明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

「ひと×ひと展―知ってみた、やってみた!-」

2011年07月30日 22時40分58秒 | 子どもホスピス
♪BGM♪
掌 / Mr.Children

「君は君で 僕は僕 そんな当たり前のこと
何でこんなにも簡単に 僕ら
見失ってしまえるんだろう?

ALL FOR ONE FOR ALL
BUT I AM ONE
ALL FOR ONE FOR ALL
BUT YOU ARE ONE

ひとつにならなくていいよ
認め合うことができればさ
もちろん投げやりじゃなくて
認め合うことができるから
ひとつにならなくていいよ
価値観も 理念も 宗教もさ
ひとつにならなくていいよ
認め合うことができるから
それで素晴らしい」


今日は、九州大学 大学院 統合新領域学府 ユーザー感性学専攻 福岡子どもホスピスプロジェクトチーム主催の「ひと×ひと展―知ってみた、やってみた!-」に行って来た。

「福岡子どもホスピスプロジェクト」についてはこちら

前回のフォーラムは、「福岡子どもホスピスプロジェクト」はどのような名称・内容にしていくのかということを人前でトークしたけど、今回は僕を含めた難病の青年の日常生活、将来の目標や望み、学生ボランティアと難病の青年のお互いの印象、などを人前でトークした。

全体的な感想としては、健康な人も難病や障がいのある人も同じ人間なのだ、ということを改めて感じた。

以前「レディー・ガガと車椅子」という日記でも書いたことだけど、ただ足が不自由だから車椅子を使っている、ただ自力呼吸ができないから人工呼吸器を使っている、ただ自力で排痰ができないから吸引器を使っているだけなんだよね。目が悪い人や高齢者が眼鏡やコンタクトを使っているのと同じだよ。

それでもやっぱり健康な人と難病の人の生活の質は大きく違う。でも医療・福祉制度や医療機器を充実させて、この違いや差を少しでも縮めて、難病や障がいのある人のQOLを高めていくことが大事だと思う。


公共機関や建物や道路など街の中は、難病や障がいのある人にはまだまだ不便なところがたくさんある。だから難病や障がいのある人が街に出て行って要求していくこと、難病や障がいのある人が健康な人と人格的に交わっていくことで少しずつ改善されていくと思う。

難病や障がいのある人が生活しやすく受け入れられる社会は、全ての人が生活しやすくなる社会になるはずだよ。

逆に難病や障がいのある人が生活しにくく受け入れられない社会は、全ての人が生活しにくい社会になる。


あと難病や障がいがあると言っても、健康な人と同じように、それぞれ性格や雰囲気が違うんだよね。また健康な人と同じように、反抗期があったり、行動していたり、願望があったり、恋愛していたり、ポジティブになったり、ネガティブになったりする。

難病や障がいのある人が飲酒・喫煙をしたり、髪を染めたりすると、「え~!?」という声があるけど、僕はしたいのならすれば良いと思う。ちなみに僕はする気がないけど。

そして「難病や障がいのある人はこういう人間だと、マスコミや国家が勝手に決め付けている」とKさんがコメントしていたけど、まさにそうだなぁと感じた。

だから余計に難病や障がいのある人と健康な人との間に壁ができてしまうんだよね。だから先入観を植え付けられ、距離を置いてしまう人もいる。これは外国人問題や男女問題などにも共通することなんだけど。

大事なことは、10の中の1だけを見て、10は全て同じだ!と判断しないことだよ。


もちろん難病や障がいはひとつの個性であり賜物だから、難病や障がいがあるからこそ感じることもある。でも健康な人と同じことだよ。

人間は、顔かたち・身長・体重・趣味・得意なわざ・苦手なわざ・考えていること・感じていること・性格・宗教などが皆違い、それによって豊かな人間関係を作っている。難病や障がいもひとつの個性なのだから、難病や障がいのある人とない人が混じり合い、補い合うことで、お互いを豊かにしていくんだよ。

長くなったけど、言いたいことは、難病や障がいのある人もない人も同じ人間だということ。

もっと多くの人々が、全国各地にある「子どもホスピス」を作るプロジェクトのことを知って、関わっていき、難病や障がいのある人々と実際に交わってほしいなぁと思う☆

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苦難は神様の歴史 Part3

2011年07月30日 22時38分30秒 | キリスト教
どうして、エレミヤは、40数年間にわたり、背信のユダ王国において、苦難の中でも、神様の御言葉を語り続けることができたのだろう。それは、力の源である全能の神様が、いつも自分と共にいて下さることを信じ続けたからだ。

