明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

何もできないような病の身体であっても

2014年08月27日 14時49分29秒 | キリスト教
24日に、僕が出演した「キリストへの時間(ラジオ関西)」の録音が、以下のホームページに掲載されました♪
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ガラケーでネットをしていて、録音が聴けない方のために、以下に原稿を掲載しました。<(_ _*)>

(こちらをクリックしてください) リンク先 「キリストへの時間」 8月24日


タイトル「何もできないような病の身体であっても」

【新共同訳聖書 ローマの信徒への手紙12章1節】

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」


先週はイエス様の憐れみについてお話しました。イエス様は私たち人間を罪と死から救うために、十字架でご自身をいけにえとして献げられました。イエス様のおかげで、私たちイエス様を信じるクリスチャンは、信仰により救われ、罪が赦され、復活の命が与えられ、聖霊なる神様が心に住まわれ、神の子とされました。イエス様にあって数々の祝福が与えられました。私たちにはこのような憐れみが与えられて、神様の愛を受けているのですから、神様の愛にかりたてられて、自分自身を神様に献げて生きることが大切です。

今日の御言葉にある「なすべき礼拝」「なすべき」という言葉は、原文ギリシア語では「ロギコス」です。「ロギコス」「霊的な」という意味です。聖書で「霊的な」と言う場合、それは「神の言葉に基づいた」という意味です。つまり、礼拝とは、神様の言葉に従って自分を献げることなのです。

神様に自分を献げて生きることは神礼拝そのものです。クリスチャンは心だけでなく、自分の身体も、自分の全てを神様に献げます。今日の御言葉にある「聖なる」とは、神様のために取っておかれたという意味ですが、クリスチャンにとって毎日の生活のすべては神様のために取っておかれるものなのです。

私たちはこの世に生きていながらも、この世に属するのではなく、イエス様によって救われた神様の子どもとして、新しい人生を生き始めています。だからこそ、聖書を読むたびに、祈るたびに、教会の礼拝に集うたびに、神様の子どもとしての生き方を繰り返し示されながら、私たちの暮らす社会で毎日の生活のすべてを神様に献げるのです。学校にあっても、職場にあっても、家庭にあっても、病院で入院していても、私たちは神様のものなのです。毎日の生活が礼拝だと思って神様のご栄光をあらわしていくのです。

旧約聖書時代の動物のいけにえは、イエス様がご自身を献げられたことによって、永遠に不要になりました。しかし、自分を献げる生けるいけにえは、常に求められています。

いけにえが神様に喜ばれるためには、神様の御心に一致したものでなければなりません。クリスチャンは聖書の御言葉と祈りを通して心を新たにでき、毎日の生活が神様の御心と一致して、自分が神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとなるように、生き方が変えられていきます。

私は御言葉と祈りを通して生き方が変えられていると感じています。私はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病を抱えています。この病は遺伝子の異常により、次第に全身の筋肉が壊れてゆく進行性の難病で、現代の医学では治療法がありません。今の身体の状態は、人工呼吸器がなければ命を維持できません。自由に身体を動かせるのは手の指だけです。余命は残り12年です。

病の進行で、ますます身体が動かなくなって、以前は当たり前のようにできていた事ができなくなります。それが死ぬまで繰り返されます。だから、これから先、ますます身体が動かなくなることや早く死ぬことが恐くてたまらなくなります。

だから、数年前までは病の自分が嫌いでした。こんな何もできないような病の身体で、毎日の生活を通して神様のご栄光をあらわしていくことは無理だと思っていたんです。早く死へと向かう自分の病が永久に変わらない欠陥だと思っていたんです。

私は病の進行でますます身体が動かなくなることや早く死ぬことが恐くて、いつも思い煩っていましたが、自分の意志と人生を明け渡して、自分の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるんだ、できなくなったことや動かなくなった体の部分は神様にいけにえとして献げたものなんだ、と思うようになったら、思い煩いから解放されました。

そして、いつも御言葉と祈りを味わい、神様との交わりがますます親密になることで、新しい自分になって、神様のご栄光をあらわす者になっていけるのだから、何もできないような病の身体であっても、毎日の生活を通して神様のご栄光をあらわしていけるんだと思えるように変えられました。

歳を重なるごとに、私の病の体は死に向かって衰えていくけど、天国で完全な神の子どもになる未来を目指して、霊的には栄光から栄光へと造り変えられていることに、感謝を献げられるように変えられました。私にとって神様に自分を献げて生きることは本当に喜びなんですね。


