明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

なぜ病があるのか? 後編

2014年03月30日 18時46分11秒 | 難病のこと
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以上のように、聖書から学んで、心から信じても、神様の子どもであるクリスチャンとして生きる喜びは感じられるけど、やっぱり病の痛みのただ中にいると辛くてたまらないし、苦しみながら若く死ぬことは嫌だと思ってしまう。でも、気付いたんです。

苦難の謎はその理由を問う思いを引き起こします。でも、苦しみの原因を知ろうとしても、答えは得られないし、人間が考えることは苦難の謎への正しい答えとはなりません。

苦難の謎を前にして、僕たちが見つめていくべきことは、苦しみの原因ではなくて、苦しみにおいて神様が、イエス様によってどのような御業を行われるのか、御業によって苦しみにどのような意味が与えられていくのか、なのです。

僕たちのために十字架の苦しみと死を引き受けてくださったイエス様が、苦しんでいる人々を決して見過ごしにはなさらず、寄り添いながら共にいてくださり、苦しみを共に背負ってくださり、ご自身の復活による罪と死に対する勝利と新しい命の恵みを与えてくださる、このイエス様の御業を信じて見つめていくことが、苦難の謎を前にして、僕たちがなすべきことなのです。

そして、イエス様は僕たちと一緒にこの御業を行おうとしてくださるのです。イエス様の御業に加えられて、用いられていくことを通して、苦難の理由が、その原因ではなくて目的と意味が、僕たちに示されていくと思うのです。

僕たちの人生から苦難の謎が消えることはありません。でも、僕たちが苦しみの謎に直面して、それを神様の御手による出来事として受け止めて、神様と向き合っていくなら、イエス様の御業を見つめていくなら、苦難の中に神様の救いの御業が現わされて、僕たちに生きる希望と使命が与えられていく、と聖書は告げているのです。


【マザー・テレサ】

「苦しみは、苦しみそれ自体では虚しいもの。しかし、キリストの受難を分かち合う苦しみは素晴らしい神様からの贈物です。人の捧げる最も美しい贈物は、キリストと苦しみを分かつことができること。そうです。それこそ、キリストの愛の贈物であり、愛のしるしです。なぜなら、御父は、御独り子を私たちのために死に渡されることによって、世を愛しておられることを証されたからです」


病は神様からのものではないと言う人もおられますし、神様に祈り続ければ必ず病は癒やされます、と言う人たちもおられます。もちろん神様の御心なら必ず癒やされると信じています。でも、ずっと祈り続けていても、病のまま亡くなられたクリスチャンの方々を多く知っているし、病のままで生き抜くことが神様の御心だと示された人もいる。

【新改訳 ヨハネ福音書15:16】

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」


僕は自分の病が神様から与えられたものだと確信しています。僕は自分の意志で生まれ、望んで難病になって生まれて来た訳ではありません。ということは、僕は神様からの任命を受けて、難病の体に選ばれた、と感じたんです。神様が共にいてくださって、難病の人生の使命を果たしなさい、と神様が任命して下さったからこそ、いま難病の人生にチャレンジしているんです。

だから、難病の僕は神様の失敗作ではない、僕は神様の深い計画によって創られて、神様が創られた喜ばしい存在として生きている、と思えるようになりました。病も神様の喜ばしい御心によって与えられるんですね。

僕は自分という人間であることが幸せだし、神様が僕をこうお創りになったのには、必ず意味と目的があると信じています。「難病を通して福音を伝えていきなさい、難病の人生で育まれる信仰と希望と愛を伝えていきなさい」という使命が神様から与えられていると感じています。

また、難病は神様から与えられた賜物です。僕はこの難病だからこそ、神様のご栄光をあらわすことができるのです。なぜなら、この難病で生まれて来たからこそ、今の自分の性格や人生になれたし、今まで築き上げて来た人間関係があるからです。

ひとりの命は自分に関わっている人たちに何かしらの影響を与えていますし、もしこの難病になって生まれて来なかったら、今まで自分に関わってくれた人たちの性格や人生が何かしら変わってしまうと思うんです。神様はひとりひとりの人間を用いて働かれますから、神様と隣人との関係から考えたら、僕にとって難病は賜物なのです。