神様は、いつもエレミヤと共にいて下さることを2回も語って励まして下さった。

『1章8節』

「『彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。」

『1章19節』

「彼らはあなたに戦いを挑むが 勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと主は言われた。」


神様がいつも共にいて下さるからこそ、絶望感や無力感に支配されたとしても、再び立ち上がっていける。神様の御言葉がいつも心を生まれ変わらせてくれる。

聖書は至るところで、「神様が共におられる」ということを語っている。これは人生の真理だと思う。

人間にとって本当の幸せは、「どんな状況や環境の中でも、神様は自分と共におられる」ということを知ることだ。自分をお造りになった神様のもとに帰ること、聖書を通して神様の御言葉に触れること、祈りの中で神様と対話することだよ。

たぶん苦難とは、神様と接触するための「痛み」なのかもしれない。

人間は自分の力ではどうしようもない状況に置かれたとき、素直に「助けて下さい」と祈ることで、神様の慰めを心から体感することができるのだろうなぁ。

神様の慰めを体感したとき、生きていて良かったと思えるようになり、人生が喜びに変わるんだよね。


神様は永遠に私たちと共にいて下さる。これこそが人間にとって一番の幸せだよ。なぜなら永遠に不変の神様が私たちを愛して下さっているのだから。

【ローマ人への手紙 5章5節】新改訳聖書

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


イエス様を自分の救い主と信じて受け入れたとき、聖霊が自分の心に与えられる。この聖霊が、神様が私を愛して下さっているという事実を分かるようにして下さる。聖霊は、神様のお気持ちを私たちの心も理解できるように、自分の心に取り次いで下さるお方だ。

神様が私たちを愛して下さっているという揺るがない客観的な根拠がある。この希望は決して失望に終わることがないんだよ。

【詩編 94編17~19節】

主がわたしの助けとなってくださらなければ、わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。

「足がよろめく」とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。

わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました。

【歴代誌下  16章9節】

主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。

【申命記 31章8節】

強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。

【ヨハネの手紙 第二 1章3節】新改訳聖書

真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。


♪BGM♪
君がいたから / FIELD OF VIEW

作詞 坂井泉水
作曲 織田哲郎

抑えきれない想いや
人が泣いたり 悩んだりする事は
生きてる証拠だね
笑いたい奴らには 笑わせておけばいいさ
僕らは風に吹かれよう

感じ合えば すべてがわかる
言葉はなくても
何度もくじけそうになって
ここまで来たんだ
oh 今 僕らの心は ひとつになる
振り向けば いつも 君がいたから

ドアを開けて中に入ろうとしても
入口が見つからなくて 誰かを傷つけた…
そんな時 友達(ひと)が自分より偉く見えたよ
僕はちっぽけな存在(やつ)だった

まるで鳥になったみたいに
自由にはばたくよ
何が正しい…何が間違っているのかなんて…
oh 大勢(なかま)の中に居ても 孤独を感じていた…(でも)
目を閉じると そこに 君がいたから

輝く季節(とき)の中で 夢は
藍く染まるだろう
失うものは何ひとつない
愛さえあれば
oh この世界に 踊り続けるしかないのか…(でも)
心の中に 君がいたから

君がいたから / FIELD OF VIEW

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苦難は神様の歴史 Part2

2011年07月29日 13時16分28秒 | キリスト教
エレミヤは、ユダ王国の人々が悔い改め、異教の神々を捨て、真の神ヤハウェに立ち返らなければ、新しく起こってきたバビロン帝国によって滅ぼされると警告し、悔い改めを求めた。

でも当時のユダ王国の王と国民は、悔い改めず、バビロン捕囚を語るエレミヤを激しく迫害する。エレミヤ書を読んでいくと、エレミヤが受けた迫害による苦しみが次々と描かれている。あるとき、エレミヤは捕らえられ牢屋に入れられたり、泥の穴の中に閉じ込められるというような拷問を受けたらしい。

エレミヤを襲った最大の危機は、孤独だった。エレミヤの祈りは、神様への激しい告発となった。

エレミヤのこうした祈りが、11~20章に散在しており、最後は、自分の誕生日を呪う、暗い嘆きで終わってる。

『20章7節以下~』

主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。

わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。

主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。

主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。

『20章14節以下~』

呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。

呪われよ、父に良い知らせをもたらし、あなたに男の子が生まれたと言って、大いに喜ばせた人は。

その人は、憐れみを受けることなく、主に滅ぼされる町のように、朝には助けを求める叫びを聞き、昼には鬨の声を聞くであろう。その日は、わたしを母の胎内で殺さず、母をわたしの墓とせず、はらんだその胎を、そのままにしておかなかったから。

なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか。


エレミヤの苦難は、「神様の御言葉」を語るが故の苦しみであった。だから神様の言葉を語ることをやめようとさえ思ったとも語っている。でも、「神様の御言葉」はエレミヤの内で燃え上がった。

大きな苦難を受けたとき、どんな人でも初めは、「もうこれ以上生きたくない」「生まれて来なければよかった」と思ってしまう。私の場合、病気が悪化するたびに、死の恐怖感と無力感が、それを感じさせる。きっとエレミヤも同じような気持ちだったと思う。

人生には「どうして自分がこんな目に遭わなければいけないの?」と絶望してしまう苦難がある。また神様の愛や救いを信じているが故に、「これが神様が私に用意してくださっている最善の道なの?」と苦悩することもある。自分の人生や世界の出来事が、神様の統治の中にあると言っても、なかなか苦難を受け入れることができない。

でも、エレミヤの苦難に満ちた生涯は、イエス様の受難を暗示していると思う。人間への愛を全うしようとする神様の意志の下に、自分を捨て徹底的に低くなるイエス様の姿が、神様の御言葉を携えて歩むエレミヤの背後に浮かんでくるんだよね。

エレミヤ書を読むと、苦難は、運命の悪戯や悪霊の仕業でも、先祖の怒りや罪の結果でもなく、神様の意志が全うされ、神様の歴史が実現するための、ひとつの道である事が分かる。

そして、神様の歴史には続きがある。一見敗北のように見える、イエス様の受難と十字架の中に、私たちへの愛を貫徹した神様の勝利があること。そして神様の歴史は、やがて復活の勝利に私たち全てがあずかることができる未来へと続いている。



私は難病として生まれて来たことが嫌だったけど、自分の人生は神様のご計画の中にあるのだから、難病のクリスチャンとして生きていくことで、神様の歴史、神様の御心が実現されていくはずだよ。だからこの世界で、希望を持ちながら難病として生き、神様を信じながらクリスチャンとして生きていくこと自体が、神様の御業のお手伝いをしているのだと思う。

人間を一番絶望させるものは無力感だと思う。「何もできない自分は生きていても意味がない」「誰の役にも立っていない」と思い始めると、苦しくなってしまう。

でも神様はそんな弱い自分を愛して下さっている。そして神様の歴史、神様の御心を実現させるために用いて下さっている。なぜなら人間が生きる価値は、自分や人が決めるのではなく、自分を存在させている神様が決めて下さるのだから。

弱い自分であっても、生きる役割を与えて下さる神様の公認の存在だからこそ、自分は生きる価値がある。生きる喜びとは、そのような神様の愛を知ることにあるんだよね。


神様の前では、人間は高価で尊くてかけがえのない存在なのだと思う。だから無力な人間、生きていても意味のない人間などいない。

自分の苦しみだけを見るのではなくて、神様の歴史の実現というダイナミックな視点から自分の苦しみを捉えたら、心が高く上げられた。

【ヨハネによる福音書 6章28~29節】

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、

イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

【使徒言行録 17章26~28節】

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。


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苦難は神様の歴史の実現 1

2011年07月27日 20時41分46秒 | キリスト教
講解書や注解書を使いながらエレミヤ書を通読し終えた。神様の慰めを大いに感じたから、忘れないために感想日記を書いてみる。

~苦難は神様の歴史の実現~

エレミヤの時代は、キリスト出現より6百数十年前で、紀元前7世紀。10部族からなるイスラエルの北王国は、アッシリア帝国によってすでに滅ぼされ、残っていたのは、エルサレムを中心とした2部族からなる南王国のユダ王国だけだった。しかし、そのユダ王国も、真の神ヤハウェから離れ、人々は、カナンの地の異教の神々を熱心に拝んでいた。

それゆえ、預言者エレミヤは、ユダ王国の人々が悔い改め、異教の神々を捨て、真の神ヤハウェに立ち返らなければ、新しく起こってきたバビロン帝国によって滅ぼされると警告し、悔い改めを求めた。しかし、受け入れられず、拒否され、その結果、ユダ王国は、バビロンに攻められ、捕囚され、崩壊した。

そこで、エレミヤは、ユダ王国のバビロン捕囚を悲しみの中で語った。でも、同時に、70年後には、バビロン捕囚から解放され、再び、イスラエルの地に帰れることを希望として宣べ伝えた。

エレミヤの時代は、中近東、オリエント世界の激動の時代で、神の民イスラエルが、アッシリアとバビロンとエジプトの3つの大国間にあって、揺さぶられる時代だったが、エレミヤは、そのような苦難の中にあっても、イスラエルが、目に見えない生ける真の神を固く信頼することを一貫して、訴え続けた預言者だった。

