驚いたことに、こんな碑もあった。これは“西園寺公廣卿之墓跡”。
西園寺公廣という武将は、宇和の黒瀬城主にして、西園寺家最後の領主。
その墓が何故、この大洲の地に。どういうことかと言うと、昭和47年に宇和史談会がまとめた資料、及び同61年にまとめられた「後西園寺公広卿並に幕下将士四百年記念誌」によると以下のようである。
時は戦国乱世の天正十五年(1587)、伊予の地は戸田勝隆の所領となっていたが、西園寺公は、十二月十一日大津(今の大洲)の戸田邸に呼び出され、従臣ともども謀殺される。これによって、三百五十年余の長きにわたって南予を統治した西園寺家は滅んだ。
その横死の際の卿の遺骸は、肱川の岸に埋められ、粗末な墓標を立てたものと思われるが、その後洪水などで所在不明となっていた。
その卿の墓石が、元禄二年(1689)十二月十七日、大洲本町の薬種商河野長右衛門によって、向懸屋敷を発掘の際に五輪塔と刀の笄(こうがい)が掘り出された。以来、河野家によって法華寺に改葬され、二百八十余年にわたって連綿と守られていた。
そのことが、昭和45年宇和史談会の知る所となり、翌46年に河野家に宇和への帰還移転(再改葬)を懇願したところ、快諾された由。勿論の事ながら、その際、将来にわたって粗末な取り扱いをしないこと、これまで墓標のあった場所には目印を残しておくこと、が条件提示され、それでこの碑が建てられている。
結局、同年十一月二十八日に、法華寺から宇和光教寺へ墓石の移転が実施された。