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明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

産みの苦しみ

2018年04月13日 18時10分58秒 | キリスト教

こんばんは。

ようやく暖かくなって、待望の春がやって来ましたね。

最近の天気は気持ち良い♪

昨日は有名な大阪造幣局の花見に行きました。

↓がYouTubeにアップされていた、昨日の花見の動画です。

綺麗だったけど、ものすごい人混みで疲れ果てた。。。

 

 

あと、今日はもうひとつ。

昨冬から教会の月報に連載している

僕のメッセージ4月分をシェアしますね。

 

タイトル「産みの苦しみ」

 

【ローマの信徒への手紙 8章18節~19節(ルター訳)】


「なぜならば、現在の時の苦しみは、

やがてわたしたちに現されるはずの将来の栄光に比べれば、

何ほどのことでもないとわたしは思うからです。


なぜならば、被造物は、神の子たちが現れるのを、

不安に満ちて待ちこがれているからです」

 

【ローマ人への手紙 8章22~27節(新改訳)】


「私たちは、被造物全体が今に至るまで、

ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。


そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、

心の中でうめきながら、子にしていただくこと、

すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。



私たちは、この望みによって救われているのです。

目に見える望みは、望みではありません。

だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、

私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。



御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、

御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、

私たちのためにとりなしてくださいます。



人間の心を探り窮める方は、

御霊の思いが何かをよく知っておられます。

なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、

聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」


クリスチャンの人生は、栄光の神の御国への途上にあります。

イエス様は、私たちを神様に結び合わせ、

死から永遠の命へと復活させて、

神の国の民にする希望を与えてくれました。


クリスチャンは、すでに天に国籍のある者とされ、

今はイエス様を目で見ることはできなくても、

生き生きとした希望を感じることができるのです。


しかし、苦難の日々を過ごしていたり、

思いも寄らない出来事が降りかかると、

悲しみに暮れて、落ち込んでしまいます。

そのような時は、この希望を感じることができないかもしれません。


しかし、今すでに神の国での完全な祝福を保証するものがあります。

それは罪人である私たちが、イエス様を通して、

神様との間に平和を得ているという事実です。

イエス様を信じる信仰によって、

神様の恵みと祝福を感じることができるのです。


神様の御子であるイエス様は私たちの罪をあがなうために、

十字架で死んで下さいました。

まさに十字架は神様の愛のしるしなのです。


この神様の愛が聖霊によって私たちの心に注がれています。

心という私たちをかたち作っている最も大切なところを、

神様はすでに支配しておられます。

イエス様を自分の救い主と信じて受け入れたとき、

聖霊が私たちの心に住んで下さいました。


聖霊は、神様が私たちを愛しておられる事実を

分かるようにして下さいます。

聖霊は、神様のお気持ちを私たちでも理解できるように、

私たちの心に取り次いで下さるお方です。


聖霊の働きによって、

神様が私たちを愛しておられる根拠を信じることができるのです。

だから、神様がイエス様をとおして、

私たちにもたらして下さった大きな愛は揺らぐことはありません。


聖霊をいただいている私たちは、

神様の子供とされているから、

すでに神の御国での救いの完成は保証されています。


しかし、まだこの世では完全な神様の子供として完成していません。

罪や弱さを抱えている私たちは、

復活の身体が与えられて、

救いが完成する日を待ち望んでいるからこそ、

痛みや苦しみのせいで、うめいています。


神の御国で、完全に神様の子供として生まれるために、

この世で産みの苦しみがあるのです。


また、私たちが祈る時に、

苦しくて自分の気持ちを言い表すことができないとき、

自分の内におられる聖霊も、同じようにうめいておられます。


そして、聖霊は私たちの祈りの欠点を補って下さり、

神様にとりなして下さいます。

だから、下手な祈りであっても、

必ず神様に聞き届けられるし、

聖霊と共に祈ることで、

将来の救いの完成を実感することができるのです。


そして、いま苦しみを受けていることが、

すでに将来の栄光が用意されている保証です。

復活の栄光を受けるためには、

イエス様にならって苦難の道を歩む必要があるのですから。

この世の人生で味わう苦難は一時的なもので、

神の御国で永遠に味わう栄光こそ輝かしいものなのです。


もし、私たちが罪深さ・悲しみ・苦しみ・諦めなどに

押しつぶされそうになっても、

心は聖霊によって支配されているのだから、

大丈夫なんだと思います。



ヒューブラウン先生

2018年02月22日 19時06分49秒 | キリスト教

日本で宣教師として奉仕されているヒュー・ブラウン先生が、

「田村淳の地上波ではダメ!」に出演した動画を
人から教えてもらったので、シェアします。

10代の時に、北アイルランド紛争の元テロリストだったけど、
刑務所で回心して、クリスチャンになられた方です。

すごく良い証しなので、おすすめします。(*^_^*)

