明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

2011年03月30日 15時01分21秒 | エッセイ
いつも「自分は不幸だ」と思いたくない。こう思えば生きていけないし、僕と同じ病気の人も不幸だと周りの人々から思われてしまうから。病気や障害があるという理由だけで、生まれて来なければ良い人間なんていないのだから。 

病気が悪化していく現実はまだ変わらないから、病気と共に生きていくことが大事なんだよ。いつも生死の境にいながら生きているから、心は豊かになっていると思う。人間は精神的に豊かにならなければ、本当の意味で幸せにはなれないよ。 

他人が不幸だと思えることの中からも、意味を見出すことはできるんだ。どんなに苦しいときであっても、笑顔でいると楽になれる。こう思いながら生きていると力が湧いてくる。 

でも周期的に心が沈む日が訪れる。そういうときは溜め込んでいるものを全て出しても良いんだよね。常に頑張れる人間なんていないのだから。生きていれば必ずまた立ち上がれるから。 

これまで身体障害という理由だけでいじめられたり、自殺したいと思ったり、何度も入院して苦しい日々を過ごしたりした。できることが次第にできなくなり、いずれ寝たきりになるこの病気が以前までは嫌でたまらなかった。 

でも今はこの病気の人生は嫌だと思わなくなった。もちろん悲しくなるときはあるけど。未だに病気になって良かったと心から言えないけど、これは死ぬときしか分からないことだと思う。

たまに嫌な思い出が蘇るときがある。でも僕はちゃんと思い出を背負って生きていきたいと思う。たとえばそれが悲しい思い出でも、僕を痛めつけるだけの思い出でも、いっそ忘れたいって願いたくなる思い出でも、ちゃんと背負って逃げないでいれば、いつかそんな思い出に負けない自分になれるって信じている。忘れていい思い出なんてひとつも無いって思いたいよ

今は苦しくても、生きていれば今が思い出になる。そして生きていれば、苦しい思い出に負けない自分になれるから。それを積み重ねていけば、死が訪れたとき、人生全ての出来事は何一つ無駄じゃなかったとはっきり言えるはずだよ。 

いじめられたり、自殺したかったり、病気は不幸だと思っていた過去も僕にとって必要なことだったんだ。人間の弱さや汚さ、苦しむ気持ちを心底味わったから。このおかげで他人の痛みを分かりたいと思う人間になれたよ。 

だから人を愛する人間になりたい。神様から愛されていることを実感した人間は、人間を愛さずにはいられない。孤独は恐いと知っている人間は、人間を愛さずにはいられない。こう信じて生きていきたい。

最後に僕が作った詩を載せます。 

「命」 

もし僕の命ひとつだけで  
この世界を救えるとしたらどれだけ良いだろうか  

でもそんなことは人間にできないから 
大切なのはどう生きるかということでしょう  

歳を重ねていく度に伝えたいことも増えていったけれど  
まだまだちっぽけな僕なんだ  

言葉だけでなく心で人を傷付けてしまったこと 
数え切れないほどある  
これからはもっと広い心を持つんだ  

嫌いな人がいない人はいない 
それでも人が好きだよ 
ひとりで生きる術など知らない 

愛しい人を想う心と愛しい人を想う心が争いを生み出すというのなら  
僕らはそれ以上の心を持たなければいけない  
だから人を赦す勇気を思い出そう  

辛いことが多い人生ならば  
命散る日が訪れる時こそ笑顔(しあわせ)でいようよ  
最後にこの喜びを味わうために僕は生き続けたいんだ  

与えられた命を決して無駄にせず  
二度と訪れない今日を思い出の鞄に詰め込んで 
また明日新しい自分になる

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関係(あい)

2011年03月27日 15時02分53秒 | 作詩
久しぶりに作詩してみた♪ 

今回は初めてキリスト教信仰を背景にした作品を作ってみたけど、単純かつストレートな出来上がりになってしまったよ。(汗

もう少し言葉を綺麗にして、人の心にスっと染み入る深いものを作っていきたい☆ 
あと堅さをなくして、ありのままを表現していきたい。

「惨め」 

神に頼らず  自力で試練を乗り越えようとしたとき 
私は無力を痛感し  惨めな姿になった 
しかし私が惨めになるにつれて  神はますます近づいてこられた 
人は無力なときにこそ  神の慰めを大いに感じるのだろう 

「使命」 

人間の使命とは  最後まで自分の命を使うこと 
だってこの世界に生まれたことが  神からの召命なのだから 
生まれてきた意味は生きてみれば分かる  そう信じていこう 

