明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

止まっていた時計が今動き出した

2009年06月30日 20時36分17秒 | 日常
♪BGM♪
止まっていた時計が今動き出した/ZARD
「まわり道も 意味のある修行(おしえ)と気付く日が来る
きっとどこかへと つながっている」

こんばんは♪

一昨日までは憂鬱な気分になってましたが、またいつものようにポジティブになりました。(^^ゞ

やっぱり体調不良の時は心も憂鬱になるみたいです。(><;)

最近は湿度が高かったので、無理もないかな?
梅雨は病気者には1年で1番きついです。。

エアコンのドライ設定をしたら、少しずつ部屋の湿気がなくなるので、朝はしんどいですが、昼から元気になる毎日です。

やっぱり体の疲れがなくなると、ポジティブになるんですね。
逆に体が疲れていると、ネガティブになってしまう。

心身のバランスが大切だと感じました!

後は6月の模試の結果が悪かったことも影響していたと思います。

全教科で自己最低点でした。(´・ω・`)
志望校もE判定…。

ショックでした。
勉強の成果が出ていると思っていたんだけどな…。

でもこの時期は点数が上がりにくいから、忍耐が必要ですよね☆

すぐに点数が上がったら苦労はしないんだし。

夏が天王山。

諦めたらそこで試合終了。

やめない限り失敗することはないんだ。

続けることが大切なんだ。

絶対点数上げてやる。

できると信じること。
それができるということ。

来年の春は笑っていられるように、今を頑張りたい。
未来を信じることから始めていきたい。

また頑張っていきたいです☆

神が捜してくださる

2009年06月14日 20時36分57秒 | キリスト教
今日は日曜なので教会に行って来ました

説教題/神が捜してくださる

聖書/ルカによる福音書15章1節~10節

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

そこで、イエスは次のたとえを話された。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

言っておくが、このように一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

~感想~

僕たちは自分が愛している人を見失ったり、大切なものを無くした時は一生懸命捜しますよね。

今回の聖書の箇所に出てくる「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえは僕たち人間を意味しています。