 

 

こちらのサイトには、先生のインタビュー記事がありました。

この文字をクリック

 


神が光の下で言われたことを

2018年02月10日 15時06分28秒 | キリスト教

こんにちは、お久しぶりです♪
 
毎日、すごく寒いので、
体が痛くて、体調を壊してました。。。
 
昔、書いた日記を編集してみました♪
 
タイトル「神が光の下で言われたことを」
 
【V・レイモンド・エドマン】
 
「神が光の下で言われたことを、決して暗闇の中で疑ってはならない」
 
【新共同訳 詩編 139編8~12節】
 
「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。

曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
 
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」

闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
 
 
私たち人間は生きていく中で、不安や恐れ、地獄にいるような試練や苦痛を味わうことがあります。イエス様を信じている人は救われているけど、それでも暗闇の日々を歩むことがあります。
 
地獄や暗闇というのは、死の世界であり、神様のいない世界、つまり神様から引き離された世界のことです。生きていると、「どうしてこんな苦しい目に遭わなければいけないの」と神様から遠く引き離されたような気持ちになる時もあります。
 
でも、天国や地上にも、また陰府(地獄)にも、神様の御子であるイエス様がたどられなかったところはないんですよね。また、イエス様が感じることのできなかった人間の絶望や悲しみはないのです。
 
なぜなら、十字架で死なれたイエス様は陰府(地獄)にまでくだられたのですから。僕たちがどんなにひどい試練の中に置かれ、苦痛と悩みのどん底で何の希望もないように感じる時も、地獄にまでくだられたイエス様は、必ず共にいてくださいます。
 
たとえ地獄を味わっても、イエス様は私たちのそばにおられます。そして、イエス様が共におられるなら、そこは地獄ではないんですよね。
 
どんな暗闇の中にいたとしても、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と光の下で言われた神様の言葉を疑わずに信じていきたいです。
 
確かに、暗闇の中にいれば、目には見えない神様を疑ってしまうときもあります。でも、神様の救いの力は、人間の疑いをはるかに勝るから、その力を信じていくことが大切なのだと思います。
 
 
♪以下の文章は、メッセージの補足で、改革派教会の牧師が書かれた文章の一部です♪

引用元はこちら↓

https://www.kitakobe-christ-church.com/morning_service/detail.php?id=132


~イエス様の「陰府くだり」について~
 
使徒信条では、主は「陰府にくだり」とあります。
 
「陰府にくだり」という一句が、聖書のどこに基づいて加えられたのかは、よく分りませんが、ペトロの手紙一 3章19節(新共同訳)の「霊においてキリストは、捕われていた霊たちの所へ行って宣教され」と関係しているのではないかと言われます。ここは昔から、聖書の中で解釈の最も難しい箇所の一つです。
 
聖書では、陰府と地獄は、厳密に言いますと、違います。地獄は、神に対してあくまで不信仰な罪人が最後の審判の後、行く所であり、永遠に神に捨てられる最も悲惨な状態を指します。一方、陰府は、旧約聖書によりますと、死者が一旦行く死者の世界のようです。しかし、新約聖書では、よく分りません。
 
「陰府くだり」の代表的な解釈を見ておきます。
 
第一は、「捕われていた霊たち」を、ペトロの手紙一 3章20節から見て、生きていた時は、キリストの福音を聞く機会がないまま死んだあと、陰府にいて苦しんでいる人たちと解釈し、そういう人たちの所にも、キリストは十字架の死後、下っていかれ、福音を伝え、救いのチャンスを与えられた、と解釈します。
 
第二は、十字架の死と復活までの間に、イエス・キリストは霊において陰府に下り、罪と死と悪魔に対して御自分の勝利を、また堕落した天使と人間の霊に対して恐るべき裁きを宣言されたとします。宗教改革者ルターがこれです。
 
第三は、アウグスティヌスなどの解釈であり、ここはキリストの十字架の死と復活の間の陰府くだりとは関係なく、聖霊によるキリストの旧約時代の宣教活動を指しているとし、19節の「霊において」は、「聖霊において」と解釈されます。
 
