明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

神様のみこころを求める祈り

2016年12月28日 15時40分13秒 | キリスト教
お久しぶりです。。


4年ぶりに風邪を引いてしまって、

しかも扁桃炎だったので、ずっと体調を崩していました。


今はようやく回復したのですが、久々に苦しんだので、

色んなことを思いました。


あと、先月は、同じ難病の2歳上の友人が亡くなったことが大きな出来事です。


僕よりも病気の状態が良くて、体格も体力も勝っていた人だったのですが、

数日前まで普通に元気だったのに、突然の急死。。


思いもよらない訃報だったので、本当に驚きました。


やっぱり僕たちは延命治療をしながら生きていますし、心臓も弱いから、

いつ死んでもおかしくないんだなって改めて思いました。


死と隣り合わせで生きているのです。

でも、それは豊かな人生。


【マルティン・ハイデッガー】


「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、

生きているということを実感することもできない」



僕はこの人生を生き抜いていきます☆


というわけで、僕の原点を振り返るために、

このメッセージを載せます♪


日本キリスト改革派の「教案誌 vol.63」に、

僕のメッセージが掲載されました。

長い文章ですけど、読んでいただけたら嬉しいです。


タイトル「神様のみこころを祈る」

 
【新共同訳 エフェソの信徒への手紙 6章18節】


「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め」


 
聖書は、「どのような時にも祈りなさい」と言います。

これは幸いな招きです。

祈りに対する条件や状況など一切ありません。


常に祈ることを神様はよしとし、

どんな祈りも受け入れてくださいます。


言い換えると、神様は私たちとの交わりを常に求めておられるのです。

私たちには、いつでも神様と話すことができる特権が与えられています。


祈りは、イエス・キリストの御名の権威によって、

天の父なる神様に届けられます。

人間の熱心や努力によって、祈りが聞かれるのではありません。


祈りは、イエス・キリストを通して、確実に父なる神様に聞かれます。


イエス・キリストの御名によってのみ、

私たちは神様の御前に来る特権が与えられ、

神様に祈りを聞いていただくことができ、受け入れられるのです。


祈りは、神様が人間に与えられた素晴らしい特権です。

世界の創造主である神様の御前に出て、話すことができ、

交わることができるのは驚きです。


自分のことを心から愛してくれる恋人や配偶者でさえ、

どんな時も自分の話を聞いてくれるとは限りませんが、

神様はどんな時も私たちの祈りを聞いてくださるのです。



でも、多くの場合、祈りは単に「~してください」と願い事をするだけにとどまり、

自分からの一方的な会話で終わってしまいます。


または、「苦しいときの神頼み」と言いますが、痛みや苦難を経験しても、

どこか自分の力で何とかなると思っていて、

自分の小手先で解決しようとしたり、

上手くその場をしのいでしまったり、

現状に甘んじて、何となく時を過ごしていることはないでしょうか。


神様から答えを待とうとせずに、

祈り終えた次の瞬間、すぐに解決に乗り出し、

自分の行動に出てしまうことはないでしょうか。



しかし、痛みと苦難の中で、神様は私たちを取り扱われるのです。


作家のC・S・ルイスは「痛みは神の拡声器である」と言いました。


苦難を通して、人間の限界を思い知らされ、

いかに自分が無力な存在であるかを示されます。

どこにも行き場がありません。


それで、ようやく私たちは神様を求めるようになり、

神様に近づけられ、神様に身を委ねて、

当たり前の日常では求めることのなかった、本気の祈りへと導かれるのです。



クリスチャンは祈ります。

朝ごとに夕ごとに、習慣的に祈ることも幸いです。

しかし、あるとき、私たちは本気で祈る必要があります。


痛みに押し出されて、とことん神様と話し合い、

愚痴も嘆きも含めた自分の思いをすべて注ぎ出して、

神様と真剣勝負の交わりをするのです。



でも、苦難のただ中で祈るとき、

すぐに答えや助けをくださらない神様の沈黙に対して、

私たちは不安を覚えます。

救いの道が見えないので、不安しかありません。


このような試練は私への裁きであろうか。

神様のことが分からなくなります。

それでも私たちは神様を無視することができずに、苦しみます。


様々な考えが頭によぎり、こころ乱れて、眠ることができません。

見える現実ばかりに目を留めてしまい、ますます苦悩してしまうのです。



でも、クリスチャンには特別な恵みが与えられています。

イエス様を信じた私たちの内には、神様の霊が住んでおられるのです。

神様が祈りを導いてくださるのです。


長く続く真っ暗なトンネルの中で、信仰の揺らぎを感じたとしても、

私たちの浮き沈む心の動きの中に、神様の御手が確かにあるのです。



私は難病のデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えています。