では最後に「生きた供え物として」という賛美をお聞きください。

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憐れみ深いイエス様

2014年08月22日 22時11分33秒 | キリスト教
17日に、僕が出演した「キリストへの時間(ラジオ関西)」の録音が、以下のホームページに掲載されました♪

(こちらをクリックしてください) リンク先 「キリストへの時間」 8月17日

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タイトル「憐れみ深いイエス様」

【新共同訳聖書 ヘブライ人への手紙 2章17~18節】

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」


今日の御言葉に大祭司とあります。祭司はイスラエルの民が神様を礼拝するために、すべてを取り仕切る集団として神様から選ばれました。大祭司は祭司集団のトップの存在です。旧約聖書の時代では、神様を礼拝し、神様の前に近づくためには、祭司という仲介者なしにはできませんでした。当時は神様を礼拝するためには、犯した罪のためのいけにえとして、動物の血が献げられる必要がありました。なぜなら、ヘブライ人への手紙9章22節で書いてあるように、「血を流すことなしに罪の赦しはありえない」からです。

動物は罪人の身代わりに死にましたが、それは不完全ないけにえであったので、何度も何度も献げられる必要がありました。しかし、今は約2000年前にイエス・キリストが十字架でご自身を一回限りの完全ないけにえとして献げてくださったことにより、私たちはイエス様によって、神様を礼拝し、神様の前に近づくことができるのです。動物のいけにえは、私たちの罪が赦されるためのイエス様の犠牲を前もって表していたのです。

大祭司イエス様の役割は、神様の前で人間たちを代表して、「民の罪の償いをする」ことであり、その償いの目的は人間の罪によって引き起こされた神様と人間との破壊された関係を回復することです。イエス様は、大祭司となって民の罪を償うために、「すべての点で兄弟たちと同じようになられ」ました。

イエス様は私たち人間の受ける苦しみをすべて味わい尽くされて、私たちの苦しみをすべてわかってくださるお方です。今日の御言葉に、「憐れみ深い」とありますが、ここでの憐れみは、人間の状態の中にどっぷりと浸ることを意味します。


人間をよく理解するために、人間の弱さに寄り添うために、イエス様は私たちと同じ弱さの中にある人間となってこの地上に来られました。そして、あらゆる試練や苦しみを経験なさいました。

肉体の痛み、渇き、飢え、辱め、愛する人からの裏切り、離別、孤独、不安、恐怖、十字架にかかる犯罪人としての死、言われ無き罪を着せられる苦しみ、人間としての尊厳をはぎ取られた死・・・イエス様は私たちの苦しみを、人間の苦しみの極みを、すべて味わい尽くされたのです。だから、イエス様は私たちの苦しみをご自分の痛みとしてすべて理解して寄り添うことがおできになるのです。イエス様は試練を受けて苦しまれたから、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

イエス様は何ひとつ罪を犯されませんでした。しかし、全人類の罪をすべて背負われて、私たち人間に代わって、私たちの罪の償いをするために、ご自身をいけにえとして十字架におかかりくださったのです。それで神様は、イエス様のゆえに心をなだめられ、人間の罪によって引き起こされた神様と人間との破壊された関係を回復されたのです。

大祭司は神様の前にいけにえを持っていく人でした。イエス様は復活して、十字架の上で成し遂げた御業を持って、天に帰られました。イエス様は、私たちがどんな試練に会っても、その中から私たちを救うことのできる大祭司となって、いま天にいらっしゃいます。そして、私たちが試練や苦しみに押し潰されることなく、神様の子どもとして生きていく全ての必要な助けを与えておられるのです。

進行性の不治の難病を抱えている私は、人工呼吸器で生きていますし、今後さらに症状が悪化して、医者からは余命12年と言われています。私は痛みや孤独、精神的な苦しみを経験するとき、共にいて、そばにとどまってくれる人を求めたくなります。しかし、私たち人間は苦しみを嫌って避けるものですから、他人のために、他人と共に苦しむ人がいるでしょうか。

しかし、イエス様は私たちの兄弟となってくださいました。憐れみ深いイエス様は、私たち兄弟姉妹に対して、自ら進んで共に苦しんでくださいます。イエス様は、私たちの苦しみに心を動かされ、その苦しみに全面的に寄り添ってくださるお方なのです。

私はイエス様の憐れみ深さを経験してから、自分を卑下すること、他人との比較、他人への妬みから解放されて、自分の病や苦しみを恥とせず、ありのままを受け入れて生きていけるようになりました。これこそイエス様の憐れみが与えてくださる生き方だと思います。