聖霊によるキリストの旧約時代の宣教活動は、Ⅰペトロ1章11節でも言われています。従って、3章19節の「捕われていた霊たち」とは、不従順だったために今は死んで捕われている者たちの霊のことであり、昔、キリストが聖霊によって活動された時には宣教対象だったとされます。
 
僕が属している改革派教会は次のように考えています。
 
『ハイデルベルク信仰問答』
 
問44「使徒信条では、なぜ『陰府に下り』と続くのですか。」
 
答「それは、私たちが最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。つまり、イエス様は、十字架上と陰府に至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた、言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、私たちを解放して下さったのだ、と。」
 
つまり、イエス様の十字架の死は、私たち罪人がそのままだと味わわなければならない永遠の地獄の刑罰を、私たちに代って全て味わう呪いの死であり、イエス様の体が三日間、墓の中に留まったことで、イエス様は恐るべき地獄の苦痛を私たちに代って忍ばれたのです。
 
従って、私たちがイエス様を、神の御子、また、自分の救い主として、心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、もう地獄はありません。「陰府にくだり」と代々の教会が告白してきたイエス・キリストが、十字架により、信仰者から地獄を完全に取り除いて下さったからです。
 
仲間が殺され、明日の命も分からない厳しい時代に生きなければならなかった多くのクリスチャンたちにとって、主は「陰府にくだり」の一句は、どんなに大きな慰めと勇気を与えたことでしょうか。もう地獄はないからです。
 
今日のクリスチャンも、この世で、まるで陰府や地獄のような苦しみに遭うことがあります。でも、忘れてはなりません。どんなに辛くても、イエス・キリストの故に、もう地獄はありません。その意味で、耐えられないような試練は、Ⅰコリント10章13節が約束しますように、決して私たち信仰者に臨むことはありません。
 
♪新共同訳 ペトロの手紙一 1章6、7節♪
 
「それ故、あなた方は、心から喜んでいるのです。今暫くの間、色々な試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちる他ない金より遥かに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」


神様とのつながり

2017年09月06日 11時46分46秒 | キリスト教
日本キリスト改革派の「教案誌 vol. 66」に、
僕のメッセージが掲載されました。
長い文章ですけど、読んでいただけたら嬉しいです。

タイトル「神様とのつながり」

【エフェソの信徒への手紙 1章4~5節】

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、
御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、
キリストにおいてお選びになりました。