そして「羊飼い」と「女」は神様のことです。

まず羊のたとえですが、ここにいる99匹は神様の言い付けを忠実に守る羊です。

残りの1匹は神様から離れていった迷子になった羊です。

しかし神様は離れていった羊でも懸命に捜してくださいます。

神様にとっては1匹の羊もいなくなってはいけないんです。

1匹1匹の羊をどれほど愛して下さっているのかが分かりますよね。

次に銀貨のたとえですが、当時のドラクメ銀貨1枚は1日の労働賃金で、今の日本で考えると約千円になるそうです。

千円は取るに足らないものですが、神様はそんな弱い僕たちでも捜して下さいます。

そしてこのたとえを話されている食卓には、徴税人・外国人など当時のユダヤ社会で罪人だと言われている人々がいました。

しかしイエス様はそんな疎外されていた人々を気にかけ、共に食事をなされました。

しかしファリサイ派や律法学者はそれが許せませんでした。

なぜなら「私たちは優秀で、この罪人たちは劣等な人々。気にかける必要すらない。」と思っているからです。

自分の能力を過信するが故に神様の心が分からなくなっているんです。

自分だけを信じる生き方は死によって終わります。

しかし神様を信じる生き方は天国に繋がっていくんです。

なぜならイエス様は復活により死に打ち勝ったのですから。

僕たちは時々このファリサイ派や律法学者のようになってしまうことがあります。

気をつけなければなりません。
傲慢は罪です。

イエス様は僕たちひとりひとりの為に死なれました。

愛して下さっているが故にです。

このたとえ話のように、もしいなくなった人が見つからなかったら、その人は滅びに向かって行くんです。

だからこそその人を死から命へと救う為に見つかるまで探します。

本当にひとりひとりを愛して下さっておられるのです。

僕たちはこの愛の神様を世の中の人々に伝えなければなりません。

まずは自分にできる伝道から始めて行けば良い。

自分だけ救われたら良いと決して思ってはなりません。

僕たちキリスト者は隣人に仕える者にならなければならないんです。

隣人に仕える者こそが天の国では褒めたたえられます。

しかし伝道はひとりではありません。

神様が導いて下さいますから、安心していけますよね。

もちろん隣人を手助けする為には、その前にまず自分自身のことを見つめることが出来なければなりません。

僕はよく自分自身のことに必死になり、自分自身のことすら見えていない時があります。

まずは自分のことからですよね。

日々たくさんの問題にぶちあたり迷うことがありますが、どんな時も神様は導いて下さるので、信じていきたいなと思います。

爆笑問題のニッポンの教養

2009年06月11日 11時15分49秒 | 日常
一昨日は爆笑問題のニッポンの教養を見ました。

今回は東京大学先端科学技術研究センター教授の福島智さん。

個人的に大好きな教授なので、食い入るように見ました。
では感想にしてまとめてみます。

○障害とは何か

福島教授は障害学を研究されているわけですが、障害とは何なんでしょう?

辞書(大辞林)で調べてみました。

[1] 物事の成立や進行の邪魔をするもの。
また、妨げること。

[2] 身体の器官が何らかの原因によって十分な機能を果たさないこと。
また、そのような状態。

[3] 個人の特質としての機能障害(impairment)、そのために生ずる制約としての能力低下(disability)、その社会的結果である社会的不利(handicaps)を包括する概念。

教授は「障害とは、近代になって生み出された概念。

産業革命のころ、社会は大量生産を可能にする均質な労働力を求めた。

それは一定程度の労働に耐えうる身体条件を備えた均質な労働者を必要とする社会でもあった。

そこからこぼれ落ちる生産能力の低い人間を “障害者”とひとくくりにしたのだ。」とおっしゃいます。

生産能力の低い人間を障害者と社会が決め付けた。

確かに障害者は健常者に比べれば生産性は劣るし、効率的ではない。

近代合理主義は生産性の高いもの、生産能力の高い人間を求めます。

逆に低いものや能力の低い人間は排他していきます。

障害は障害者が決めたものではないですよね。

そもそも健常をプラス、障害をマイナスと定義することが近代合理主義の過ちかもしれない。

障害者にだって出来ることはある。
優秀な人もいる。

よく障害者はひとくくりにされがちですが、同じ体や心を持った人はいません。

人それぞれに体や心がある。

よってひとくくりにすることは間違っていますよね。

それに事故や病気で健常者から障害者になられる人もいらっしゃいますよね。

となるとその人は障害者というカテゴリーに入ります。

だから誰にでも障害者になる可能性はあるので、障害を考えるとは生きる上において必要不可欠なこと。

社会的弱者という言葉がありますが、障害者は社会から排他されることで弱者になります。

逆に言えば強者だって弱者になる。

やっぱり障害は困難ですから、人や社会のサポートがないと生きていけません。

ちなみに僕は両親がいるから介護してもらって日々を生きていけるわけですし、ヘルパー制度があるから風呂に入れます。

もし両親やヘルパーがいなかったら、一生その場から動くことが出来ずに他界しています。

でも人や社会からのサポートがあれば生きていけるんです。

効率は悪いけど、勉強だって、仕事だって出来るんです。

これは全ての障害者に当てはまること。

中には喋れなくて寝たきりの重度の障害者がいます。

でもそういった人たちには笑顔の力があります。

その微笑みは僕ら人を元気にしてくれます。

そういえば北朝鮮には障害者はいないと脱国者の人が言ってましたが、おそらく排他されているんですよね。

誰だって障害者になる可能性はあるのに排他は果たして許される行為でしょうか?

