岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

西園寺公の墓所。

2008-04-04 09:23:44 | 卯之町点描


現在の光教寺にある西園寺公の墓所。

この御廟は、昭和47年に、大洲から移転した墓石も納められるように改築されたもの。

⑫原家の墓参。

2008-04-04 09:09:14 | Weblog


驚いたことに、こんな碑もあった。これは“西園寺公廣卿之墓跡”。

西園寺公廣という武将は、宇和の黒瀬城主にして、西園寺家最後の領主。
その墓が何故、この大洲の地に。どういうことかと言うと、昭和47年に宇和史談会がまとめた資料、及び同61年にまとめられた「後西園寺公広卿並に幕下将士四百年記念誌」によると以下のようである。

時は戦国乱世の天正十五年(1587)、伊予の地は戸田勝隆の所領となっていたが、西園寺公は、十二月十一日大津(今の大洲)の戸田邸に呼び出され、従臣ともども謀殺される。これによって、三百五十年余の長きにわたって南予を統治した西園寺家は滅んだ。
その横死の際の卿の遺骸は、肱川の岸に埋められ、粗末な墓標を立てたものと思われるが、その後洪水などで所在不明となっていた。
その卿の墓石が、元禄二年(1689)十二月十七日、大洲本町の薬種商河野長右衛門によって、向懸屋敷を発掘の際に五輪塔と刀の笄(こうがい)が掘り出された。以来、河野家によって法華寺に改葬され、二百八十余年にわたって連綿と守られていた。

そのことが、昭和45年宇和史談会の知る所となり、翌46年に河野家に宇和への帰還移転(再改葬)を懇願したところ、快諾された由。勿論の事ながら、その際、将来にわたって粗末な取り扱いをしないこと、これまで墓標のあった場所には目印を残しておくこと、が条件提示され、それでこの碑が建てられている。
結局、同年十一月二十八日に、法華寺から宇和光教寺へ墓石の移転が実施された。

⑪原家の墓参。

2008-04-04 07:36:36 | Weblog


法華寺境内に戻るが、この寺には前掲の原千代吉の墓以外にも、由緒のある墓がいくつか。

その中の一つ、細川一(はじめ)博士の墓。

細川氏は、窒素水俣工場の医師として、自身の勤務先である日本窒素の告発に苦悩する。会社と患者の板ばさみで恨みを買うことも多々あっただろうと推測する。
大洲高校の近くには、今も細川家が現存する。