明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

「阪神地区 西部連合婦人会」の春季修養会で、証し

2015年06月20日 18時47分01秒 | キリスト教
昨日は、神戸市にある板宿教会で行われた、
日本キリスト改革派教会の「阪神地区 西部連合婦人会」の春季修養会で、
証しをさせていただきました。

今回もプロジェクターに、聖書の言葉や大事なポイントを映し出しながら話して、
最後に僕が励まされている賛美のCD「だから今日希望がある」「もうひとつの実を望まれ」を流しました。(*゜▽゜)ノ

あと、今回は初めての取り組みで、
僕がいつも慰められている、改革派教会50周年記念宣言の
『予定についての信仰の宣言』「6 キリストにある選びと聖徒の堅忍」の箇所(一部)を、
話しの最後にお読みしました。(*^_^*)

僕が絶望の苦しみの中で体験した神様の恵みは、
まさにこの文章の通りだなぁと思います。

神様が僕を生まれつきの難病の体に選んでくださったのだから、
神様がどんな試練も乗り越えさせてくださると信じています☆

「保田さんの証しを通して、予定論が初めて心に響いた」と
数名のご婦人から感想をいただいたので、嬉しかったです。

婦人会のみなさま、板宿教会の吉岡先生、来てくださった方々、
本当にありがとうございました!

『予定についての信仰の宣言』「6 キリストにある選びと聖徒の堅忍」

全文を読むには、この文字をクリックしてください

「~わたしたちのうちに救いの業を始められた恵みの神は真実であり、
恵みの状態から全面的にも最後的にも堕落することのないように、わたしたちを終わりまで確実に保持し、
その業を成し遂げてくださいます。
 
慰めに富む神は、選ばれたわたしたちを耐えられない試練に遭わせず、
また傷ついた葦を折ることのないように導かれます。

主キリストはわたしたちの信仰がなくならないように祈り、
聖霊はわたしたちがどう祈ったらよいかわからないときにも執り成してくださいます。

そして、「神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ことさえ、わたしたちは知っています。

神は選ばれたわたしたちの味方であって、艱難も苦悩も、迫害も飢えも、死も生も、
わたしたちをキリストにある神の愛から切り離すことはできません。

この神の恵みの業に支えられて、わたしたちはキリストにつながって、
真の信仰のうちに最後まで堅く堪え忍ぶことができます。

ですから、神の御顔が隠されて闇の中にあるように思われる時でさえ、わたしたちは希望を失いません。

むしろ、選びの鏡であるキリストを見つめつつ、彼にのみ依り頼み、
主の日の礼拝に集い、恵みの手段『聖書に聞くこと、礼典(洗礼式と聖餐式)、祈り』を勤勉に用い続けて、
自分の召命と選びを確かにすることに努めます。

そうすれば、ふさわしい時に、わたしたちは恵みと救いの確信に至ります。

そして、この確信の結ぶ正しい果実である聖霊による平和と喜び、
神への愛と感謝、服従の義務を果す力と喜びが増し加えられます。

さらに、わたしたちは恵みに成長し、神を畏れて聖潔を完成して行きます。
この希望は決して失望に終わることはありません。」



会場の板宿教会



日本キリスト改革派 「阪神地区 西部連合婦人会」の春季修養会で証し



『予定についての信仰の宣言』「6 キリストにある選びと聖徒の堅忍」



婦人会のみなさまと



板宿教会の吉岡先生ご夫妻と



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聖なる者となるように

2015年06月13日 12時26分20秒 | キリスト教
『私を祝福してくださらなければ‐荒削りの信仰者ヤコブの生涯』という本を読んで
印象に残ったことを綴ります。

【新改訳聖書 創世記28章15節】

「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」


「捨てない」というヘブライ語の言葉は「あきらめない」という意味でもある。
神様が捕らえた人を、神様は決してあきらめたり、見捨てたりなさらない。

どんなに失敗して、罪の弱さのゆえに、
目の前の現実に神様の臨在を認めることができなかったとしても、自分で先走った行動に走ったとしても、
神様はあきらめない。あきらめずに訓練なさる。

聖徒として訓練し、魂を取り扱い、神様の御業に間に合う者にしてくださる。

旧い自分の弱さにあって、もちろんそれが正当化されることはない。
決してそれでよしとされることはない。そのまま放っておかれることもない。


私は聖書で罪とされていることを心の中で繰り返し犯してしまう。
もう二度と同じ罪を犯さないようにさせてください、と神様に祈り続けて努力していても、
自分では変わることができなくて、人間は罪に対して無力だから、
自分の弱さに負けて、神様の臨在を感じられなくなる時が多々ある。

でも、たとえそういう時でも、神様はあきらめずに訓練してくださるんだ。
神様は私の罪や弱さを放っておかれることはしないんだ。

必ず神様は私たち信仰者に関わられる。罪や弱さに触れられる。
聖なる神様の民は、聖なる者となるように招かれる。

恩寵の神様は、罪人の私たちをそのまま受け止めてくださるだけではなくて、
私たちが聖なる者となるように勧め、変えてくださるんだ。


だからこそ、自分の弱さに負けたとしても、神様に信頼して祈っていくことが大切なんだと思う。

♪栄光から栄光へと♪




キリストの心が わがうちにつくられる
あなたのように あなたの愛に
生きるものと 変えられる ( x 2)

