうも気になりました。
 ヘミングウェイ原作の映画化と云いながら、映画のストリーの大半は原作にない女性とのラブ・ロマンスに費やされいる訳で、なにか当時のハリウッドの商業主義やご都合主義が、露骨に表れているような気がしました。
 この映画が作られた1952年はヘミングウェイも、「老人と海」を発表するなど健在でしたから、原作者の了解の下に行われた改変と思われます。
 と、すれば映画「愚かなり我が心」が作者の意図に反して、単なるメロドラマかしているとして、代表作の「ライ麦畑…」の映画化を断ったというサリンジャーに比べてヘミングウェイは少し意識が違うのかな?と思いました。
 ヘミングウェイ自身も私生活で戦争に従軍したり、自動車や飛行機事故に遭ったりしていることはよく知られています。
 スペイン内戦に特派員として従軍した経験は「誰が為に鐘は鳴る」に、描かれていますが戦争や狩猟そして再三の事故などで、絶えず生死の境界を彷徨ってきた彼の作品には、なにか暗い影がさしているようです。
 作品の良否は別として「キリマンジャロの雪」ほど、原作と映画の違いを感じた作品は少なかったようです。
 世界的文豪の原作を豪華キャストで製作しながら、Bクラスの評価しか与えられなかったのも珍しいことですが、これも原作と映画との大きな落差にあったのかも判らないし、当然ではなかったのだろうかと思います。
 しかし原作に書かれていないキリマンジャロの頂きの「豹が何故そこにいるのか…」と云う疑問にも答えて?いるし、原作を離れて単なる作品として見れば、それなりのお値打ち品だったような気もします。


 
 


(南山城古塔めぐり)「岩船寺本堂」

2006-10-11 00:11:35 | 旅 おでかけ
 戦火で焼失した本堂は江戸時代の寛永年間に再建されたそうですが、それも老朽化して現存の「本堂」は昭和63年(1988年)に落成したものです。
本堂に安置されている阿弥陀如来坐像は、高さ2.4メートルという大きなもので、一本の欅から彫り出されていて重要文化財に指定されています。
 胎内に天慶9年(946年)制作の銘が書かれていて、作者は行基と伝えられます。

 ここで私が不思議に思うことが出てきました。源平時代以降の戦乱により神社仏閣が戦火で焼失したと云う事実は理解できるのですが、こんな都から遠く離れてこんな僻地のお寺が、何故に戦火に遭ったのか?と云う疑問です。
 そもそも「承久の変」というと…鎌倉幕府にないがしろにされた京都朝廷が幕府を追討するつもりが逆に敗れて、後鳥羽上皇などが島流しされた…という事件だったと思います。
 



〈南山城古寺めぐり)「岩船寺三重塔」

2006-10-11 00:11:03 | 旅 おでかけ
 岩船寺三重塔は嘉吉2年(1442)につくられたもので、室町時代の特徴を示しています。
 三重の塔は834~847(承和年間)仁明天皇が智泉大徳を偲んで、建立されたものだそうです。
 鎌倉時代に再建され、現存する塔には 「嘉吉二年(1442)五月二十日」の銘文があり、室町時代の様式をよく伝えるものとして明治32年に、特別建造物とし保護され重要文化財の指定を受けています。
 昭和18年に解体修理が行われて以来風雪に耐え、近来に至っては屋根瓦の波打ち傷みが激しく、工期3年3ヶ月余りの歳月をかけ平成の大修理が行われて、朱塗りも鮮やかな塔の再建が出来ました。

私の年代は敗戦ショックで正規の歴史教育はパスした年代なので、「皇国史観」と「人民史観」?が混在していて、「皇室を遠地へ流した時の執権義時は逆臣」と云う考えと、時の朝廷の実力者の上皇は自信過剰で、幕府に逆らい状況判断を誤った…」と云う二つの考えが今でも同居しています。
 で、何故この辺地の仏閣が戦火にかかったのか?ですが…

 




 
 






(映画音楽)「ティティナ…生田恵子」(映画「モダン・タイムス」)