病には次の3つの賜物があると思います。

① 病の苦難を通して神様に委ねることができる

人間にとっての真の救いとは、命を与えてくださった神様のもとへと帰ることです。人の心は神様に委ねるまでは決して安らぐことはないからです。ですから、どうしても神様のもとへと戻らねばなりません。病を含む苦難とは、神様に委ねるための『痛み』なのです。自分ではどうしようもできない苦難のただ中に置かれた時に、初めて人は心の底から神様に委ねることができるのです。

そして、苦難を通して、神様によって生かされていること、隣人との関わりによって支えられていることを体感するのです。人は誰も孤独では生きられません。生きている時点でひとりではないのです。

【新改訳 マルコ福音書10:15】

「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」


「この子どもとは象徴であって、それは拒絶され、軽蔑された人間であり、権力も体力も誇りもなく、非常に弱い立場で人に頼り、援助者のおかげで生きている人を指している」とG・ミュラー・ファーレンホルツは語っています。

この子どもとは、このように存在のすべてを神様のご支配に委ねて、何ひとつ自分に依り頼まない者のことであり、その存在において信仰告白をしている者のことです。病を抱えている人も同様に、何ひとつ自分に依り頼むことができない病の体と心は、神様の視点から捉えると、信仰告白に導く賜物なのです。

【悲しみよ / 水野源三】

悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう
お前が来なかったら つよくなかったら
私は今どうなったか

悲しみよ悲しみよ お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ


② 病を通して痛みを分かち合うことができる

病を抱えているからこそ、病や弱さを抱えている人たちを慰めることができます。痛みに対する憐れみ(隣人愛)は、痛みを共有することによってのみ持つことができるのです。イエス様ご自身が十字架の痛みを背負ってくださり、病の人となられました。ですから、イエス様は痛みに対する憐れみ(隣人愛)と慰めを持っておられます。これをイエス様から与えられることによって、苦しみの中にいる人たちにイエス様の憐れみを伝えて、共に痛みを分かち合い、慰めることができるのです。

【新共同訳 第二コリント書1:4~6】

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。

わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」


神様は、「僕は難病だけど、こう生きている」ことを人に見せなさい、という機会をお与えになったのです。この病を通して、人を助けなさい、ということだと思うのです。

旧約聖書の預言者たち・新約聖書の使徒たち・歴史のなかで迫害されたクリスチャンたちは、僕には想像もできないほどの苦難の人生を送りました。

でも、それは「神様の言葉」を語るが故の苦しみであったのです。苦しみを体験したからこそ、神様の救いの言葉を大胆に伝えることができるのです。福音を伝える人は、自ら福音に生きる人ですから、僕も「神様の言葉」を伝えるために、難病の身体で苦しんでいるのです。そうして、僕の生命の中に信仰が染み込んでいくのですだから。

【ジョージ・マクドナルド】

「神の子が苦しみの果てにあのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためではなく、人間の苦しみもまた、彼のそれに似るためであった」


難病の僕は、イエス様のような生き方、つまり、苦しんでいる人に近づき、その痛みを共に担う生き方に生きる希望を見出したいです。もちろん僕自身が苦しみのなかにある人間だから、人の苦しみに寄り添うことは限界がありますし、体験したことが無くて分からない苦しみもたくさんあります。

でも、イエス様の苦しみに少しでも倣えたら・・・と思います。【新共同訳 ローマ書12:15】「泣く人と共に泣きなさい」という言葉を心から実践できる人は、泣いている相手と同じくらい泣いた人、苦しんでいる相手と同じくらい苦しんだ人なのだと思います。ここに難病の僕が生きる希望があります。

病を含む痛みとは愛を作りあげていくものです。心と体で痛みを感じることで、人の痛みが分かるようになるのだから。痛みの中で生きているからこそ、時が経つにつれ、自分の中で愛が育まれ、馴染んでいき、愛はより深いものになっていくのです。難病の僕を生かしてくれるものは愛なのです。だから僕は難病で苦しんでいるのです。この世は愛を育むためにあり、愛さえあれば失うものは何ひとつないのです。愛は全てを完成させる絆なのですから。