「ひとりじゃない」 

孤独に泣いていた夜   
今までいくつあっただろう  
その度に明日が見えないと嘆いていた  

それでも朝はやって来る  
そう 生きている限り  
だから明けない夜はないよ  

ねぇ 空を見上げてみて  
境界線なんてどこにもない  
どんな場所にいてもつながっている  

ねぇ 川を見ても同じだよ  
川の水も七つの海へと流れてゆく  
どんな場所にいてもつながっている  

だから僕は生きている時点でひとりじゃないんだ 
今は確かにそう感じている 

瞳を閉じれば   
いつも支えてくれるあなたがいる 
ひとりで生きる術を知らない僕にとって   
あなたの存在は僕を生かしてくれた 

誰かの為に流す涙と汗  
それは全てあなたに捧げたい 
僕が生きているうえでこれ以上の意味はないんだ 

世界は変わり続けるけれど
もう失うものは何ひとつない 
愛さえあれば 
だって愛は神から生まれるものだから

ずっと変わらない関係(あい)でいよう
そんな関わり愛が今日の世界を創っている


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信仰・希望・愛

2011年03月22日 20時59分01秒 | キリスト教
最近感じたこと。 

人生が思い通りにいかなかったり、苦難に直面すると、信仰が揺らいでしまうときがあります。僕もまたそんなときがありました。 

僕は2009年3月~2010年2月にかけて、病気の悪化で二ヶ月ごとに入院し、主治医も悪化の原因が分からず、とても苦しい状態で過ごしました。2009年11月になると一日の半分以上は寝たきりの生活をしていました。しかも受験の年だったので、勉強を頑張れない身体になった自分が悔しかったです。慢性的に身体中が痛くて、寝たきりの時間は何もできないから、苦しかった。。 

でもそんなに苦しい日々でも、信仰と天国へ行く希望と神様や人を愛する思いは神様から守られていました。聖書には「いつまでも残るものは信仰と希望と愛である」という言葉がありますが、まさにその通りなんですよね。この3つがあれば最後まで生きていくことができ、また人生と神様を心から喜んで生きていけるのだと思います。 

神様のなさることを疑わないことが信仰の強さです。でも人間は誰でも神様を疑ってしまうときが必ずあるんですよね。でもよく考えてみれば、僕らが信仰を持ったということは、人間の力によるものではなく、全て神様の恵みによるものですから、どんなことが起ころうとも、信仰と希望と愛は神様から守られるのだと思います。 

時々僕って天国へ行けるのかなぁと不安になるけれど、ちゃんと苦難を忍耐できるように守られているんだね。これからも信仰が揺らぐときがたくさんあるだろうけど、そんなときこそいつも以上にお祈りしていきたい。 

神様は僕らの人生の計画を愛を持ってしっかりと考えておられます。ということは人生に無駄なことはひとつもなく、万事が益となるんですよね。人間が願うことよりも、神様が与えてくださることのほうが遥かに僕らのためになります。これはいつも後になって実感できることだけど。。 

2010年3月に僕の病気を専門とする名医と出会い、人工呼吸器を使用しながら僕はまだ生かされています。自分の願いとは違って、受験は失敗しましたし、今も病気は悪化し、学校・仕事・恋愛・結婚・子育て・長生きなど健康な人のような普通の生活は今は望めませんが、歳を重ねるにつれて、神様の恵みと慰めを大いに感じています。神様の恵みと慰めこそ、人間に真の平安を与えてくれる。 

【コリントの信徒への手紙一 13章4節~13節】 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。  

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。  

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。  

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。  

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、  

わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。  

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。  

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。  

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。  

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 

【追記】 

僕のような重い病気だと行動することが難しいから、愛の実践はあまりできないと思っていたけど、隣人や地球のために祈ることも愛のひとつなのかな。 

でも愛は思いだけじゃダメだから、実践できる人間に変えられていきたいです。今の僕のように思いだけじゃ人に伝わらないからね。。。

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20歳と喜びと希望

2011年03月17日 01時17分43秒 | エッセイ
昨日は20歳の誕生日だった。お祝いのメッセージを送ってくださって、ありがとうございます!!

今は日本中が悲惨なことになっているから、誕生日で浮かれている場合ではないんですけど。
でも自分が元気じゃないと周りの人々を勇気づけることはできないですから、誕生日でエネルギーを補給させてもらいました。

20歳になった僕の目標。それはどんなに苦しいときであっても、陽気さとポジティブさを忘れないこと。そのためにいつも笑顔で生きていきたい。

思えば僕の好きなONE PIECEのキャラクターって、危険な目に直面していても、いつも笑っているんだよね。苦しいときだからこそ、陽気さとポジティブさが必要になるんだ!!