2006-10-10 00:07:56 | 映画音楽
 いつやらテレビで少しだけ観た「モダンタイムス」の予告画面の中で、流れていた音楽にふと耳に止まりました。それはそのメロディになにか聞き覚えがあったからです。耐用年数もかなり使い込んで来て、少し呆けかけてきた私の脳内メモリーが懸命に作動しました。
 考えること数分…判った!あの曲は確か「生田恵子」が歌っていた「東京ティティナ」と云う曲と、同じメロディじゃなかったかな…などと記憶が甦ってきました。でもそれは私の一方的な思い込みかも判らない…早速と確認しなくっちゃ…
 「生田…」と云うと「生田流筝曲」を連想しますが、そんなエレガントで風流なものじゃなくって南国的で軽やかで、陽気なリズム感覚の音楽でした。少しだけ覚えていた歌詞はと云うと…
   東京ティティナ 夢見る瞳 
   誰を待つのか 優しい瞳…
 彼女については私の十代半ば過ぎに「バイヨン」と云う新らしいリズムで、急に売り出した女性歌手…ぐらいの認識しかありませんでした。
 私もこの頃は近年の新しいリズムの流行には、うんざりしていたので当時としては大きな関心はありませんでした。
 しかしチャップリンの映画でこの音楽の片鱗を耳にして見ると、今頃になって急に気になって来ました。
 今時CD出ているかな…無理だろうなぁ…と、思いきや
 生田恵子のCD…見付かりました!それは…
 
「東京バイヨン娘」生田恵子  VICG-60227/1999.10.21発売/¥2,400(税抜)
  日本人初 幻のブラジル録音、待望のCD化!

 記事の紹介によれば
 >1951年「バイヨン」の王様、ルイス・ゴンザーガの指導のもとに、本場仕込みの「バイヨン」を習得、帰国後日本に“バイヨン”ブームを巻き起こした<
とかであります。この紹介の続きです。
「東京バイヨン娘」ほか生田恵子の名唱の数々を初復刻!幻のブラジル録音3曲も完全収録=本邦初公開! 〔日付は録音または発売月)
01. パライーバ (1951.11ブラジル録音) 02. 復讐(1951.11ブラジル録音)
03. バイヨン踊り (1951・11ブラジル録音)04. バイヨン踊り (1952.3)
05. 東京バイヨン (1952.5録音) 06. リオから来た女 1952年5月14日)
07. 恋の花咲くサンパウロ (1953.1)08. 陽気なバイヨン娘 (1953.3)
09. 踊れバイヨン (1953年2月28日録音)10. 君帰りませ (1953年2月28日録音)
11. 銀座マンボ (1953年7月発売) 12. 東京ティティナ (1953年8月発売)   (以下略)
 やっと出てきました よかった… それにしても凄ーい !と感服しました、

 私もあまりよく知らなかった生田恵子の、知られざるプロフィールについて「再勉強」です
> 東京都生まれ 本名、岩崎八重子  三笠晴美の芸名で、宝塚少女歌劇団で活躍。
1949年 ビクターよりデビュー。
1951年ブラジルRCAにてレコーディング、ルイス・ゴンザーガ直々に本場のバイヨンの指導を受ける。
1952年 日本帰国後、「東京バイヨン」他、バイヨン・リズムの曲を次々にヒットさせる。ヨーロッパでバイヨンが流行るより早く、日本にバイヨン・ブームを巻き起こす。
1995年 「レコード・コレクターズ」誌にて、日本人初の本格的ブラジル録音を行った先駆者として取材を受ける。その直後、惜しまれながら他界…<
 
 「バイヨン」と云うリズムはマンボに押されて、あまり目立ちませんでしたがサンバと同じくブラジル系の、割合とテンポも速い陽気な感じの曲だったと思います。
 ルイス・ゴンザーガ…検索して見ましたら…凄い!
 故人ですがブラジル音楽界では神様のような大人物…彼の作品は「第二の国歌」と云われているぐらいでした。知らなかったのはは私だけ…?
 
 それに彼女は昔はヅカ・ガールだったんですね。
 私は宝塚音楽学校出身と聞くと無条件で尊敬する習性があるのです。

 イタリア映画「アンナ」でS・マンガーノが歌った主題曲も、バイヨンのリズムだった…と云われていたのを思い出したのですが…
  ご存知の方いられたら…教えて下ーさい。

 


〔南山城塔めぐり)「さらば浄瑠璃寺」

2006-10-10 00:03:47 | 旅 おでかけ
 三重塔から出てしばらく歩くと四国の女性が、後を振り返って「まぁ…綺麗…」と云いました。
 早くも薄日がさして来て緑の葉ッぱに水滴が美しく輝いて、こんもりとした樹木の間から三重塔の先端だけが僅かに覗いています。
 帰り道に無人売店がありましたが勿論、セルフ・サービスでお金は所定の容器に自分で入れる仕組みです。
 お寺参りをする人に悪人はいない…?私たちも少しばかりのセルフ・ショッピングをしましたが、勿論、ちゃんと入れましたよ…
 四国の女性はお金を投入しながら「人間性善説を前提にしないと出来ない商売ですね」としきりに感心していました。
 