【ウィル・デューラント】

「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、優しくなるかのどちらかである」

【新共同訳 第二コリント書4:8~11】

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」


③ 病の苦難にいる人の証しは力強い

どんな人から見ても幸せな人生を送っている人が神様を賛美しても、人々にとって力強い証しにはなりにくいです。でも、苦難の中にいる人が神様を賛美するとき、「どうしてこれほど苦しい人生なのに、喜びを持って生きることができるのだろう」と人々にとって力強い証しになります。

苦難の中で育まれた信仰は決して枯れることはなく、苦難は信仰を大きく成長させます。クリスチャン同士の人格的な交わりを通して、神様の恵みを味わうことができるのですから、難病の僕の信仰が成長すればするほど、他のクリスチャンの方々の信仰を支えることにもなるのです。

また、人間が生きる価値は、自分や人が決めるのではなく、自分を存在させている神様が決めてくださいます。難病の僕であっても、神様から生きる希望と使命を与えられているからこそ、僕は生きる価値があるのです。生きる喜びとは、そのような神様の愛を知ることにあるのだと思います。だから、自分や人が不幸だと思えることの中からも、意味を見出すことはできるんですよね。不幸だと思われる者に神様の御心と御業が現れるとき、多くの人たちへの証しになるのだと思います。

そして、僕は難病でクリスチャンです。自分は不幸だ、神様が悪いと思っていれば、全ての病の方々やクリスチャンがそういう目で捉えられてしまいます。僕が生きることから逃げれば、病の方々やクリスチャンを危険にさらすことになります。でも、神様から与えられる希望を失くさないで、喜びを持って生きていれば、病の人は不幸だと思う人は少なくなりますし、僕の難病を通して神様の存在を証明することになると信じています。僕の諦めない生き様が、日本中におられる病の方々やクリスチャンを守ることにつながるのだと思います。

【新共同訳 エフェソ書3:12~13】

「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」


僕はこのように難病の人生に意味を見出すことができましたが、病の悪化によって苦しみは増す一方ですし、日毎に何もできない体になっていくのが辛くてたまりません。でも、だからこそ、病の苦しみを通して、僕の体も世界も、罪の悲惨に苦しんでいる、イエス様の十字架の贖いが必要である、ということを体感するのです。僕は病の苦しみでベッドの上に横たわっているとき、心臓の病で闘病された時の熊澤先生の言葉を思い起こします。

【熊澤義宣 牧師】

「全く無力な姿でベッドの上に、横たわっているそのどん底におちこんだわたしをゆるして、血を流してまでもわたしの一番下の所で、ベッドの下でしっかりと受け止めようとされている神の愛が、その十字架の中には含まれている」


【新改訳 ヨブ記19:25~26】

「私は知っている。私を贖う方(イエス様)は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」


聖書が教えている復活の希望がなければ、僕は今ごろ絶望の海の底に沈んでいたと思います。難病の苦しい人生を過ごしたのに、死んだら無になるなんて虚しいだけですから。

スイス人の医師 ポール・トゥルニエ の著作『老いの意味』に、「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とあります。

多くの人は、人生の中に予期しない出来事を経験したり、意に添わない生活を送ったり、せっかくの仕事が途中で挫折したり、突然の病に見舞われたりすることもあります。未完了の仕事を抱えて生きる、これが現実の僕たちの人生です。自らの人生を振り返るとき、この人生で本当によかった、と言える人はあまり多くないと思います。

特に、生まれつき、あるいは予期しない出来事によって、自分の責任ではなく、不十分な人生しか送ることができない人にとっては、この世の価値判断によれば、何のための人生だったのか?という問いを抱えたまま、死を迎えることになります。

でも、最後には、「私の人生は何だったのか?」「何のために生きてきたのだろうか?」という問いごと受け入れてくださる神様がおいでになり、神様が問いごとそっくり未完了の人生を受け取ってくださって、神の国で完成へと導いてくださるのです。