今までの僕は禁欲主義になっていた。どんどん身体が不自由になっていくから、できないことが次第に多くなる。だから「人間的な楽しみを求めても意味がない。いずれ寝たきりになって、遊びも食事もできない身体になるのだから。現代の医学では30代前半までしか生きられないしね。だったらあらゆる楽しみを求めるのは辞めよう」といつしか思うようになっていた。

でもこれでは生きる苦しみしか見えなくなるから、だんだん生きる気力がなくなるんだよね。いつも欲望や苦しみを乗り越えていこう!と頑張っていても、その気力は長くは続かない。なぜなら人生の喜びがないから。喜びがなければ、早く死にたいと思ってしまうのが人間だ。

でも今の僕でも人生を楽しむことはできるんだよね。いずれ何もできない身体になるのなら、今だからこそできることを楽しんでいきたい。まだできることがあるじゃないか!

人生の喜びを感じながら生きているからこそ、本当の明るい人間になることができるんだ。

たとえ何もできない身体になったとしても、クリスチャンには祈りの賜物と神様や隣人を愛する喜びがあるから、きっと大丈夫だよ。

果たして祈りを通して神様に委ねることは無力な行為だろうか。僕はそう思わない。

人間は苦しくなるといつもこの世界に神などいない!と叫びたくなる。

でも祈りの力は偉大なんだよ。生きる力、神様や隣人を愛する気持ち、心の平安などたくさんのものが与えられるからね。

また人から「あなたのことをお祈りしていますよ」と言われると、僕はいつも幸せになれるんだよね。

喜びや幸せがあるからこそ最後まで生き抜いていける。

また人間は自分にできることを見つけたとき、幸せになることができる。

身体が不自由な僕でも、たとえこのまま病気が進行して寝たきりになったとしても、地球のために祈ることはできる。

今回の大災害で被災された方々からすると、今はポジティブになることはできないかもしれない。でも希望は失くさないでほしい。

僕も去年の冬、死に直面した経験をした。病気が急激に悪化しても地元の病院では何一つ分からなかったから、数ヶ月ほど死にかけた状態で生きていたけれど、希望だけは失くしたくなかった。

被災された方々からすれば、僕の死にかけた経験なんて、本当にちっぽけなものだと思うけどね。。。

まだ生きている、今も生かされている。生きているだけでも可能性は残されていると僕は思うよ☆

インタビュー

2011年03月14日 17時35分14秒 | 日常
今日は午前中に「いのちのことば社 クリスチャン新聞」の編集長とお会いして、インタビューを受けさせて頂きました。

ある些細なことがきっかけでお会いしたんです。ちょうどクリスチャン新聞の編集長が福岡へ出張に来ておられたので。

インタビューの主な内容は、「僕と家族のこれまでの人生と信仰の歩み」について。僕の病気のことを中心にしてお話しました。

記事になるか分からないけど、編集長は「今日のインタビューと希さんのブログを見て、考えさせて頂きますね」とおっしゃっておられたので、果たしてどうなるんだろう?

インタビューでこれまでの人生を振り返ってから、改めて実感したことがある。難病という大変な人生でも、神様は信仰と毎日の衣食住というクリスチャンにとって一番大事なものはきちんと守ってくださるんだよね。

ちなみに僕は神様を恨んだ時期もあったけど、祈り続けることによって神様への信頼は回復できるんだ!信仰生活を諦めなくてよかったよ。

確かに病気は悪化していく一方だけど、僕の人生は神様から導かれているんだなぁ。神様が僕に対して作ってくださっている人生のご計画から、僕が踏み外すことは決してないんだ。信仰の道に入ったということは、すでに救いは与えられているのだから。

いずれ自分の本を出版できたら嬉しい。でも僕の日記・詩・小説は堅くて重いから…まだ全く未熟だ。

真面目ではない人でも読んでもらえるような内容、星野富弘さんや水野源三さん達のようなクリスチャンとしての生きる喜びが誰にでも伝わる内容、こういったものにいつかしていきたい。

あと人との出会いも増やしていきたい。一人で勉強ばかりしていてもダメだ。人との交わりがなければ本当の愛は育たないのだから。

これからの人生は全く分からないけど、どのような苦難が押し寄せても、神様が乗り越える力を与えてくださると信じている。

少しずつ人生が動いているような気がする。やっぱり神様のなさることは、すべて時にかなって美しいんだね。

【伝道者の書3章11節】

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は神が行われるみわざを、初めから終わりまでみきわめることができない。

【コリントの信徒への手紙第一 10章13節】

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

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