最近感じたこと。
人生が思い通りにいかなかったり、苦難に直面すると、信仰が揺らいでしまうときがあります。僕もまたそんなときがありました。
僕は2009年3月~2010年2月にかけて、病気の悪化で二ヶ月ごとに入院し、主治医も悪化の原因が分からず、とても苦しい状態で過ごしました。2009年11月になると一日の半分以上は寝たきりの生活をしていました。しかも受験の年だったので、勉強を頑張れない身体になった自分が悔しかったです。慢性的に身体中が痛くて、寝たきりの時間は何もできないから、苦しかった。。
でもそんなに苦しい日々でも、信仰と天国へ行く希望と神様や人を愛する思いは神様から守られていました。聖書には「いつまでも残るものは信仰と希望と愛である」という言葉がありますが、まさにその通りなんですよね。この3つがあれば最後まで生きていくことができ、また人生と神様を心から喜んで生きていけるのだと思います。
神様のなさることを疑わないことが信仰の強さです。でも人間は誰でも神様を疑ってしまうときが必ずあるんですよね。でもよく考えてみれば、僕らが信仰を持ったということは、人間の力によるものではなく、全て神様の恵みによるものですから、どんなことが起ころうとも、信仰と希望と愛は神様から守られるのだと思います。
時々僕って天国へ行けるのかなぁと不安になるけれど、ちゃんと苦難を忍耐できるように守られているんだね。これからも信仰が揺らぐときがたくさんあるだろうけど、そんなときこそいつも以上にお祈りしていきたい。
神様は僕らの人生の計画を愛を持ってしっかりと考えておられます。ということは人生に無駄なことはひとつもなく、万事が益となるんですよね。人間が願うことよりも、神様が与えてくださることのほうが遥かに僕らのためになります。これはいつも後になって実感できることだけど。。
2010年3月に僕の病気を専門とする名医と出会い、人工呼吸器を使用しながら僕はまだ生かされています。自分の願いとは違って、受験は失敗しましたし、今も病気は悪化し、学校・仕事・恋愛・結婚・子育て・長生きなど健康な人のような普通の生活は今は望めませんが、歳を重ねるにつれて、神様の恵みと慰めを大いに感じています。神様の恵みと慰めこそ、人間に真の平安を与えてくれる。
【コリントの信徒への手紙一 13章4節~13節】
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
【追記】
僕のような重い病気だと行動することが難しいから、愛の実践はあまりできないと思っていたけど、隣人や地球のために祈ることも愛のひとつなのかな。
でも愛は思いだけじゃダメだから、実践できる人間に変えられていきたいです。今の僕のように思いだけじゃ人に伝わらないからね。。。
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人生が思い通りにいかなかったり、苦難に直面すると、信仰が揺らいでしまうときがあります。僕もまたそんなときがありました。
僕は2009年3月~2010年2月にかけて、病気の悪化で二ヶ月ごとに入院し、主治医も悪化の原因が分からず、とても苦しい状態で過ごしました。2009年11月になると一日の半分以上は寝たきりの生活をしていました。しかも受験の年だったので、勉強を頑張れない身体になった自分が悔しかったです。慢性的に身体中が痛くて、寝たきりの時間は何もできないから、苦しかった。。
でもそんなに苦しい日々でも、信仰と天国へ行く希望と神様や人を愛する思いは神様から守られていました。聖書には「いつまでも残るものは信仰と希望と愛である」という言葉がありますが、まさにその通りなんですよね。この3つがあれば最後まで生きていくことができ、また人生と神様を心から喜んで生きていけるのだと思います。
神様のなさることを疑わないことが信仰の強さです。でも人間は誰でも神様を疑ってしまうときが必ずあるんですよね。でもよく考えてみれば、僕らが信仰を持ったということは、人間の力によるものではなく、全て神様の恵みによるものですから、どんなことが起ころうとも、信仰と希望と愛は神様から守られるのだと思います。
時々僕って天国へ行けるのかなぁと不安になるけれど、ちゃんと苦難を忍耐できるように守られているんだね。これからも信仰が揺らぐときがたくさんあるだろうけど、そんなときこそいつも以上にお祈りしていきたい。
神様は僕らの人生の計画を愛を持ってしっかりと考えておられます。ということは人生に無駄なことはひとつもなく、万事が益となるんですよね。人間が願うことよりも、神様が与えてくださることのほうが遥かに僕らのためになります。これはいつも後になって実感できることだけど。。
2010年3月に僕の病気を専門とする名医と出会い、人工呼吸器を使用しながら僕はまだ生かされています。自分の願いとは違って、受験は失敗しましたし、今も病気は悪化し、学校・仕事・恋愛・結婚・子育て・長生きなど健康な人のような普通の生活は今は望めませんが、歳を重ねるにつれて、神様の恵みと慰めを大いに感じています。神様の恵みと慰めこそ、人間に真の平安を与えてくれる。
【コリントの信徒への手紙一 13章4節~13節】
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
【追記】
僕のような重い病気だと行動することが難しいから、愛の実践はあまりできないと思っていたけど、隣人や地球のために祈ることも愛のひとつなのかな。
でも愛は思いだけじゃダメだから、実践できる人間に変えられていきたいです。今の僕のように思いだけじゃ人に伝わらないからね。。。
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神
様を真に慕い求める信仰者を評価する。
クライストチャーチ久留米山下牧師の礼拝
テープを聞きました。
内容に間違いがあるかも?
神様から貰った(もらった)
自分に何が大切か?
シンプルに貴方には、誰も真似の出来ない
世界が広がっています。
(北海道旅行とは、スゴ過ぎます!!)
全ての源である「思い」を大切になさってくださいね。