では最後に、「だから今日希望がある」という南米の賛美歌をお聞きください。

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感動の洗礼式

2014年08月18日 22時01分13秒 | キリスト教
昨日はアドラムキリスト教会へ行き、Tさんの洗礼式に出席してきました。

Tさんは、3月にこの教会でした僕の証しがきっかけのひとつとなって、毎週礼拝に来られるようになりました。
僕の証しがイエス様を信じるきっかけのひとつとなったことは、初めての経験だったので、この洗礼式はまるで自分のことのように嬉しかったですし、Tさんが涙しながら救いの証しをされていたので、僕も涙しました。。

洗礼式で僕は、「Tさんが、真面目に生きるのはどれだけ辛いことかよく分かった、と先ほど言っていましたが、本当にそうで、神様を信じるクリスチャンの生活は頑張らなくて良いんですよね。神様の言葉である聖書を読んで、日々お祈りしていくだけで、変えられていくのだと思います。」とTさんにお伝えしました。

また、Tさんの義理の息子であるRくんの「照れくさくて、いつもおっちゃんと呼んでいたけど、今日は初めてお父さんと呼びたい。お父さん、洗礼おめでとう。今まで迷惑をかけてばかりで、お父さんごめん。これからは親孝行したい。」という言葉に泣きました。

感動の洗礼式でした!
6月に僕の祖母が洗礼を受けたときも感じましたが、イエス様を信じるだけで、永遠の救い、祝福、和解、癒し、平安が値なしに与えられて、本当に変えられていくんですよね☆

ハレルヤ!感謝します!アーメン!

Tさんの家族と教会のみなさんの長い間の祈りがあったからこそ、昨日が訪れたんですよね。
「主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」という神様のみ言葉は真実です。ヽ(^◇^*)/





Tさん



Rくん

野田牧師

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終戦記念日におもう独り言

2014年08月15日 22時32分40秒 | 日常
終戦記念日におもう独り言。戦争を起こすのはいつも僕たち市民。世論の支持がなければ、為政者は戦争を起こすことはできないのだから。確かに、人間は罪人だから、戦争はなくならないかもしれない。でも、戦争が必然的だと決めつけると、戦争反対が言えなくなる。だから僕は戦争反対ありきです。

戦争は人間を破壊する。もし僕が兵士として戦場に行けば、殺人に快感を覚えるだろう、略奪もするだろう、強姦もするだろう。現実にそういう兵士が多くいる。どんなに厳しい訓練を受けても、善良な人たちでも、破壊される。戦争は人間を悪魔にする。だから僕は絶対に兵士になりたくない。戦争へ行くことを拒否して殺される覚悟が僕には必要だ。 この覚悟を常に思い起こそう。平和を祈りつつ歩もう。

【加藤周一】民主主義に大切なのは、J・S・ミルが「自由論」で書いているように、少数意見の尊重である。しかるに日本は全会一致こそ民主主義だと思い込んでいる。戦争反対の声を徹底的につぶしてしまった権力は敗戦の決断にどれほど手間取ったか。その被害はどんなに大きかったか。翼賛体制は惰性がついてしまい、すぐに方向転換が出来ないことを思い知るべきだ。




「セカイ」の中に虫は入っていない
「世界」の中に僕は入っていない

THE WORLD PEACE WAR(世界平和戦争)
猟奇的な一般の市民は「世界」中で血の雨を降らし
「セカイ」中で一つになってこういうんだ「世界平和」


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祖母のお葬式

2014年08月05日 21時09分22秒 | キリスト教
先週は94歳の祖母のお葬式がありました。
今年の3月に、佐伯福音キリスト教会の牧師先生の導きによってイエス様を信じる告白をして、先月に洗礼を受けた祖母、本当にギリギリセーフで良かったなぁと思います
亡くなる前日に大好物のお寿司を食べることができて、最後は苦しむことなく眠るようにして亡くなった、と施設の方が言っていました。

イエス様を信じる生活はわずか数ヶ月でしたけど、祖母が若い頃に祖父は太平洋戦争で亡くなって、それまでお金を神様として自分一人でがんばって生きてきた90数年でしたから、ギリギリセーフであっても救われて、この数ヶ月は神様と共に歩むことができて本当に良かったです。。

死別はとても悲しいですが、クリスチャンには神の御国で再会して永遠に共にすごすことができる希望があるので、お葬式の時も不思議なくらい平安を感じることができました。



今はこの賛美に慰めを受けています。




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