明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

苦しみの意味を見つけられたら

2017年08月03日 17時47分33秒 | キリスト教
こんばんは♪ お久しぶりです。
夏バテで寝たきり生活になっていたので、日記を書く余裕がありませんでした。。

僕が7月16日に出演した
「ラジオ関西 キリストへの時間」の録音が、
番組ホームページに掲載されました♪

タイトルは「苦しみの意味を見つけられたら」です。

よろしければ、聴いていただけると嬉しいです。

録音を聴くには、この青字をクリックしてください

ガラケーでネットをしていて、録音が聴けない方のために、
以下に原稿を掲載します。


【哀歌 3章25~28節と31~33節】

「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。

主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」


「人は意味なくして生きることはできない」という言葉があります。この言葉は、『夜と霧』という本を書いたオーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルの言葉です。人は生きるための意味を必要とします。

人は何をするにしても、自分にとって意味がなければ、すべてを空しく感じるものです。どんな試練の人生を生きるにしても、人生の意味を見つけることができれば、希望を失うことなく、勇気を持って生きることができるでしょう。もし意味を見つけることができなければ、空しく感じるだけだと思います。

どんな苦しみの中に置かれたとしても、その苦しみに意味を見つけるなら、勇気を持って生きることができると、『夜と霧』に書いてあります。

今日お読みした聖書の言葉に、「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい」とあります。

辛い思いを抱え込むようなとき、あえてその苦しみの中に黙って身を置いて、苦しみそのものが語る声を聞けと、この聖書の言葉は勧めているのです。もし辛い思いを持つなら、そのときこそ、苦しみの意味があることを発見できます。

苦しみを背負わされることは、嫌なことです。特に、まだまだ人生はこれからだと思っている若者が、黙って苦しみを背負うのは、なおさら辛いことです。今はまだ苦悩など知らないという若者も、やがて、押し潰されてしまうような重荷を背負って、毎日生きるのが苦しくて仕方がないと思うときがくるかもしれません。

しかし、そのような苦悩の日々を過ごさないといけないときに、人はどうすればいいでしょうか。今日の聖書の言葉は、「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と語ります。苦しいときに、クリスチャンが神様のすばらしさを味わう秘訣は、ただ黙って、神様の救いを待ち望むことにあります。

この世には様々な不条理があり、苦しみもあります。しかし、そのような中で、神様の前で「嘆く」なら、そして、苦しみの意味を神様に尋ね求めていくなら、不思議な慰めが与えられます。神様を信じる人は永遠に見捨てられない、だから、神様の助けをじっくり待て、と聖書は語ります。

自分に背負わされている苦しみを、神様にあって味わう苦しみとして捉えるときに、希望が見えてきます。神様は私たちを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられないのです。私たちが背負わされる苦しみには、神様の目的があるのです。

ちなみに、私はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えています。いま26歳ですが、ドクターからは、余命は残り5~9年だと言われています。いま身体は手の親指だけしか動かせなくて、電動車椅子と24時間ずっと人工呼吸器を使って生きています。今年になってからは、ベッドで寝たきりの日も増えてきました。

でも、難病で重度身体障害者の私が、自分は不幸だと思っていれば、私と出会う人たちから、全ての病の人や障害のある人たちが不幸な人間だと思われてしまいます。そうなれば、私のような人は、生まれて来なければ良かった不幸な存在になってしまいます。

でも、私が生きる希望を失くさないで、喜んで生きていれば、病の人や障害のある人は不幸だと思う人は少なくなると思うんです。私の前向きな生き様を通して、日本におられる病の人や障害のある人を守ることにつながる、と信じています。弱さを抱える人が生活しやすく受け入れられる社会は、全ての人が生活しやすい社会になるはずです。だから、ただ競争するだけの社会から、共に生きる助け合う社会へと展開させる役割が、障害者で難病の私にもある、と思います。こう思えるようになってから、生きる力があふれてきました。

私には、こういう生きる意味があると、長く苦しい日々の中で、神様が教えてくださいました。私の喜びは、神様を信じて、神様を礼拝して、生きることだから、どんなときも喜んで生きていけます。

「神様が良いお方であり、良いことしかなさらない方である」というのは聖書が語る真理です。この真理を見失うとき、私たちは暗闇の中をさまようことになります。苦難には必ず意味があります。神様の目的があります。しかし、苦難の意味することは、すぐに分からないかもしれませんが、必ず意味があることを、聖書の言葉を通して、神様を通して、知ることができます。苦しみを経験した人が、苦しみの意味を見つけたとき、喜びが湧き上がり、生きる力さえもあふれてくるのです。

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