誰が障害者になってもおかしくないわけですから、また社会に出られるようにセーフティーネットを作ることが肝要。

だから社会保障制度は確固たるものにしなければならない。

やっぱり僕はキリスト教信者ですから、聖書に書かれている『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』という言葉を信じたいのです。

神様は僕にしか出来ない使命を果たす為に病気をお与えになりました。

今はまだ分かりません。

でも人は等しく他界する運命にあるからこそ、ひとりひとりに生まれた意味があると信じたいのです。

○幸福・不幸とは何か

昨日のテレビで福島教授は「私は、何が幸福か不幸かっていうのは、もちろん人によっていろいろあるだろうけれども、すごいしんどい経験をした時にね、つらさ、苦悩というのも何か意味があるんじゃないかなと思うことにしようと。

実は同じようなことを言っている人はたくさんいることが分かって。
ナチスドイツの収容所に入れられた経験のある人で、ヴィクトール・フランクルという人がいるんですが。彼の本を読んでいて、すごい公式に出会ったんです。

その公式は、絶望=苦悩-意味って言うんですね。

左辺に絶望があって、絶望=苦悩-意味。これは何を意味するかというと、“-意味”を移行したら、絶望+意味=苦悩ということです。

意味がない苦悩が絶望である。
で、苦悩と絶望は違うんだっていうことを、彼はアウシュビッツの経験から言っていて、私は同じことを18歳の時に考えて、全然違う時代と状況で似たようなことを考えている人がいるっていうことに出会って、すごく感動しましたし。

何が幸福か不幸かっていうのを考える、そのさっきの三つのフィールドの議論の中で、すごく重要な意味を持つのかなと。
苦悩があるから、しんどいから不幸だって簡単に考えるのではなくて、意味をそこに見いださせれば、それは絶望ではない。
新しい豊かな人生が見つかるかも分からないっていうふうに思っています。

だけどそのことと、具体的にどんな取り組みをするか、社会としてどんな取り組みをするかっていう話と、分けながら議論をして、その関係を考えていくっていうことが大事かなと。」

