明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

聖書と歴史における"地方"の重要性

2009年08月28日 20時34分03秒 | キリスト教
こんばんは。

今週の月曜と火曜は教会の修養会に行ってきました。
熊本県人吉市まで行ったのですが、周りは山で緑豊かな良い場所でした。

ホテルの食事の量が半端なくて驚いた。
これじゃ学校の学食ww
もう少し量を減らして、質を高めて欲しかった・・・。

僕が属しているキリスト教改革派の九州の各教会の人たちの交わりがありました。
そして講演会もありました。

今回の講演テーマは「聖書と歴史における"地方"の重要性」。

最近は地方分権など地方は話題になることが多いですよね。
先生のお話がとても良くて、聖書を新たな視点から見つめることが出来ました。

では自分なりの感想を綴ってみたいと思います。

テーマ「聖書と歴史における"地方"の重要性」

聖書箇所「マタイによる福音書4章12節~25節」

イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海辺の町カペナウムに行って住まわれた。
これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガラリヤ、
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた、「悔い改めよ天国は近づいた」。

さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベタイと一緒に、船の中で網を繕っているのをごらんになった。
そこで彼らをお招きになると、すぐ船と父をおいて、イエスに従って行った。
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。
こうして、カリラヤ、デカボリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

~感想~

まず地方とは一体何なのでしょう。
一般的に中央や都市圏に対して、地理的・経済的・社会的に辺境という意味になりますよね。
それから田舎・貧困・保守的というイメージがあります。
今の日本ではマイナスであるという印象も持たれがちです。

聖書から考えていきますと、アブラハムが神の啓示を受けたのはカナン、モーセが啓示を受けたのはミデアンの荒野、そして預言者たちにとって荒野が聖なる場所でした。
イエス様もベツレヘムの馬小屋でお生まれになり、ガリラヤで伝道を始められました。
どれも当時で言う地方です。

つまり地方というのは純粋に神の言葉に耳を傾けられる場所なんですね。
神はそういった場所に僕たちを導いて下さいます。

逆に都会エルサレムはイエス様や預言者たちにとって死を意味しました。
人の欲であふれているので、人々はなかなか神の言葉を聞こうとしません。

地方のような栄えていない場所でこそ、人は自分の弱さに気づき、自然の中にいるからこそ、心を開いて神の言葉を聞くことが出来るようになりますよね。

イエス様は地方に住んでいる社会的に取るに足らない人を訪ね回りました。
イエス様は人が目さえ向けないような人に救いをもたらすんですよね。

弱いからこそ愛して下さる。
都会では神の言葉は忘れやすいのかもしれません。
でも地方では神の言葉は人の心の奥底に根を張り、育まれるんだと思います。

古代のローマ帝国の時代にはクリスチャンは迫害されました。
しかし人々が決して諦めることなく伝道することで、各地にクリスチャンが増えていき、ついに帝国が手に追えなくなったので、キリスト教が容認されました。

中世では教会の腐敗が進んでいましたが、キリスト教を建て直す為に、地方にあるそれぞれの修道院は堕落していた教会を非難しました。

宗教改革の時もルターが活動を始めたヴィッテンベルク、カルヴァンが活動を始めたジュネーブも地方でした。

全て地方の力によるものでした。
だから地方に伝道することはとても大事なことだと思います。

地方の教会のメリットは次の3つです。
教会の規模がそれほど大きくないので、福音の全体が見えやすくなります。

それから一人一人に丸ごと関わりやすいですよね。

規模の大きな教会だったら、ある一人が休んでもあまり気にはなりません。

でも礼拝の出席者が数人単位の教会では、ある一人が休んでしまうと精神的にもショックです。
だからこそ愛を持って接することが出来ると思います。

やっぱり人に気にかけてもらえるって嬉しいですよね。
そして互いの信頼関係が生まれると、喜びも悲しみも信仰も共有出来る。

ただし信頼関係というのはすぐに生まれるものではなく、長年の交わりにより育まれるものです。
やっぱり僕らは半信半疑な生き物ですから、傷付くことからよく逃げてしまいますよね。

すぐに結果を求めてはいけない。
待つということが必要ですよね。

機能性優先よりも人優先なのが地方の教会です。
時間をかけた教会形成だと思います。

お互いの信仰が共有出来ると、聖書の言葉は僕たちの心の中に刻み込まれると思います。

そして生きているのではなく、生かされているということを実感しますよね。
なぜなら人間は誰も一人では生きられないのですから。
これはクリスチャンとして重要なことだと思うんです。

もちろん地方は人間関係が濃密になりやすいので、家族・親戚・村といった共同体のしがらみがあるのも事実ですよね。

共同体の存在が信仰生活の壁になることはよくありますし。。

その点、都会は人間関係が希薄になりやすいですから、やりやすい面もあるのかもしれません。

しかしその壁を乗り越えることが出来れば、信仰はますます確固たるものになっていくと思います。

地方は離れていますから、孤立化させないことが大事で、また地方の教会も発信することで孤立化しないように心掛けることが大事ですよね。

そして働き人の確保と経済的な支援の問題も解決しなければいけないと思います。

福音は地方からと確信を持って、信仰と愛と希望を持って、僕も活動していきたいです。

全ては受容から

2009年08月07日 20時59分45秒 | 日常
こんばんは

今週の日曜から今日まで入院してました。

今回は胃腸炎でお腹が痛くなり、なおかつ心臓の働きに問題があり、心臓発作みたいなのが起きたことが原因でした。

検査した結果、心臓の薬を服用することになりました。

それにしてもまた入院してしまった。
これで今年になってから4 回目だからなぁ。

命を最優先にして生きていきたいものですね。

ちなみに今回は個室が空いていなかったので大部屋に入院してました。
僕の他に4人ほど入院していたんですが、起きている時間は「点滴外してくれ。病院から出たいんじゃ。」と何度も看護士に言っている老人がいました。

どうやら病気になったことを認められなかったらしい。

その光景を見て思ったけど、今の自分を受容することは大切なことだよな。
でも1番難しいのかもしれない。

昨日出来たことが今日になると出来なくなる。
これって認めたくないよね。

でもそういう体になったことは変えられない現実だし、じたばたしても辛いだけなんだと思う。

でも病気になったことは、その人にとって必然な出来事なのかもしれない。

そういう経験をしていくことで人生の本質というものが分かってくる。

僕もこの体でしか出来ないことを見つけていきたい。

出来ることすらまだ見つからないから難しいことだけれど。

「全ては受容から始まる」という言葉が、最近になって身に染みて分かるようになりました。