 路線バスでJRの駅に戻ると云う女性と別れて、今日の最終目的地…岩船寺へ向かいました。

〔南山城塔めぐり)「岩船寺山門」

2006-10-10 00:01:25 | 旅 おでかけ
 浄瑠璃寺から山道を数キロ行くと岩船寺(がんせんじ)です。
 このお寺は729年(天平元年)に聖武天皇の勅願で行基が建立したのが始まりで、813年(弘仁四年)嵯峨天皇が皇子誕生を感謝して堂塔伽藍が整備されたそうです
 しかし1221年(承久三年)の承久の変により大半が焼失してしまい、それ以後は再興された堂塔も再度の兵火のため、次第に衰えて現在は本堂と三重塔が残るだけとなりました。
 



(CD雑記帳)シャンソン「ばら色の桜の木と白い林檎の木」

2006-10-09 05:22:21 | 音楽
 私の手元のシャンソン譜面集に「ばら色の桜と白い林檎の花」と云う、長ったrらしい題名の曲が掲載されています。(原題Cerisier Rose Et Pommier Blanc)
 このシャンソンが昨日にブログで触れたマンボ「セレソ・ローサ」の元歌であることはよく知られていて、私の手元のアルバムでは、イヴェット・ジローが歌っています。
 トランペットの響きも華やかなマンボに比べて、同じメロディでもジローの歌の方も軽やかで明るい感じの歌で、このあたりはやはり共通したものを感じます。
 譜面集にはフランス語の原歌詞が、ご親切にもルビつきで掲載されています。
 勿論、フランス語の意味は判りませんが、日本語の歌詞がとても綺麗な言葉で綴られていますので紹介したくなりました。
「セレサ・ローサ」のメロディをご記憶の方…一度歌って見ませんか…
  さくらんぼの花咲き 真白きりんごも 
  咲き匂うその下で 初めて 
  愛しの君を知りて 我が胸は燃えぬ 
  思い出も懐かしき 春の日

  優しい瞳は 我を見つめて
  そよ風甘く 私を誘う… (下略〕 作詞 大原良一
 「スミレのはーな…」みたいな宝塚ソングのような感じですが…私も久しぶりに一度歌ってみましたが、幸いにして歌詞もメロディもばっちり合いましたよ。
 
 マンボ・ブームがその後どうなったか…音楽の世界から遠ざかっていたので、よく知りませんが、昭和30年代初期にはシャンソンブームが起きたようです。
 昭和27年にダミアが来日、丸山〔現三輪)明宏が「銀巴里」専属シャンソン歌手としてデビューするなど…昭和20年代末期から下地はすでにありました。
 それが昭和30年にNHK-TV「シャンソン・アルバム」の放映が始まり、出演者の豪華さにブームが一挙に高まったようです。
 出演者は淡谷のり子、高英男、深緑夏代、芦野宏 大谷冽子、砂原美智子などシャンソンやオペラ界の一流アーティストでした。
 ニッポン放送も「巴里の街角」を放送開始するなど、この世界は空前の活況を見せていましたが、ロック世代とは層が少し違っていたのか、熱狂的なものではなく深く静かに…と云う感じだったように思います。
 またこの年にはイヴェット・ジローが初来日、その後イブ・モンタンやジャクリーヌ・フランソワなど有名歌手の来日が続きました。

 なだずい分先のことですが…12月29日は「シャンソンの日」です。
 三輪明宏、岸洋子、などがここから巣立ち、その後も多くのシャンソン歌手を世に送り出して、文化の発祥地でもあった銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」が平成2年のこの日に閉店しました。
 シャンソンに少しでも関心がある人にはよく知られ、シャンソンのの普及と日仏友好に尽くして40年…惜しまれながらのフィナーレだったそうです。
 私も元来はフランス映画やシャンソンは好きでしたが、この頃はすでに外野席…で見物していました。
 もうのめりこみませんでしたが、それでもシャンソンの「ばら色の桜の木と白い林檎の木」も、マンボの「セレサ・ローサ」両方ともに、いくら年を取っても、アタマの片隅に残って消えることはありません。
 同じ思いの人は大勢いられるのでは…と思います。
 

 
 




(南山城古塔めぐり)「浄瑠璃寺・三重塔」

2006-10-09 05:21:04 | 旅 おでかけ
  こんもりとした緑に包まれた木立の中に、国宝の三重塔はひっそりと佇んでいました.この塔は1178年治承2年(1178年)に、京都の一条大宮から移築されたものといわれますが、正確なことはよく判りません。
 この塔は少し低いのと周りの樹木が高いので、なかなか全景を写真に収めるところがありません。撮影にいい場所を探して周囲をうろついていたら、突然大雨が降ってきました。
 慌てて塔の下へ雨宿りに駆け込むと、すでに先客あり…それが美人の女性の方で、文字通りの「駆け込み寺ですね」と顔を見合わせて大笑い…夕立もなかなか止まないので、四方山話しでもしながら雨が上がるのを待ちました。
 女性の方は「仕事で徳島から大阪へ来たので、このお寺を目指して来ました」とのこと…それはまた何故…と聞くと「徳島は阿波浄瑠璃の本場ですから、このお寺の名前に惹かれました。それと堀先生も作品に書いていおられましたし…期待に違わず静かないい感じのお寺で、お参り出来て本当によかったです」と云っていられました。
 