イエス・キリストによって神の子にしようと、
御心のままに前もってお定めになったのです。」


イエス様を信じる私たちが受ける最も大きな祝福は、
この世界が創造される前に、
キリストにおいて選ばれたということです。

神様は私たちを天地創造の前に選ばれました。
宇宙が生じる前に、私たちが生まれることを決められたのです。

神様はなぜ私たちを選ばれたのでしょうか。
それは、私たちを永遠に愛するためであり、
神様の前で、私たちを聖なる者、汚れのない者にするためです。

汚れや傷がある人も、汚れや傷がまったく無いようになさいます。
私たちが新しいものへと造り変えられるのです。
神様の子どもとされるために、私たちは選ばれました。

【ヨハネによる福音書1章1節】

「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。」


この神様の言葉は、
愛のみ言葉として、私たちに語りかけられました。
神様の言葉によって、私たちは生まれました。
み言葉のうちに、私たちは生きています。

神様の言葉に守られて、
イエス様を信じる私たちは永遠の命に招かれているのです。

この「初めに言があった」は、
「天地創造の初めに愛があった」と言い換えることができます。

いくら愛があっても、それを相手に伝えなければ、伝わりません。
神様は天地万物をお造りになりました。
じゃあ、なぜ造られたのでしょうか。

それは、神様が愛だからです。
神様は、ご自分の愛を表したいから、私たちを創造されて、
まず天地創造の初めに、私たちに語りかけられたのです。

神様の言葉は、愛です。神様の愛は永遠です。
その神様が、み言葉によって私たちを創造して、
私たちを愛して、天地創造の初めから、私たちに語りかけておられるのです。

では、神様はどのようにして、
私たちに「神の愛」をハッキリと表わされたのでしょうか。

神様のみ子イエス・キリストを、
私たちに遣わしてくださることによって、です。

聖書で神様は、私たちへの愛を証明したい時はいつでも、
イエス様の十字架に目を向けられます。

【ヨハネの手紙一 4章9~10節】

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」


イエス様は「神のことば」そのものです。
「神の愛」を表す最高の言葉・御業として、
イエス・キリストは十字架にかけられたのです。

そして、イエス様を信じる私たちは、神様の子どもとして、
キリストにあって永遠に選ばれたのです。

イエス様の御姿から、十字架から、
「あなたを永遠に愛している」という神様の言葉が、
あふれて、あふれて、私たちを満たします。

イエス様が徹底して、私たちに語りかけて、触れてくださって、
そして十字架で命すら捨てて、私たちへの愛を示し、
「神はあなたたちを愛している」という真理を、
私たちに語ってくださったのです。

【(新改訳)哀歌 3章22節】

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。」


神様は私たちが良い時に愛し、
悪い時に憎むのではありません。

神様の愛は不変であり、絶えず注がれ、
愛することを止めないのです。

そして、【新改訳 イザヤ書 64章8節】には、
このようなみ言葉があります。

「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」


陶器師は土をよく練って、自分が造りたいと思う器を造ります。

練る土は同じですが、陶器師の思いと必要に応じて、
あるものは大きく、あるものは小さく、
あるものは特別な器として、あるものは普通に使われる容器として、
いろいろな器を造ります。

それなら私たちは、神様が自分勝手に使う道具のようなものでしょうか。
多くの人たちが「神の主権は人間の意志を無視するのではないか?」
と疑問に思います。

しかし、安心してください。
私たちの陶器師であられる神様は、失敗のない御方です。

神様は、私たちを自分勝手に造る陶器師ではなく、
必要な尊い存在として造る陶器師なのです。

私たちひとりひとりを一番美しく造られます。

神様の主権は、私たちを絶望的な困難には遭わせず、
乗り越えられない試練を与えません。

神様の愛は、私たちを束縛しません。
神様のご計画は、私たちの人生を最後まで最善へと導きます。

たとえ、自分から見て失敗や挫折がたくさんあったとしても、
その失敗も挫折も、神様のご計画に含まれているのです。

キリストの中で、すべての出来事の意味を知るのです。

私は今までの人生の中で、
難病の試練、死にかけた経験、小学校時代の集団いじめ、
急激な病気の悪化による大学受験の失敗、などを味わってきました。

でも、私の失敗や挫折も、
神様のご計画だったんだ、と今は思えます。

私がキリストにあって、神様の子どもとして生まれ変わるために、
神様から与えられた使命のために、
神様がこのような難病をプレゼントしてくれた、と感じています。

だから、私にとって難病は恵みの試練なんですね。

苦しみとは、神様に委ねるための「痛み」なのだと思います。
なぜなら、人間は神様に委ねるまでは安らぐことはないからです。

私の命は私のものではなく、神様のものですから、
神様のみ心に従うならば、
自分にとって、最も良い人生を歩むことができるんですよね。

神様は、難病を含めたこの私を愛するために、
私を創造してくださり、私の人生を計画してくださいました。

だから、私が難病の人生を生きていくことで、
神様のご計画が実現されていくのです。

自分の苦しみだけを見るのではなくて、
神様のご計画の実現という広い視点から自分の苦しみを捉えたら、
生きる力が湧いてくるようになりました。

私たちの人生は神様によってご計画されていますし、
神様は私たちの人生を初めから終わりまでご存知だからこそ、
私たちは安心して神様に信頼し続けることができるのだと思います。

神様が、この私を望んでくださったから、他に何もいりません。
神様とのつながりさえあれば、どんなに困難や恐れがあっても、
いつも神様の恵み、神様の力の中で、安心して生きていけます。

私はこれからもキリストにあって、
すべての人生の出来事を受け止めて、神様のみ心に従っていきたいです。

【フレデリック・ブロザートン・マイアー(英国の牧師)】

「神の愛は、きのうやきょう、生まれ出たようなものではありません。

また、私たちが神を思った時、
あるいは信じた時に始まったものでもありません。

あなたの生まれ出る前から、カルバリやベツレヘムよりも前から、
いや人類の堕落、エデンの園よりも前から、
ああ、この太陽系が回転する以前から。

そうです! 永遠の昔から、
あなたはキリストのうちにあって愛され、選ばれていたのです。」


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苦しみの意味を見つけられたら

2017年08月03日 17時47分33秒 | キリスト教
こんばんは♪ お久しぶりです。
夏バテで寝たきり生活になっていたので、日記を書く余裕がありませんでした。。