この持病の悪化で、手の親指以外は動かせない不自由な身体になり、

19歳の時に、余命宣告を受けて、人工呼吸器を使うようになってから、

「こんな人生では生きる意味がない」と、ずっと絶望しながら祈っていました。


祈っていても、いつも暗い気持ちでしたし、

「病気を治してください」と自分の願いを主張するばかりで、

私は神様に思いを寄せていなかったので、いつまでも絶望していたのです。


だから、これほどの苦しみの中に置いた神様にいらだちをぶつけ続けました。


ひたすら神様の沈黙を感じる日々でしたが、

それでも旧約聖書のハンナのように祈り続けました。

まさに神様と格闘する祈りでした。


【新改訳 サムエル記第一 1章15~16節】


「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。

・・・私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」



でも、日曜日はいつも礼拝に行き、

毎日のように聖書を読んで祈る中で、少しずつ変えられていきました。


この苦難が長く続き、いつまでも解放されないのはなぜだろうか。

たまたまそうなっているのではなく、

神様が意図的にそうしておられるのかもしれない。


私は自分の直面している苦難と神様の御心を関係づけていきました。


み言葉に目を向けて、

神様の御心に目を留めるように、変えられていったのです。



神様は、聖書の中で、

私たちに対する神様の御心とご計画を表しておられます。


聖書と祈りを通して、

神様が私たちにお話しになることを聞くのが、神様との交わりです。


祈りの時間に聖書を読み、神様の御心をみ言葉から見つけるのです。



神様は、み言葉を通して、語りかけてくださり、

人生に対する神様の御心とご計画を示してくださいます。


祈りとは、私たちの願い通りになることではなく、

神様の御心が実現することであり、

神様のご計画が成就されるために、私たちが変えられることです。


神様は私たちひとりひとりを通しても働かれるからです。

祈りによって、私たちが変えられていきます。



私はこういうプロセスで、聖書と祈りを通して、

神様の御心を受け取り、変えられていきました。


まず、【ヨハネによる福音書 15章】のみ言葉を通して、

難病の自分を受け入れることができました。


それまでの私は自分を拠りどころとしていたのです。

ひとりで生きていける健康な自分、

弱さのない自分、社会で成功する自分、

そういう自分を目指していました。


だから、不自由な体になった自分は、なんと惨めなんだ、

何もできない自分は生きる意味すらない、

と自分の価値を自分で決めていました。

だから、ずっと絶望していたのです。


でも、聖書と祈りを通して、神様の愛を実感できました。


神様が生まれつき難病の私をつくってくださった、

私は神様から望まれて生まれてきた、

私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、

と神様の愛を感じることができました。


そして、「難病の人生を通して神様を伝える。

難病の人生で、育まれる信仰と希望を伝える。」と、

私は難病クリスチャンとして生きる使命を感じるようになったのです。


ここから、少しずつ人生が変えられていきました。


神様のお導きで、

私の難病では世界トップレベルの八雲病院で治療できるようになってから、

それまでのベッドで過ごす生活から解放されました。


そして、神様の不思議なお導きにより、

数多くの教会で集会に呼んでいただき、

また色々な所で、難病の人生を通して、

神様の証しをする機会がたくさん与えられるようになりました。


私の証しを聞いて、イエス様を信じてくださる方々も、

神様は起こしてくださいました。本当に感謝です。



「どのような時にも祈りなさい」というのは、

「絶えず神様のことを考えなさい」という意味なのだと思います。


神様のことをいつも考えるようになるのが、祈りです。


聖書を読み、み言葉を黙想し、神様に思いを寄せて、

神様という御方について考えるとき、不思議に恵みの転換があります。


そうして、私の思いと神様のご計画がひとつになり、

神様の御心を自分の思いとしていけるのです。


解決は、自分の中ではなく、神様にあります。

神様のご計画は、私たちの苦難のただ中でも、確実に備えられているからです。


【新共同訳 詩編 77編12~13節】


「わたしは主の御業を思い続け、

いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、

あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、

あなたの御業を思いめぐらします。」



【口語訳 ヨハネの第一の手紙 5章14節】


「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。

すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、

神はそれを聞きいれて下さるということである。」



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