明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

NHKスペシャル「命をめぐる対話」

2010年03月22日 20時30分19秒 | 日常
昨日はNHKスペシャルを見た。
内容は「意識ははっきりしているのに、自分の意思を伝えられなくなったら、あなたはどうするか?」というもの。

この番組に出てきた人々はALSという年を重ねるにつれて、全身の筋肉がなくなり、見ること、話すこと、書くこと、食べること、動くことが全く出来なくなり、寝たきりになり、いずれは閉じ込め状態になって、意思の疎通が不可能になる病気。

僕の病気とは違うけど、同じ筋肉が壊れていく病気だから、いつかは僕もこんな状態になる。

今の法律では気管切開して人工呼吸器をつけると死ぬまで外すことは出来ない。

だから気管切開をする前に人工呼吸器をつけるか、つけないかを選ばなければならない。

僕だったらどうするだろうか。

ちなみに番組に出演した人はすでに気管切開して人工呼吸器をつけてしまっているから、死ぬまで生き続けなければならない。

自分の意思を伝えることが出来る状態ならば、生きている実感はあるけど、それすら出来なくなれば、死ぬことよりも辛い。

だって人間は他者と交わらなければ生きてはいけないから。

でも自分を支えてくれる家族、友人といった共同体がいれば生きていける。
たとえ意思が伝えられなくなっても、家族や友人の語りかけが支えになる。

でも家族や友人すらいなくて、病院で全てにおいて孤独な状態になったら、精神が崩壊するかもしれない。
そんな状態で生きていけるだろうか。

この番組に出演した照川さんは「完全な“閉じ込め状態”になったら死なせてほしい。闇夜の世界では生きられない。人生を終わらせることは“栄光ある撤退”」と言っていた。

医療の進歩により死ぬことが難しくなった現代。

僕はそこまでして延命する必要はないと思った。
むしろ生きることに執着せず、自然のままに死を迎えれば良いんじゃないかな。

僕が尊敬している吉田松陰の特に好きな言葉がある。

「十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。
二十歳には、おのずから二十歳の四季が、
三十歳には、おのずから三十歳の四季が、
五十、百歳にもおのずからの四季がある。」

「私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げたものはないが、
(それでも自分が死ぬという今は)やはり花咲き実りを迎えたときなのである。」

人生は長さではなく、どう生きたかなんだ。
最後は人それぞれの満開の花が咲く。
志し半ばで死んでも良いじゃないか。
やるだけのことをやれば良い。

それに健康でも病気でも人はいつ死ぬか分からない。
明日のことは神様しか分からない。
それはみんな同じ。

だから限りある時間を無駄にはしたくない。
これは病気が教えてくれたこと。
10代から死を意識出来るなんて素晴らしいことじゃないか。

そして僕は死は終わりではないと思う。
人間の体は滅びるけど、人間の霊魂はなくならないと思う。
やっぱり死後の世界はあるんじゃないのかな。
無になるとは思えない。

まだ生きるとはどういうことかも理解していないから、死ぬことも理解出来ないけれど。

毎日を一生懸命に生きよう。
そして死を迎える時に自分が生まれた意味が分かると思う。
意味は後からついてくるのだから。

「志を立てるためには
人と異なることを
恐れてはならない
世俗の意見に
惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を
思いわずらうな
また目前の安楽は
一時しのぎと知れ
百年の時は
一瞬にすぎない
君たちは
どうかいたずらに
時を過ごすことの
ないように」

この吉田松陰の言葉のように生きたい。