僕が7月16日に出演した
「ラジオ関西 キリストへの時間」の録音が、
番組ホームページに掲載されました♪

タイトルは「苦しみの意味を見つけられたら」です。

よろしければ、聴いていただけると嬉しいです。

録音を聴くには、この青字をクリックしてください

ガラケーでネットをしていて、録音が聴けない方のために、
以下に原稿を掲載します。


【哀歌 3章25~28節と31~33節】

「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。

主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」


「人は意味なくして生きることはできない」という言葉があります。この言葉は、『夜と霧』という本を書いたオーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルの言葉です。人は生きるための意味を必要とします。

人は何をするにしても、自分にとって意味がなければ、すべてを空しく感じるものです。どんな試練の人生を生きるにしても、人生の意味を見つけることができれば、希望を失うことなく、勇気を持って生きることができるでしょう。もし意味を見つけることができなければ、空しく感じるだけだと思います。

どんな苦しみの中に置かれたとしても、その苦しみに意味を見つけるなら、勇気を持って生きることができると、『夜と霧』に書いてあります。

今日お読みした聖書の言葉に、「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい」とあります。

辛い思いを抱え込むようなとき、あえてその苦しみの中に黙って身を置いて、苦しみそのものが語る声を聞けと、この聖書の言葉は勧めているのです。もし辛い思いを持つなら、そのときこそ、苦しみの意味があることを発見できます。

苦しみを背負わされることは、嫌なことです。特に、まだまだ人生はこれからだと思っている若者が、黙って苦しみを背負うのは、なおさら辛いことです。今はまだ苦悩など知らないという若者も、やがて、押し潰されてしまうような重荷を背負って、毎日生きるのが苦しくて仕方がないと思うときがくるかもしれません。

しかし、そのような苦悩の日々を過ごさないといけないときに、人はどうすればいいでしょうか。今日の聖書の言葉は、「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と語ります。苦しいときに、クリスチャンが神様のすばらしさを味わう秘訣は、ただ黙って、神様の救いを待ち望むことにあります。

この世には様々な不条理があり、苦しみもあります。しかし、そのような中で、神様の前で「嘆く」なら、そして、苦しみの意味を神様に尋ね求めていくなら、不思議な慰めが与えられます。神様を信じる人は永遠に見捨てられない、だから、神様の助けをじっくり待て、と聖書は語ります。

自分に背負わされている苦しみを、神様にあって味わう苦しみとして捉えるときに、希望が見えてきます。神様は私たちを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられないのです。私たちが背負わされる苦しみには、神様の目的があるのです。

ちなみに、私はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えています。いま26歳ですが、ドクターからは、余命は残り5~9年だと言われています。いま身体は手の親指だけしか動かせなくて、電動車椅子と24時間ずっと人工呼吸器を使って生きています。今年になってからは、ベッドで寝たきりの日も増えてきました。

でも、難病で重度身体障害者の私が、自分は不幸だと思っていれば、私と出会う人たちから、全ての病の人や障害のある人たちが不幸な人間だと思われてしまいます。そうなれば、私のような人は、生まれて来なければ良かった不幸な存在になってしまいます。

でも、私が生きる希望を失くさないで、喜んで生きていれば、病の人や障害のある人は不幸だと思う人は少なくなると思うんです。私の前向きな生き様を通して、日本におられる病の人や障害のある人を守ることにつながる、と信じています。弱さを抱える人が生活しやすく受け入れられる社会は、全ての人が生活しやすい社会になるはずです。だから、ただ競争するだけの社会から、共に生きる助け合う社会へと展開させる役割が、障害者で難病の私にもある、と思います。こう思えるようになってから、生きる力があふれてきました。

私には、こういう生きる意味があると、長く苦しい日々の中で、神様が教えてくださいました。私の喜びは、神様を信じて、神様を礼拝して、生きることだから、どんなときも喜んで生きていけます。

「神様が良いお方であり、良いことしかなさらない方である」というのは聖書が語る真理です。この真理を見失うとき、私たちは暗闇の中をさまようことになります。苦難には必ず意味があります。神様の目的があります。しかし、苦難の意味することは、すぐに分からないかもしれませんが、必ず意味があることを、聖書の言葉を通して、神様を通して、知ることができます。苦しみを経験した人が、苦しみの意味を見つけたとき、喜びが湧き上がり、生きる力さえもあふれてくるのです。

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