意味がない苦悩が絶望である。
苦悩と絶望は違うんだ。

この言葉に鳥肌が立ちました。

苦悩と絶望は違う。

絶望には意味はない。
そこには暗闇しかない。

でも苦悩は自分を大きくさせるものです。
苦悩という己との葛藤を乗り越えてこそ、豊かな人生が見つかるかもしれない。

要は考え方次第。

この公式も意味を左辺から右辺に移行することで、-意味から+意味に変わる。

だからどんな状態にいても意味がある。

その意味を見出ださずに絶望することと、その意味を見出だして苦悩することは大きな違いがある。

苦悩があってこその喜び。

苦あれば楽あり、楽あれば苦ですよね。

苦悩がないと生きている実感も湧かない。

そして福島教授は「自分は孤独で、目も見えない、耳も聞こえないから宇宙のどこかに放り出された気分になる。

孤独だからこそ人との交わりを渇望するんですよね。

自分の手を握ってくれた人がいた時はとても安心した気持ちになる。
その時は幸せだよね。」とおっしゃいました。

確かに障害者って孤独かもしれないね。

僕も今まで生きてきてそう感じることは多いです。

学校生活では友達と遊びに行く話になる時は僕だけ誘われなかったり、昼休みは教室に僕ひとりだけになったり、体育は見学、修学旅行や遠足には行けず。

確かに面倒だもんね。
まだ日本は障害者では行けない場所が多い。

でも孤独あるからこそ、人間付き合いを渇望するんですよね。
人間の大切さを知るんですよね。

そして自分のことを気にかけてくれる人と出会えた時は幸せだと感じる。

幸せは何気ないことだと思う。

また幸せは共有出来る場合もありますよね。

そしてそういった幸せを積み重ねて、生きていることは幸せだと感じるようになるんだろうね。

○生きている意味は何か

さっきの公式でもありますが、生きる意味は誰にでもあるんですよね。

命を授かるということは無から有となってこの世界に生まれること。

そう人間は有。
生まれるべくして生まれた。

ただそれはなかなか見出だせないですよね。

僕は18年間生きてきたけど、未だに漠然としています。

ヘレン・ケラーを主人公にした「奇跡の人」という映画があります。

その中でヘレン・ケラーはサリバン先生から家にある様々なものの名前を厳しく覚えさせられました。

でも両親からはそんなに厳しくするのは辞めて下さいと言われます。

しかしサリバン先生は「まずは覚える。そして意味は後からついてくるんです。」と言いました。

生きる意味も同じなのかなと思います。

生涯を終える時に自分の人生を振り返ることで、その意味を知るのかな。

人間が偶然生まれたものなら生きる意味は無いのかもしれない。

でも僕はそう思わない。

偶然ならば無から有となって生まれるなんて有り得ない。

神という存在がいるんです。

その神はひとりひとりに使命をお与えになる。

その使命の意味は天国に旅立つ時になって分かると思う。

その時にならないと本当の意味は分からないんだろうな。

限りある人生をどう生きていくかを考えることは大切ですよね。

あくまでも主観的な考えですけど。

まだ福島教授の言いたいことのほんの少しも理解してないけど、この教授の話をもっと聞きたい。

頭悪い僕だけど、もっと勉強したい。

人間は知らないことの方が多いけど、無知だからこそ知りたくなるんです。

学ぶって楽しい!!

聖霊を受ける恵み

2009年06月04日 20時38分10秒 | キリスト教
今週の日曜日はペンテコステ(聖霊降臨)でしたね。
感謝です。m(__)m

それでは久々に説教の感想を書きたいと思います。

説教題
「聖霊を受ける恵み」

聖書箇所
「使徒言行録2章37~42節」

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

すると、ペトロは彼らに言った。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

~感想~

今日の聖書の場面は使徒の一人であるペテロの説教です。

イエス様が救世主であること、十字架と復活を、御言葉と共に聖霊によって語りました。

まず僕たちが救われる為には次のことが大切なのだと思いました。

第一に自分自身を見つめること。

僕たちは罪深く弱い人間ですから、日々の生活の中で、嘘を付いたり、笑顔になれなかったり、人に対して悪意を抱いたり、人を非難したり、たくさんの罪を犯しています。

まずは弱い人間だと知ることから始めるべきですよね。

第二に悔い改めること。

自分の弱さと罪を認め、今までの人生を全てやり直し、生まれ変わる。

1番の例えは聖書に出てくる放蕩息子ですよね。

神様という父に自分の罪を告白する。

悔い改めとは神の胸の中で自分の罪を告白することです。

神様は僕らを心から愛して下さっているんですよね。

だから心配せずに正直になることが大切なのかなと思います。

これが神様の恵みです

そして第三に洗礼を受ける。

自分の罪深さを認め、説教、イエス様の十字架と復活の意味を理解した時に洗礼を受けることが出来ます。

僕も少しずつ説教の内容を分かり始め、自分の罪深さを知り、イエス様の十字架と復活を理解出来たと思った13歳の時に洗礼を受けました。

洗礼は僕たちが救われるという目に見えるしるしです。

だから洗礼は喜びですよね。

かの有名なマルティン・ルターはこういうことを言いました。

「困難が起こったとしても、それは洗礼を受けているということ。救われているということ。」
※ちょっと違うかもしれない。(>_<)

神様はひとりひとりに様々な試練をお与えになります。
でもそれは自分の信仰を強くする大事な出来事です。

僕たちには神様がそばにいらっしゃいますから、心配することはありません。

ちなみに僕はこの難病は神様がお与えになった試練だと思っています。
神様が与えて下さったのですから、必ず意味があるんです。

だから僕はこの難病の体だからこそ出来ることがあると信じています。

この病気は神様の栄光をあらわすものだと思います

僕に出来ることを見つけていきたい

この3つのこと全てが神様の救いです。

そして救われた人には聖霊が与えられます。
これは特別な神様の恵みです。
この恵みは神様を信じ続けることを支えてくれるものですよね。

そして聖霊を与えられた僕たちは、使徒の教えを忠実に守り、クリスチャンの相互の交わりやパンを裂くこと(食事の交わりと聖餐)や祈ることを大切にしていくことが出来ます。

そうして天国の道へと歩いていきます。

神様を信じることで、天国に行けるなんて幸せなことですよね

PS.
また上手くまとまらなかった。
もっと説教の感想ノートを綺麗にまとめていきたいな。