 私も前に読んだ堀辰雄の小説の中で、このお寺のお守りをしている少女と、彼の奥さんとの対話を綴っていたのを思い出しました。
 少女は「この辺はしょうもないとこでっせ。筍やワラビなどばっかり食べて、お魚などは食べたことない…」とか云ってたように思います。
 この鄙びたお寺が遠来の参詣者を惹き付けるのは、この美しいお寺の名前とともにどことなく、文学的な香りが漂っているからでしょうか。
 




(南山城古塔めぐり)「雨の浄瑠璃寺・宝池」

2006-10-09 05:19:56 | 旅 おでかけ
 雨もなかなか止まないし外へも出られないし、四国の女性と家内が話しを始めたので、私は家内の「日傘」をさしてその辺を散策ことにしました。
 三重塔から本堂に戻る道筋に大きな池があります。この池の近辺はは浄土式庭園と云われ国の史跡、特別名勝に指定されています。
 これは宇治の平等院にも見られるように平安貴族の間に、広がった末法思想により現実世界に極楽浄土を表現したものだそうです。
 浄瑠璃寺では池の西岸に阿弥陀如来を祀る本堂と、池の東岸に薬師如来を祀る三重塔が残り、平安王朝寺院の雰囲気を伝える貴重なものです。
 薬師如来は東方浄瑠璃世界に住み、現世の苦しみを除く仏であり、 阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主であることから、このような形でに祀られているそうです。
 
 そぼ降る雨の浄瑠璃寺の庵や樹木や宝池に、落ち着いた風情が感じられていい雰囲気でした。
 その内雨も止んだ様子で四国の女性や家内が、三重塔の下から出て来たので帰途につくことにしました。




(映画音楽)「セレソ・ローサ」(映画「海底の黄金)

2006-10-08 00:04:42 | 映画音楽
 この映画は探しても無駄か…多分出て来ないだろうな…と思いながら探しましたが、見事に「徒労」と云うか「空振り」に終わりました。
 あの妖艶なグラマー・スターのジェーン・ラッセルが、水中シーンで大活躍…と云う、まぁ毒にも薬にもならない娯楽映画の一つでした。
 映画自体は図書館のキネマ旬報でも探せば、出てくるはずですので映画の方は別にどちらでも良くって、今日はこの映画に挿入された主題曲で若かりし頃に爆発的に流行した、マンボの中でも不滅の名曲ともいえる、「セレサ・ローサ」ついて触れて見たいと思います。

 映画「海底の黄金」を知らなくてもマンボ「セレソ・ローサ」を知らない人は少なかった…と云ってもそれは半世紀も前の話です。
 この曲はマンボの王様ペレス・プラードの最大のヒット曲として、同じ曲をアレンジした「チェリー・ピンク・マンボ」と共に今でもしばしば耳にします。
 キューバで生まれた新しいリズムのマンボは、瞬く間に拡散して昭和二十年代末期の我が国は、マンボに明け暮れた…と云っても過言ではありません。
 当時のラジオ人気番組の「S盤アワー」のオープニング・テーマに使われた「エル・マンボ」に始まり、「マンボNo5」そして「セレソ・ローサ」でマンボの流行はピークに達しますが、この傾向は歌謡曲の世界にも浸透して、美空ひばりの「お祭りマンボ」が大ヒットしました。

 1955年9月の某誌の人気投票の中間発表でSPレコードの部門の、第1位はペレス・プラード楽団の「マンボNo5」、第2位が「セレソ・ローサ」と人気は抜群でした。
 いつやら私がブログで探しまくっていたシルヴァーナ・マンガーノの「アンナ」が第3位になり、第4位はペギー・リーの「ジャニー・ギター」が入っています。
 第5位はグレン・ミラー楽団の「ムーンライト・セレナーデ」が頑張っていましたが、キューバン・リズムに押されてヒットパレードの中身も大きく変り、従来のジャズ・ポピュラーが大きく後退を始めます。、
 6位が昨日の記事で触れたローズマリー・クルーニーの「マンボ・イタリアーノ」で先日久しぶりにCDを聴きました。
 いずれにしてもマンボが我が国の音楽界に、いかに大きい影響を与えていたか…と云うことを如実に表現していると思います。
 この数十年前のヒット曲が今でも愛されているのは、それなりの理由があるようです。