キリストの心が わがうちにつくられる
あなたの前に へりくだります
わが思い ゆだねます
わが思い ゆだねます

栄光から栄光へと 主の姿に変えられる
御霊なる主よ いま わが心 つくりかえて

この心 わが思い あなたの前に ( x 3)

栄光から栄光へと 主の姿に変えられる
御霊なる主よ いま わが心 つくりかえて

つくりかえて


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不十分な人生であっても

2015年06月02日 20時49分59秒 | キリスト教
スイス人の医師 ポール・トゥルニエ の著作『老いの意味』に、
「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とあります。

多くの人は、人生の中に予期しない出来事を経験したり、意に添わない生活を送ったり、
せっかくの仕事が途中で挫折したり、突然の病に見舞われたりすることもあります。

未完了の仕事を抱えて生きる、これが現実の私たちの人生です。

自らの人生を振り返るとき、
この人生で本当によかった、と言える人はあまり多くないと思います。

特に、生まれつき、あるいは予期しない出来事によって、
自分の責任ではなく、不十分な人生しか送ることができない人にとっては、
この世の価値判断によれば、何のための人生だったのか?という問いを抱えたまま、
死を迎えることになります。

でも、最後には、「私の人生は何だったのか?」「何のために生きてきたのだろうか?」
という問いごと受け入れてくださる神様がおいでになり、
神様が問いごとそっくり未完了の人生を受け取ってくださって、
天国で完成へと導いてくださるのです。

そのことをよく表す言葉に、
「明日が世界の終わりでも、わたしは今日、りんごの木を植える」
というルターの有名な言葉があります。

明日が世界の終わりでも、その向こうに、もうひとつの世界が広がっているから、
今日、りんごの木を植えることができる。

信仰者にとってこれは、究極の神様を信じる終末信仰が言わせる生き方であります。

******************************************

↑は【キリスト教カウンセリングの本質とその役割】より抜粋


僕は生まれつきの難病だ。
この世の価値判断で考えれば、不十分な人生を送っている。

一生懸命、勉強を頑張っていた大学受験のときに、
病気が急激に悪化して、未完了のまま受験が終わってしまった。

今も将来に向けて勉強を頑張っているけど、これからも病気は悪化し続け、
全てが未完了のまま終わるかもしれない。

難病で生きる意味が分かったと言っても、
「僕の人生は何なのか?」「何のために生きて来たのでしょうか?」
と病気が悪化する度に嘆いてしまう。

また、いつも自分の限界を感じる。
自分の愛の不完全さ、自分の出来の悪さ、病気の苦しみなど…。

でも、僕は嘆きの問いごと受け止めてくださる神様を信じている。

「私があなたを生まれつきの難病にしたのだから、不十分な人生でも私は受け止める。
あなたにとって万事が益となるように私は導く。」
と神様は仰ってくださる。

人間は死ぬまで不完全だ。
この世では人間の人生は完結しない。

でも、イエス様は死人の中から復活し、死人の復活の初穂となってくださった。

未完了な人生であっても、神様は、僕らを復活を通して完全な身体と霊に生まれ変わらせ、
完全な世界である天国へと導いてくださる。

神様は聖書にある約束を絶対に破らない方です。

この揺るがない希望があるからこそ、僕は日々を一生懸命生き抜いていけるのです。

未完了の仕事を抱えたまま人生が終わってもいいのだ。
天国で完全になれるのだから。


だからこそ、ルターがしたように、今日も僕はりんごの木ならぬ人生という木を植えていきたい。
神様が与えてくださる信仰・希望・愛を栄養にしながら。
これこそ、人間を作るものだ。

不十分な人生であっても、死ぬときに見えてくる風景があるはずだ。
誰にでも、神様から与えられた使命があるのだから。

でも、使命とは、最後まで命を使わなければ、分からないことだと思う。

神様が良しとして下さったことは、僕も良しとしていきたい。
神様は、僕よりもはるかに、僕のことを分かっておられるのだから。

そして、イエス様が与えてくださる復活を信じている人は、
どんなに人生に絶望しても、必ず復活することができるから、
絶望する勇気さえ持つことができるんだ。

イエス様のみ手に支えられて、暗闇の深みへ落ちないように、イエス様は守ってくださるのだから。


たとえ、僕は若く死んだとしても、死んだ後に滅びない栄光の体に復活して、
神の国で永遠の幸せを感じながら、神様と共に永遠に生きることができるから良いのだと思う。

神様との永遠の愛の交わりが、人間にとって最高の幸せであり、究極の生きる目的なのだから。

イエス様を信じた時から、どんな試練があっても、もう復活の栄光は始まっているんだ。

僕は永遠の命へと復活し始めているんだ。

神様の赤ちゃんとして、オギャ~と永遠の命に生まれていくところなんだ。



【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書 11章25~26節】

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」


【新共同訳聖書 コロサイの信徒への手紙 3章1~2節】

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。

そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。


♪賛美歌404番「山路こえて」♪




 山路こえて ひとりゆけど、
 主の手にすがれる 身はやすけし。

 松のあらし 谷のながれ、
 みつかいの歌も かくやありなん。

 峰の雪と こころきよく、
 雲なきみ空と むねは澄みぬ。

 道けわしく ゆくてとおし、
 こころざすかたに いつか着くらん。

 されども主よ われいのらじ、
 旅路のおわりの ちかかれとは。

 日もくれなば 石のまくら、
 かりねの夢にも み国しのばん


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