イエス様が与えてくださる復活を信じている人は、どんなに人生に絶望しても、必ず復活することができるから、絶望する勇気さえ持つことができるのです。たとえ、僕は若く死んだとしても、死んだ後に滅びない栄光の体に復活して、神の国で永遠の幸せを感じながら、神様と共に永遠に生きることができるから良いのだと思います。神様との永遠の愛の交わりが、人間にとって最高の幸せであり、究極の生きる目的なのですから。

【新改訳 第一コリント書15:38~44】

「しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」


【苦しまなかったら / 水野源三】

もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった

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なぜ病があるのか? 前編

2014年03月29日 18時46分23秒 | 難病のこと
この記事の内容は、様々な本で学んだことを所々そのまま載せて、プラスして自分の思いを書いたものです。

なぜ神様がおられるのに苦しみや悲惨があるのか?と疑問が消えません。難病の僕は残り約10年(33歳)で苦しみながら死ぬと余命宣告されていますし、若く亡くなられた難病の友人たち(子どもを含む)が何人もいました。なぜ苦しみがあるのか、なぜ自分の責任では全くない遺伝子レベルや生まれつきなどの病で若く亡くなる方々がいるのか、といつも思います。

聖書から考えると、全人類の代表であるアダムの原罪によって人類が堕落したから、あらゆる罪の悲惨と苦しみと死が世界に入ってきました。先祖や両親が犯した罪が原因で病になったというのは聖書の教えではないけど、原罪による堕落がなければ、病も死もありませんでした。

戦争やあらゆる事件のニュースを聞くと、自分や他人の行いと言葉と心を隅々まで見ると、人間の内に罪の血が流れているとしか言いようのないどうしようもない姿に絶望します。

【新共同訳 ローマ書5:12】

「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」


もちろん原罪による堕落は罪を犯した人間の責任ですし、人間を堕落させないように神様はできたのでは?と思うけど、神様は人間を機械仕掛けの人形やロボットのように造らず、自由な意志のある存在として人間を造られました。自由な意志は、神様と人間との人格的な交わりに不可欠なものです。自分の決心で神様に従い、自ら喜んで神様を愛することのできる者として、神様は人間をお造りになりました。

人間はその自由な意志によって、食べると必ず死んでしまう、と神様から禁じられていた善悪の木の実を食べることを自ら選択して堕落しました。

また、「アダムの罪と自分とは関係がない」と感じる人は多いと思います。でも、神様に対して、人間は連帯責任を負うべき存在です。アダムは、全人類の代表として神様との契約(神様に従って生きるという契約)を結び、これを破りました。

だから、アダムを代表とする人類全体が、神様との関係において契約違反者であり、全人類の罪に対する神様の怒りの下にある堕落の状態にあります。

神様は愛であると同時に正義なるお方ですから、あらゆる罪と悪に対して正しく怒られますし、正しく罪をお裁きになります。「アダムの罪と自分とは関係がない」と言っても、現に僕たち人間は、心の中まで探れば日々罪を犯して、罪の悲惨に苦しんでいます。罪のない人はひとりもいません。

【新共同訳 エフェソ書2:2~3】

「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」

【新共同訳 ローマ書3:10~12】

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」


人間は、神様に背を向けて不従順となり、神様との幸いな状態から堕落してしまいました。どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いている人間は、神様の元に自分の力で戻ることができないのです。

人類と世界が取り返しのつかない『死に至る罪』に侵されていることは現実からも明らかです。罪と悲惨は、僕たちがいつまでも留まるべき状態ではありません。そこから救われなければなりません。時に、僕たちは自分で自分をあきらめてしまうことがあります。しょうがない、もうどうにもならない、と自分の無力さや罪に絶望してしまうのです。

【新共同訳 ローマ書7:24】

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」


でも、神様はあきらめておられません。「わたし」に命をくださったのは、神様です。そうであれば、僕たち人間が惨めに死んで行くことをどうして神様は喜ばれるでしょうか。

【新共同訳 エゼキエル書18:32】

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。


全く絶望的な状態にまで堕落した人間を、神様が救おうとしておられるのです。罪の悲惨の中にがんじがらめとなり、罪の奴隷となっている人間が解放されていくこと、それが救いです。

