こんばんは。
ようやく暖かくなって、待望の春がやって来ましたね。
最近の天気は気持ち良い♪
昨日は有名な大阪造幣局の花見に行きました。
↓がYouTubeにアップされていた、昨日の花見の動画です。
綺麗だったけど、ものすごい人混みで疲れ果てた。。。
あと、今日はもうひとつ。
昨冬から教会の月報に連載している
僕のメッセージ4月分をシェアしますね。
タイトル「産みの苦しみ」
【ローマの信徒への手紙 8章18節~19節(ルター訳)】
「なぜならば、現在の時の苦しみは、
やがてわたしたちに現されるはずの将来の栄光に比べれば、
何ほどのことでもないとわたしは思うからです。
なぜならば、被造物は、神の子たちが現れるのを、
不安に満ちて待ちこがれているからです」
【ローマ人への手紙 8章22~27節(新改訳)】
「私たちは、被造物全体が今に至るまで、
ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、
心の中でうめきながら、子にしていただくこと、
すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。
目に見える望みは、望みではありません。
だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、
私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、
御霊の思いが何かをよく知っておられます。
なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、
聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
クリスチャンの人生は、栄光の神の御国への途上にあります。
イエス様は、私たちを神様に結び合わせ、
死から永遠の命へと復活させて、
神の国の民にする希望を与えてくれました。
クリスチャンは、すでに天に国籍のある者とされ、
今はイエス様を目で見ることはできなくても、
生き生きとした希望を感じることができるのです。
しかし、苦難の日々を過ごしていたり、
思いも寄らない出来事が降りかかると、
悲しみに暮れて、落ち込んでしまいます。
そのような時は、この希望を感じることができないかもしれません。
しかし、今すでに神の国での完全な祝福を保証するものがあります。
それは罪人である私たちが、イエス様を通して、
神様との間に平和を得ているという事実です。
イエス様を信じる信仰によって、
神様の恵みと祝福を感じることができるのです。
神様の御子であるイエス様は私たちの罪をあがなうために、
十字架で死んで下さいました。
まさに十字架は神様の愛のしるしなのです。
この神様の愛が聖霊によって私たちの心に注がれています。
心という私たちをかたち作っている最も大切なところを、
神様はすでに支配しておられます。
イエス様を自分の救い主と信じて受け入れたとき、
聖霊が私たちの心に住んで下さいました。
聖霊は、神様が私たちを愛しておられる事実を
分かるようにして下さいます。
聖霊は、神様のお気持ちを私たちでも理解できるように、
私たちの心に取り次いで下さるお方です。
聖霊の働きによって、
神様が私たちを愛しておられる根拠を信じることができるのです。
だから、神様がイエス様をとおして、
私たちにもたらして下さった大きな愛は揺らぐことはありません。
聖霊をいただいている私たちは、
神様の子供とされているから、
すでに神の御国での救いの完成は保証されています。
しかし、まだこの世では完全な神様の子供として完成していません。
罪や弱さを抱えている私たちは、
復活の身体が与えられて、
救いが完成する日を待ち望んでいるからこそ、
痛みや苦しみのせいで、うめいています。
神の御国で、完全に神様の子供として生まれるために、
この世で産みの苦しみがあるのです。
また、私たちが祈る時に、
苦しくて自分の気持ちを言い表すことができないとき、
自分の内におられる聖霊も、同じようにうめいておられます。
そして、聖霊は私たちの祈りの欠点を補って下さり、
神様にとりなして下さいます。
だから、下手な祈りであっても、
必ず神様に聞き届けられるし、
聖霊と共に祈ることで、
将来の救いの完成を実感することができるのです。
そして、いま苦しみを受けていることが、
すでに将来の栄光が用意されている保証です。
復活の栄光を受けるためには、
イエス様にならって苦難の道を歩む必要があるのですから。
この世の人生で味わう苦難は一時的なもので、
神の御国で永遠に味わう栄光こそ輝かしいものなのです。
もし、私たちが罪深さ・悲しみ・苦しみ・諦めなどに
押しつぶされそうになっても、
心は聖霊によって支配されているのだから、
大丈夫なんだと思います。