るんるんぴあの♪

ピアノレスナーERIKO。のつれづれ日記
大阪市都島区友渕町のピアノ教室です

無事退院

2006-04-28 | 家族
ここにいらしてくださっている皆様の温かい応援の祈りのお陰で
母は本日無事退院出来ました。
ありがとうございました。

お医者さんもビックリするほどの回復力でした。
これからも訪問リハビリを受けて、家事にも少しづつ慣れていってもらいます。
ヘルパーさんも頼める物は頼みたいので、ケアマネさんと相談する予定です。

お風呂に入り、会社帰りに旦那も実家によって
お祝いの乾杯。
母は涙をこぼして喜んでいました。

ちょっと母のことを書きますと、母は満州生まれの満州育ち。
天然リンクでスケートをし、地平線に沈む大きな太陽を見ていた大陸育ちなので
普通の日本人とはムードが少し違います。
敗戦により、一つ間違えば残留孤児でしたが、母の両親は絶対一人残らず
内地へ連れて帰る!!と大変苦労して内地へ引き上げてきました。

母は終戦で引き上げのとき、吉林高女でとったお免状を命と引き換えに
全部置いて来ないといけなかったのです。
その悔しさをバネに日本に帰ってからもう一度短大に行き直して
正看護婦・小学校免許・幼稚園・保母資格・衛生管理士の資格をとった
つわものです。
幼稚園教諭時代は敏腕でヘッドハンティングで引き抜きを何回か経験していました。
40代、仏教大学の通信で幼稚園の1級をとりましたが
「1級があればいいかなぁと思ったけど、結局免許よりも実力の世界だったわ。
勉強は楽しかったけど」
と笑っていました。
70になってからも大阪レクリエーション協会の講習を受けつづけて
インストラクターの資格も取り、車椅子ダンスやレク協会のセミナーに
講師として行ったこともあります。
いまもこの年齢にも関わらず、病院とデイサービスに出勤して
看護士として働いていました。
事故はデイサービスへの出勤途中だったのです。
そんな風に年をとってもずっと身体を動かしつづけているので、
異様に回復が早かったのかもしれません。

ただそういう派手なことができる母なので、
プライドも少なからずあったでしょう。
今回 弱者の立場に否応無しに立たされたことで、
母もまたいろいろ考える事があったと思います。
辛い経験も無駄ではないと思います。


私もしばらく母の介護が加わり、忙しくなりますが、
親孝行の機会を頂いたと思ってしばらく頑張ろうと思います。