罪の奴隷となっている人間を救うために、神様は愛する御子イエス・キリストを地上に遣わしてくださいました。イエス様は、人間としてお生まれになり、地上での全生涯、とりわけ終わりにおいて、全人類の罪に対する神様の怒りを背負われました。

人間として生まれてくださったイエス様の地上でのご生涯は、誕生から終わりに至るまで苦難の人生であり、ご生涯の最後の十字架において、イエス様の苦難のご生涯が集約されています。

なぜイエス様は十字架で苦しまれなければならなかったのでしょうか?それは、堕落した僕たち人間を救い出すために、イエス様は唯一のいけにえとして、全人類の罪に対する神様の怒りを十字架で背負うためでした。十字架の苦しみは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたほどのものでした。

【新共同訳 ヨハネ福音書3:16~17】

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

【新共同訳 イザヤ書53:2~6】

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」

【新共同訳 マタイ福音書27:46】

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」


神様は、罪人の代表者として御子イエス様を罰して、正義を満足させつつ(貫きつつ)、イエス様を信じる人たちを無罪とされました。「満足」とは、気分のことではなく、罪の赦しにおいて神の正義が損なわれず、むしろ貫かれることです。罪人に対する神様の怒りが解けて、神様に対する人間の恐怖や嫌悪感が解ける時、神様と人間は愛の交わりを回復します。

イエス様の十字架は、罪の贖いにより、神様の怒りを解くと同時に、その深い愛と赦しで、人間の側の神様に対する恐怖や嫌悪感も取り除きました。イエス様によって和解を主導されたのは神様です。イエス様の十字架によって、それを信じる僕たちは神様と和解し、罪と死から救われて、堕落する前に与えられていた神様との永遠の愛の交わりが回復されるのです。

【新改訳 ローマ書5:8~11】

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」


神様の愛する御子であるイエス・キリストが、僕たちの罪のために十字架に掛けられて死んでくださり、墓に葬られて、3日目に死人の中から復活なさった、と信じる人たちは、罪と死から救われて、聖霊が自分の内に住まわれて、神様の子どもとされて、神様との永遠の愛の交わりが与えられます。死んだ後に滅びない栄光の体に復活して神の国で永遠の命をいただく、という約束も与えられます。

この神様の愛は、どれだけ能力があるとか、どれだけ良い行いをしたとかに応じてではなく、イエス様を信じる人なら誰にでも無条件に与えられます。イエス様を信じる人に与えられる最大の祝福は神様との永遠の愛の交わりにあります。これが福音です。

全知全能の創造者なる神様が、こんな汚れた罪人の「わたしたち」を救うために愛する御子イエス様さえ犠牲にされたと、聖書は語ります。この「福音」がある日、本当に喜ばしいものとして受け止められる時が訪れます。

「神様がおられるとは本当だった。イエス様という方は本当に自分のために十字架にかかってくださったんだ!」と信じられる時が来るのです。その時、神様が用意してくださっていた「罪の赦しと永遠の救い」のプレゼントは、真に「わたし」のものとして与えられるのです。

【新共同訳 第一コリント書15:2~4】

「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」

【新共同訳 テトス書3:5~7】

「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」

【新改訳 ガラテヤ書3:26】

「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」


そして、イエス様が再臨される終末のときに、新天新地があらわれて、罪の悲惨に苦しんでいる堕落した世界は完全な状態に再創造されます。世界の歴史が完成する終末のときに、世界の歴史をご計画された神様の素晴らしさが明らかになるのです。神様のご計画の意味を今すべて理解できませんが、堕落した世界の救いが完成する歴史完成の日に、すべての出来事に意味があったことが明らかになるのです。

【新改訳 ヨハネ黙示録21:1~4】

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」


もし世界が偶然にできたのなら、起こる全てのことも偶然です。僕たちはただ偶然に身を任せて生きるほかなく、生きる意味を問うことも無益でしょう。世界はただ無意味な偶然の連続の産物なのですから。

でも、そうではないと聖書は告げています。世界は神様の意志によって造られたのだ、と。そうだとすれば、起こる全てのことも神様の意志によるのです。神様は、万物を永遠の熟慮によって今も保ち、支配しておられる方なのです。