『1章4~8節』

主の言葉がわたしに臨んだ。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」

わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」

しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。


神様は、エレミヤが母のお腹に宿る前から、エレミヤを預言者として御心によって選んでいた。

エレミヤは、20歳前後の「若者」であったと考えられているらしい。年配者が支配する社会において、20歳前後は、まだまだ若かった。神殿で働く祭司も、30歳になってから奉仕ができた。だから20歳前後というのは、とても若く、人々の前に立って指導できる年齢ではないので、エレミヤは尻込みした。

でもエレミヤが自分の年齢と未熟さを理由に、預言者としての召命を拒むのを神様は聞き入れなかった。神様は、一方的にエレミヤを預言者に任命した。預言者イザヤが、自分から進んで神様の召命を受けたのとは正反対だと思う。

神様は、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と約束して、エレミヤを立ち上がらせた。


私もエレミヤと重なるところがある。遺伝子の突然変異による生まれつきの難病になったということは、自分の責任ではない。また自分で望んだわけでもない。

でも私が母のお腹に宿る前から、生まれつきの難病を抱えて生きていくように、神様はお選びになっていた。でも私もエレミヤのように尻込みした。難病で生まれて来たことが嫌だった。

でも神様は、難病のクリスチャンとしての召命を拒むのを聞き入れることはなく、一方的に任命した。たくさんの時間が掛かったけど、神様の御言葉が少しずつ立ち上がらせてくれた。だから今は難病を受け入れることができた。


つづく

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ユースウァーシップ

2011年07月25日 10時28分11秒 | キリスト教
昨日はいつも通っている長丘教会の朝礼拝が終わってから、午後から六本松キリスト福音教会のユースウァーシップ(若者向けの賛美礼拝)に行って来た♪

初めて行く教会だったけど、霊的に満たされ、恵まれた時間を過ごすことができたよ。

礼拝の流れは、賛美→メッセージ→分かち合い・祈り→英語での賛美だった。

ワーシップソングは好きだから自宅でよく聴いているのだけど、人と共に賛美するのは人生初だった。僕が通っている教会はワーシップソングを歌わないからね。

讃美歌も好きだけど、ワーシップソングをみんなで賛美するのは新鮮で楽しかった。僕のように歌が下手でも、神様への愛を込めて歌えばいいんだよね。

選曲も素敵だったから、途中でうるうると少し涙が出たよ。

メッセージは「祈りについて」だった。次のようなことを感じた。

1人静まり、神様への賛美、神様の恵みへの感謝、罪の告白、その次に自分や隣人や社会のために祈る。

また神様は、自分に必要な糧を知っていて下さり、自分の人生の計画を立てておられるのだから、自分や隣人の願いを祈ることはもちろんだけど、何よりもまず大事なことは、神様の御心が叶えられるようにお祈りしていくことだと思う。

祈りとは、神様は自分に何を求めておられるのか、神様の御心は何なのか、自分はこれからどのような人生を歩んでいけばよいのか、ということを時間をかけて確信させてくれるものなんだ。

祈りによって、少しずつ変えられていき、自分の思いと心が神様の御心と聖なる御定めに一致されていくんだろうなぁ。


祈りの中で、神様の御心を確信したと言う人がよくいるけど、確信に至るまでが長い道のりなのだと思う。

だからこそ、疑わずに絶えず祈っていくことが必要になるんだよね。

「祈っても何も変わらない」と祈ることを諦めて、自己流にわがままに行動していくのではなくて、たとえ「これが神様が用意してくださっている道なのかな?」と思ったとしても、日々の祈りを通して神様の御旨を待とうとすることが重要なのだと思う。

やっぱり祈りは、神様と自分との対話だから、自分だけが喋ってばかりいるのではなく、神様のお返事を待っていきたいなぁ。

【フィリピの信徒への手紙 2章13~14節】

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

【マタイによる福音書 6章8~13節】

彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

【ファン・ルーラー】

「キリストがわたしたちにお命じになったことは、神に向かって『われらの父よ』と言いなさいということです。これでお分かりいただけることは、すべての正しい祈りには“話し相手”が存在するということです。

わたしたちは何ものかに向かって祈るのです。祈りとは神へと語りかけることです。

祈りは夢の中を漂うことではありません。あるいはそれは、夢中になって無限の宇宙の中へと自分の魂を注ぎ出すことでもありません。あるいはまた、人間の内面的な心の動きのようなものでもありません。

祈りとは神へと語りかけることです。わたしが神の御前に立つことです。個人として、または教会の一員として、わたしが神の御前に立つのです。

そして、わたしは神と語り合うのです。つまり、祈りとは“対話”なのです」 



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