わたしが母の胎内に造られたのは、偶然ではない。わたしが生まれて、今日まで生きてきたのは天の父なる神様の意志による。わたしには、人生には、生きる意味がある!造り主なる神様を「わたしの神、また、わたしの父」として信じるとは、そういうことです。神様は、無力な僕たちの「体と魂に必要なものすべて」を備えてくださいます。空の鳥や野の花にまさって、僕たちを心にかけてくださるからです。

【新改訳 マタイ福音書 6:25~34】

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」


さらに、僕たちが本当に人間らしく、また、神様の御心にかなう者として成長するために必要なことも、全てです。でも、それは、僕たちにとって快いものとはかぎりません。たとえ、『悩み多い生涯』を生きなくてはならなくても、自分にとって苦しい試練に出遭うことがあっても、そこに神様の熟慮があるかぎり、必ず無駄にはならないと信じる。それが父なる神様への信頼です。

なぜそこまで信じられるのでしょうか?この方が「全能の神」であられると同時に、「真実な父」でもあられるからです。神様にとって、不可能なことはありません。神様が「真実な父」として意志される以上、自分にとって苦しい試練になることがあっても、決して無駄になることはない。それが父なる神への信頼です。

僕たちは先が見えないために、全てが偶然のように見えますが、神様は先をかたち作っておられます。

神様の御業は、昔々にではなく、何か奇跡的な出来事においてのみ見られるものでもなく、毎日どこでも見ることができるものなのです。「木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も」すべてが神様の御業です。四季折々の自然界の営みに始まり、毎日のお天気や田畑の様子、日々の食卓から僕たち自身の健康や家計の状態に至るまで、僕たちの身の周りで起こる「すべてが偶然によることなく」もたらされます。

しかも「父親らしい御手によって」すべてはもたらされる。父の手は、子供の将来を見据えて働きます。子供たちに良いものを与えようと懸命になって働きます。時に父の手は、子供の行く手を阻みます。危険を見てとり、そっちへ行ってはいけないと厳しく押し止めます。それでも父の大きな手は子供を優しくしっかりと抱きしめます。父親らしい御手とは、そのような父なる神様の『熟慮と意志』に他なりません。

木の葉のように右に左に僕たちの心が揺れ動く時にも、万事は父なる神様の絶対的なご支配のもとにコントロールされています。そのような父なる神様の御手による御業は、僕たちにどのような信仰の「益」をもたらすのでしょうか。

それは、「逆境においては忍耐強く」なることです。いくつもの逆境や自分自身の弱さと直面しながらも、神様の愛に支えられ続けた使徒パウロは次のことを学びました。

【新改訳 ローマ書 5:3~4】

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」


自己中心でわがままな罪人にとって、思い通りにならない経験をすることは大切です。忍耐することの中で人は謙遜にされ、神様への信頼を学ぶのです。そのようにして「順境においては感謝」する心も生まれてくるのです。

悲しみだけでは人間はつぶれてしまいます。苦悩を突き破るような歓喜の時にはもちろん、平凡でも穏やかな日常に感謝することで、神様への信頼は深められていくはずです。

このようにして培われた現実に働く神様の御業への信頼は、やがて「どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできない」という将来にわたる確信へと僕たちを導きます。

【新共同訳 ローマ書 8:38~39】

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」


旧約聖書の「ヨブ記」には、悪魔の王サタンでさえ、神様の許しが無ければ何もできないと記されています。(ヨブ記 1:6~12)

まして、「あらゆる被造物は神様の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできない」のです。出口の見えない苦しみの中で悶々とした日々を過ごしている時にも、あるいは木の葉のように右に左に僕たちの心が揺れ動く時にも、万事は神様の絶対的なご支配のもとにコントロールされています。

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祖母が主イエスを・・・

2014年03月27日 21時01分51秒 | キリスト教
22~24日は、退院したばかりの体が衰弱してきている93歳の祖母に会うため、大分県佐伯市の老人ホームまで行って来ました。23日は、父が高校生の時に通っていた日本ホーリネス教団の佐伯福音キリスト教会の礼拝に出席し、そこで僕は2度目の証しをさせていただきました。

祖母の命は長くなさそうなので、その日の夕方、祖母を同じ教会に連れて行きました。牧師の井上先生が祖母の手をぎゅっと握りながら耳元で、「おばあちゃんはもうわしは死んでええんじゃとよく言っているけど、本当は死ぬのが恐いんだよね?」「天国に行く準備をするために、イエス様を信じましょう?」と福音と共に語りかけて下さり、驚いたことに、祖母は泣きながら「はい。そうします。」と素直に告白して、イエス様を信じ受け入れてくれました。

その後、井上先生が【ヤコブの手紙 5章14~15節】「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」の御言葉を読み、祖母の頭にオリーブを塗り、祈って下さると、祖母の表情が安心してすっきりしたんです。。

ちなみに、祖母はずっと僕たちに「キリスト教なんぞ信仰して、教会に遊びに行っとるなんて、お金の無駄遣いじゃ。」と言ったり、お金を神様としている頑固な人で、何十年もイエス様を信じることを頑なに拒否し続けてきました。ずっと祈り続けていましたが、この日が訪れたことは、まさに神様のお導きだと実感しました!

これから受洗準備の学びを先生が始めてくれます。本当に感謝です!ハレルヤ!





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誕生日

2014年03月20日 19時25分00秒 | 日常
15日は、多くの方々が誕生日のお祝いメッセージを送って下さって、ありがとうございました。神学校の試験が終わったので、これから一人ずつ数日にかけてお返事していきます。待ってもらえると助かります。

23歳になりました。歳を重なるごとに、病の体は死に向かって衰えていくけど、天国で完全な神の子となる未来を目指して、霊的には栄光から栄光へと造り変えられている。数年前までは癒しの祈りが嫌いだったけど、2年前から癒しの祈りも始めた。病が治る治らないかは神様の御心によるけど、日毎にクリスチャンは霊的に死んで生まれ変わっているのだから、霊的な癒しはいつも起きているんだよね。

霊的に生まれ変われば、祈りの中で神様との交わりがますます親密になるし、新しい自分になって、神様のご臨在とご栄光をあらわす者になっていく。そのために、イエス様の十字架と復活に生きたい。自分の十字架を背負うことで、どんなに苦しくなっても、イエス様が必ず復活させてくださると信じよう。ただ僕は人間関係が下手くそだから、そこは努力しないといけないなぁ。

【口語訳聖書 イザヤ書 50章10節】
「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか」





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僕にとって難病は献身の道

2014年03月13日 21時09分31秒 | キリスト教
【ローマの信徒への手紙12章1節】

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」


今の僕は献身について熟考することが必要だ。

聖書における献身とは、「神の召命に応えて、神の御心のままに生きるべく、自らの意志を明け渡して、その身を献げること」とキリスト教辞典で定義されている。

自分が置かれている場にあって、神様の御心に生きるべく、その身を献げる。

難病の進行で、以前は当たり前にできていたことができなくなる。
だから、できていた過去の自分や健康な他人がすごくうらやましくなるし、これから先できなくなることが恐くなり、今しなきゃ!とすごく焦ってしまう。

そうして、30代で死ぬ、早く死へと向かう自分の難病が永久に変わらない欠点と思えてくる。
こう虚しくなったら、どうすりゃいいの?

でも、欠点を愛してこその幸福だ。
空っぽの自分になった時、神様の慰めに満たされることで、欠点と思える難病が賜物へと姿を変えるんだ。

僕の難病は神様から与えられた召命だ。
ならば、神様の召命に応えて、神様の御心のままに生きたい。

諦めに支配される時があるけど、難病の召命を与えられたのだから、積極的に献身の道を歩みたい。

自らの意志と人生を明け渡し、自分の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるんだ。
できなくなったことや動かなくなった体の部分は、神様にいけにえとして献げたものだ。


だから、できなくなったことを嘆かない。
これから先できなくなることを思い煩わない。

この続きとして、『↓の日記』も読んでもらえると嬉しいです。

この青字をクリックしてください 『何もできないような病の身体であっても』

♪賛美♪




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